*観音寺城の戦い '''観音寺城の戦い'''(かんのんじじょうのたたかい)は永禄5年に観音寺城において姉小路家と六角家の間でおこった戦い。 **参加兵力及び戦力評価 姉小路・小谷城兵 先鋒隊 :騎馬隊9500:[[武田信虎]]、[[斎藤義龍]]、[[紅美鈴]] 第二部隊:騎馬隊9500:[[朝倉宗滴]]、[[博麗霊夢]]、[[アリス・マーガトロイド]] 火力部隊:鉄砲隊9000:[[明智光秀]]、[[霧雨魔理沙]]、[[リグル・ナイトバグ]] 六角・観音寺城総勢14891 守将:六角承禎 迎撃部隊:弓隊5000:六角承禎 第二部隊:弓隊5000:吉田重政 六角は弓に秀でているものの、多数の勇将を揃える姉小路の敵ではない。戦力差は歴然である。 **概要 浅井朝倉両家を屈服させ、後顧の憂いをとりはらった姉小路家は畿内制圧の足がかりとするために南近江にある観音寺城を攻撃した。 兵を率いる将は[[武田信虎]]、[[朝倉宗滴]]、[[明智光秀]]と錚々たる面々であった。 対する六角家では弓の名人であり前当主でもある六角承禎とその弓の師匠である吉田重政が弓兵を率いて迎え撃った。 実際の戦闘でも二人の弓の実力は素晴らしく一矢の無駄もなかったという。このとき吉田重政が一町先から鉢金を射抜いて射殺したという伝説が残っている。 思わぬ遠矢に姉小路勢は大いに驚かされたが、猛将武田信虎は足を止めるどころか意にも介さず突撃し一気に陣を壊乱させてしまった。 そのまま攻城戦になだれ込み、朝倉宗滴の計略や明智光秀の鉄砲隊によって六角側には観音寺城を守るだけの気力も兵力も失われ、わずかな抗戦の後、降伏してしまった。 この戦いは個人の武勇が戦局に影響を与えなかった好例であろう。 吉田重政と六角承禎は確かに弓の名人であったが、彼らは兵を率いて戦うことを得意としていなかった。 **逸話 この戦いは武田信虎が姉小路家に突然仕官してきた後の始めて戦いであり、さして規模の大きな戦いでなかったのにも関わらず彼自身の知名度もあいまって内外から大いに注目されていた。 結果としては非常に鮮やかな勝利であったため、世間に「武田信虎健在」を大いにアピールすることが出来たという。 このことは武田家臣団にも若干の動揺があったらしい。 武田信虎と斉藤義龍という2人の騎馬隊を扱う名将が同じ部隊に所属するという極めて珍しい人事が行われた戦いでもある。 この際、主将が信虎で義龍が副将にとどまっているのは、上で述べたような効果を狙って義龍が進言したと言われている。 また、万が一信虎の実力が指揮するに耐えないほど衰えている場合は義龍が指揮するという配慮もなされていた。しかし、結局はこの心配は杞憂に終わった。 信虎は部下に厳しいと言われており、実際とある女性武将が行軍の休憩中に昼寝しているのを見つけて大いに怒鳴ったという。 その際、その武将はシエスタであることを主張したが当然聞き入れられなかった。 降伏に際して、[[蜂須賀正勝]]が降伏勧告の使者として訪れた。 [[六角義治]]は大いに怒って一時は使者を斬ろうと言い出したほどであったが、そのときは義治の側近と[[後藤賢豊]]の必死のとりなしで事なきを得た。 正勝は既に義治の側近達を懐柔しており、六角家家臣達も既に抗戦できる状況でないことは重々悟っていたため、結局義治は周りの者に説得され押し負ける形で降伏勧告を受諾した。 この戦いが始まる前に日食のように天守閣の一部が欠けたかのように見えるという珍事があったという。このことは多くの農民や六角家家臣が目撃している。六角家が滅びる凶兆であると人心を動揺させたという。 **この戦いの影響 この戦いの結果、大名としての六角家は滅び、姉小路家は南近江を手に入れた。また、近畿各地に侵略する足がかりを得た。後に姉小路家は観音寺城に本拠を移すこととなる。 //最近ネタに走りすぎてるでしょうか?ちょっと反省してます。 //大聖城の戦いがなかなか面白くならないなぁ。難しいです。悩み中。 //記述が偏って宗滴隊と光秀隊が空気になってしまいました。今回は信虎にスポットを当てるつもりでしたので、 //ある程度は意図的なのですが、いくらなんでもとも思います。悩み中。