*姉川の戦い '''姉川の戦い'''(あねがわのたたかい)とは永禄3年に姉川河畔の野田にて姉小路家と浅井家で行われた 戦いである。野田合戦ともいう。 **概要 [[姉小路良頼>姉小路良頼(三木嗣頼)]]は浅井家攻略を目的として8000の騎馬隊を[[竹中重治]]に預け、 支援のための3000の鉄砲隊を[[霧雨魔理沙]]に預けて北近江に侵攻させた。それに対して浅井家の実質的な 実権を握っていた[[浅井久政]]は[[磯野員昌]]と共に兵9000ずつを率いて自身で迎撃した。当初、浅井家が 多数であったので浅井有利と見られていたが、実際には連年の六角氏に対する久政の弱腰外交や同盟国である 美濃斉藤家に援軍を出さなかったことに対する家臣団の不満などから信望を失っていた久政では軍が上手く統 率することができず、あっさりと潰走してしまった。磯野員昌が率いていた軍も友軍の潰走を見て動揺し、勢 いに乗った竹中騎馬隊の強襲に耐え切れず壊滅してしまった。また、霧雨鉄砲隊が常に後方から火力による支 援を行っていたおかげで迅速に久政を潰走させることが出来たため、このような各個撃破の形を取れたことを 忘れてはならない。 このような形で勝利をものにした姉小路勢であるが、常に前線にあって倍以上の敵と戦ってきた竹中騎馬隊は 半数近くを討ち減らされており攻城戦は困難であると判断し、美濃に引き上げることとなった。 **この戦いの影響 この戦いに敗れた久政は家臣の信望をいままでに増して失ってしまった。そこで、敗戦の責を受けるという形で、 この戦い以前に行われた野良田の戦いで大いに家臣を信服させていた名目上の当主であり自身の息子である、 [[浅井長政]]に実権を譲らざるを得なくなった。このような外憂内患から、兵の半数以上を失った上に、多くの 兵の心が離れてしまったが、実権を握った長政はすぐさま浅井家家中をまとめる諸策を行い、再び浅井家をまとめ つつあった。しかし、あまりにも与えられた時間が少なかった。この戦いの4ヵ月後には姉小路家は再び北近江 制圧のための軍を起こし、結局は多くの離反者を出して浅井家は姉小路家の軍門に下ることとなる。 **霧雨魔理沙起用について この戦いでは異能の者である霧雨魔理沙が主将として[[斎藤利三]]及び[[明智秀満]]を副将に美濃衆鉄砲隊を率いて いる。これは異例の人事である。両者共に形式的には姉小路良頼の直属の臣であるが、実質的には[[明智光秀]]の家老で ある。また、率いる兵の多くも明智家家臣を中心とした美濃衆であった。通常、このような人事は大いに不満を生む可 能性があるためありえない。しかも人事はどうやら光秀本人の推挙によるものらしい。彼は自身に代わる者として魔理沙 を推薦し姉小路良頼及び自身の家臣を説得した。当初は良頼も難色を示したが、結局は光秀の言うことに従うこととなった。明智家家臣はこれまでに、魔理沙が光秀の副将をつとめたことがあったため秀満、利三及び多くの家臣は素直に従っ たが、一部には強く反発する者もおり心中ではやむを得ず従った者も多かったという。光秀が出した利三、秀満両将に宛 てた手紙にも細々とした心遣いが読み取れる。しかしながら両将については以前から魔理沙の実力を良く知っていたので 不満を持たずよく補佐したという。いざ戦いが始まると、彼女は軽々と大筒のような大砲を放つなど豪勇を示し、優れた 指揮をおこなったため、家臣団は大いに信服し、彼女の豪勇ぶりを褒め称えたという。 光秀がなぜこのような人事をしたかには諸説あるが、今後異能の者が指揮をする機会が増えると考え、その実力を家臣団 に知らしめ、指揮をやりやすくするという意図で行ったのではないかというのが有力である。また、異能の者との融和を 深めるという点でもこういったことは有効であると考えたとも思われる。常に傍らに異能の者を従えていた彼らしいエピ ソードであろう。