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大聖寺城の戦い - (2008/01/20 (日) 15:24:00) の編集履歴(バックアップ)


大聖寺城の戦い

大聖寺城の戦いは永禄5年に姉小路家と朝倉家との間で行われた戦いである。


概要

姉小路家は御山御坊の戦いで朝倉家に大きな損害を与えたが、朝倉宗滴を中心に堅い守りであった大聖寺城を攻めることは難しかった。そこで1年間もの間加賀に兵を集め、浅井家を滅ぼすことと平行して朝倉家に内部工作をしかけた。竹中重治蜂須賀正勝によって朝倉家領内のすみずみに至るまで流言、調略が行われ、朝倉家当主朝倉義景の名望の無さも手伝いって兵士達の士気は削がれ、領内各勢力も朝倉家に援軍を出すことは絶対にないとすら思えるほどであったという。朝倉宗滴は苦慮して兵士の士気を高め、豪族達を説得しようとしていたが上手くいかずもはや大勢は動かない状況であった。
そのような姉小路側としては必勝とすら思える状況を作り、7月5日姉小路頼綱を総大将とした竹中重治及び蜂須賀正勝率いる2万もの大軍が大聖寺城を攻撃した。大聖寺城を守るのは朝倉宗滴率いる8000であった。戦況不利とみた多くの兵が姉小路勢に投降したがそれでもなお宗滴を信じて戦う将兵もおり、竹中蜂須賀両隊の損害も小さいものではなかった。全体としては姉小路側が圧倒的有利であったが宗滴が辛うじて兵を統率して膠着状態を作っているという状況であった。
姉小路家が攻めてきたという報が入った時から義景は各豪族に使者を送って兵を集め、朝倉家の重鎮であった朝倉景鏡をなんとか説得して1万3千の援軍を組織してアリス・マーガトロイド、朝倉景鏡に救援に向かわせた。
援軍入城後も朝倉方の士気は上がらず投降するものは後を絶たなかったが、それでもなおアリスと景鏡に兵を預け城下にうって出させた。しかし、竹中重治は城の守備兵の一部を内応させ景鏡を攻撃させるという奇策を行う。この奇策により朝倉軍全体が大混乱に陥り、景鏡隊は混乱を鎮めるために城内に後退せざるを得なくなった。この時点でもはや軍の形を成していることすらが不思議な状況であったという。しばらくしてアリス隊も奮戦むなしく城内に後退している。
その後も抗戦を続けるも姉小路側15000人に対して6000人と圧倒的な差がついており士気も低く、結局10月10日に落城した。主だった武将達は落城寸前に脱出している。

この戦いの影響

この戦いの結果朝倉家は動員できる兵力のほぼ全てを失い、滅亡がほぼ確定となった。姉小路家は一乗谷を攻略する上で重要な軍事拠点である大聖寺城を手に入れたため、越前攻略、朝倉家併合の流れができた。

朝倉家の援軍について

援軍が13000も集まったことに対して、越前、若狭の多くの勢力が姉小路家に通じているような状況で朝倉義景がいかにして豪族や一門を説得できたのかは分かっていない。一説にはアリスが義景に頼み込んで自身を使者に任じてもらい各豪族に兵を出させるように説得したと言われている。朝倉景鏡を説得したことで朝倉一門からも兵を出すこととなり、13000もの兵を集めることが出来たといわれている。客の身分であり、朝倉家に対してさほど恩を感じる立場にない彼女が多くの豪族や一門に見捨てていた朝倉家の為に熱心に動いたのかは分からないが、その後に一将として軍を率いていることからこの説はそれなりの信憑性を持っている。

逸話

この戦いの後、竹中重治は運に助けられた部分も大きかったと述懐している。内応させて同士討ちの形をさせた計略は成功する見込みが高いと思って行ったことではなく、あの計略が失敗していれば勝敗の行方はわからなかっただろうと言ったといわれている。後に家中に入る朝倉宗滴を慮ってのことでもあるだろうが、これは本心でもあるだろう。蜂須賀正勝、姉小路頼綱も似たような述懐をしている。

この戦いに敗れた朝倉方では落城と共に自決をしようとする者もいたが、朝倉宗滴はそれらの者を止めて朝倉家の滅亡を見届けてからでも遅くないといったという。遠からぬ朝倉家の滅亡を予測していた言葉であると共に、朝倉家と運命を共にしようという者が居たということが伝わるエピソードである。

脱出後、敗走中に朝倉宗滴は配下の将達と多くの言葉を交わしたと伝えられている。遺言のように取れる言葉もあったという。アリスには今までの非礼を詫びると共にまがりなりにも戦いができる状況を整えてくれたことへの感謝の言葉が述べられたという。

宗滴は一乗谷城に着いた後、軍の指揮をしていない。理由については、一門の内から敗戦の責を問われたという説や怪我をしていたという説などいろいろあるが分かっていない。ただ、宗滴は当主の代理として指揮をしていたので当主がいる城は当主が指揮するのは当然であるとも思われる。