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稲葉山城決戦 - (2008/01/11 (金) 06:11:12) の編集履歴(バックアップ)


稲葉山城決戦

稲葉山城決戦(いなばやまじょうけっせん)とは弘治4年5月20日に稲葉山城において飛騨の大名姉小路良頼(三木嗣頼)と美濃の大名斉藤義龍の間で行われた合戦。稲葉山城の戦い、金華山合戦とも呼ばれる。
姉小路家による美濃攻略第三次遠征にあたる。

概要

姉小路良頼が美濃攻略を目的として14400の兵をもって突如稲葉山城を急襲した。斉藤義龍は先の飛騨川の戦いによって多数の兵を失っており野戦で迎撃することが出来ず、8445の兵で稲葉山城に篭城した。
稲葉山城は井戸がなく長期戦での篭城には不向きな城であり、第二次美濃遠征時と違い、浅井家の援軍が期待できないにも関わらず、
義龍を中心に士気も高く姉小路の攻撃に対して激しく抵抗した。これは斎藤義龍明智光秀らの采配によるところが大きい。また、姉小路家も連年の出兵により兵糧が不足しがちであったため、苦戦を強いられた。しかしながら、小島職鎮や二木重吉の機転によって兵糧を買い集めることができたた
め、結局は圧倒的多数であった姉小路側が勝利し、浅井家の援軍を待たずして稲葉山城は落城した。

この戦いは姉小路家にとって決して楽な戦いではなかったようで、連年の出兵もあって兵士の厭戦気分が高まっていたとの
資料もある。それでも勝利を得ることが出来たのは後方からの物資の輸送や兵士の士気を高めるための方策を実行しつづけ
た姉小路頼綱を中心とした官僚団の後方支援によるところが大きかった。

合戦の影響

この戦いで姉小路良頼は美濃国を手に入れた。美濃は広大な土地で稲作も盛んであり、さらに多くの兵を養うことが出来るようになった。また、都市の規模も大きく、公家町もあったことから朝廷工作が行いやすくなった。しかし、何よりも重要なことは美濃の優秀な家臣団を吸収できたことであり、その後の姉小路家を支える中心的な役割を担う家臣団、美濃衆を組
織できたことであった。これらのことで、姉小路家はさらに勢力を伸ばし、列強の一角と呼ばれるに至った。

姉小路家が美濃攻略を急いだ理由

美濃城決戦が行われた時期は姉小路家は富山城の戦い飛騨川の戦いと連続して兵を他国に送った後であり、国力がかなり疲弊していた。なぜ、そのような時期に無理に出兵をしたのかについては以下のような説が有力である。

  • 美濃側は飛騨川の戦いで兵力の多くを失っていた。
  • 尾張の織田家と斉藤家の関係が悪く、織田家が北畠家を攻略した後に美濃に攻め込む可能性が高かった。
  • 例え織田家に滅ぼされなくても時間が経てば優秀な家臣を多く抱える斉藤家が復興するのは目に見えていた。
  • 越後の長尾家が力を伸ばしてきており、近い将来越中に攻め込んできて姉小路家が美濃を攻略できなくなる恐れがあった

以上の理由から姉小路家が美濃を攻略する時はこのときしかないと良頼が考えたとする説である。
この説が正しいかどうかは別として、結果的には美濃を攻略するタイミングとしてはこのときしかなかったと思われる。