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足利義秋(足利義昭) - (2008/01/07 (月) 17:15:32) の編集履歴(バックアップ)
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足利義秋(足利義昭)(あしかがよしあき)(天文6年(1537年- )
足利将軍家(一門)、剣豪将軍と名高い
足利義輝の弟。
僧名は覚慶。
足利義輝が現役であるから、彼はまだ坊主のはずなのだが。
(将軍家を維持するためとはいえ)妖怪を幕府の要職に就かせ大軍の指揮権を与えるなどを行う兄と反発。
洛南会戦には参戦したが足利家敗戦以後、その姿が見られず消息不明となる。
東に向かったとは考えにくく、信長同様西に逃れた可能性が高い。史実と同じく毛利か?
☆出生・家族構成
☆官位・役職
☆参加合戦
革新能力 |
統率28 |
武勇14 |
知略92 |
政治82+5 |
義理30 |
足軽D |
騎馬D |
弓B |
鉄砲D |
計略A |
兵器C |
水軍D |
築城D |
内政B |
|
義昭。室町幕府15代将軍。義輝の弟。信長によって擁立されるが後に対立し、
信玄らに呼びかけ信長包囲網を形成。敗れ追放された後も政治工作を続けた。
信長をも苦境に陥れた策略家か、幕府の終焉を招いた無謀なる将軍か。
何かと評価の分かれる人物である。信長の野望シリーズでは大抵前者扱い。
兄義輝の暗殺の時に京都で幽閉されかけたが脱出に成功、その後流浪していたが、信長の支援を受け将軍に就任。
その後信長との関係が悪化、持ち前の権力と計略で以って信長包囲網を構築するものの失敗に終わった。
京を追われた後も権威復活を望んでいたが秀吉の天下の時に秀吉の配下となった為、諦めたものと思われる。
「最後の将軍になる程度の能力」