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堺撤退戦 - (2009/03/11 (水) 01:43:06) のソース

*堺撤退戦
堺撤退戦(さかいてったいせん)とは永禄11年に姉小路家と三好家の間で起こった戦いである。

**参加兵力及び戦力評価

姉小路・堺駐留兵 0(正規軍に限る)
守将:[[七里頼周]](三好の攻撃開始の際には既に撤退済み)
残物資
馬:0
鉄砲:0
(ただしこれは三好攻撃直前に限る)

撤退部隊(10月3日)
輸送隊10109:[[七里頼周]]

三好・勝端城兵11217
鉄鋼船:鉄砲隊6500:[[三好長逸]]、[[織田信長]]

鉄砲の性能、実戦運用に関しては姉小路側に一日の長があったが、三好は最新兵器、鉄甲船を実戦に投入し、不利を補おうとした。
姉小路は多方面で作戦を行っており、この三好の進撃への対応は、実質的に不可能の状態だったといえるだろう。

**合戦概要

第二次姉小路包囲網結成後、虎視眈々と畿内奪回の機会を伺っていた三好は姉小路の尾張攻勢、上杉の越中攻勢をその好機と考え、堺への攻撃を決断した。
 9月下旬に三好軍主力は勝端城への集結、編成を完了、10月に入るなり出撃を開始した。
姉小路にその方が伝わったのは、四国沿岸に少なくない労力を払い、弱体ながらも張り巡らしていたピケットラインが街道を北上する三好軍を発見した10月3日が有力とされている。
 この頃の姉小路にとって、海というのは全くの異質の存在であった。飛騨出身の重鎮達はその戦い方を知らず、意外な事に異能の者達でさえ、海のなんたるかを知った者は不在であった。
 また、有力な将のほとんどが不在の状況下でもあり、姉小路側は戦えばいたずらに損害を増やすと判断し、撤退を決断した。
//三好水軍は11月下旬には堺港を攻撃圏内に収め、同日に攻撃を開始した。
// まず、防盾を備えた関船の大軍が大和川を封鎖、続いて堺港に対して鉄甲船が砲撃を開始した。
//のべ3万発の射撃の後、全く姉小路の反撃がないことに気づいた三好は、夜間に堺近くの浜辺に上陸、早朝、堺に姉小路兵が全く居ないことを確認すると、
//市街地へ突入。これを占領するに至った。
最終的に堺が三好の手に落ちる11月28日までの間、堺の街はかつてないほどの慌ただしさを迎えることとなる。(詳しくは後述)

なお、同時に進められていた吉田郡山攻めはあっさりと追い返されている。
 
**この戦いの影響
 三好はこの勝利によって再び近畿への足がかりを手にすることができた。だが、既に堺の街の機能はほぼ失われており、三好の期待した莫大な戦略物資、及び姉小路の築いた畿内の交易ネットワークの破壊は行えず、姉小路の収益にわずかな打撃を与えたに過ぎなかった。
//むしろ最終的には姉小路の国力を上げてしまったといっても過言では無いだろう。
//堺を失った姉小路は、軍の主力は大坂へ、経済に関しては摂津、河内の内陸部へと拡散させた。
//完全に放棄した事も手伝い、民はほぼ完全に無事であり、後の経済発展に伴い各所に分散した経済圏は広がり、引いては一つの巨大経済圏を形成する事となる際に、彼らと彼らの子孫は大きな力となった。
//多分1700年以降のお話です。最も、ここまで行くとどう考えてもメガロポリスって奴ですけど。ごめんなさい。調子に乗りすぎました。気に障ったら何も
//言わずにがーっと消してください

**逸話
余談ではあるが、以前にも三好は堺への侵攻を行ったことがある(1565年10月・Act50)が、そのときは清水宗治にあっさりと追い返されている。このときの兵力は姉小路10000、三好15000であったことは当時の三好水軍の貧弱さを物語っている。(あるいは水上での鉄砲戦に馴れていなかっただけか)
//年表にすら書かれていない戦闘その2。
ついでに言えば、今回の三好軍は織田信長が参加している。かつて織田家によって畿内を追われ、その信長と共に畿内への帰還を果たした三好家。長逸あたりは心中複雑であったことだろう。

「天下の大夜逃げ」堺撤退戦

堺の特徴

後の歴史ではあまり深くは語られていないが、この三好の堺攻勢は永禄11年に起こった合戦の中では、尾張攻略戦と並ぶ極めて重要な戦いであった。
尾張への攻勢は、武田に対する東征の始まりを意味したものなのは、最早語る必要もないだろう。武田にとっても尾張は、疲弊した経済、軍事力を立て直す要衝であり、状況次第では弱体化した北条にとどめを刺す為の攻勢拠点であった。
 尾張が軍事的に重要であったのに対し、堺は別の意味、すなわち経済の面で非常に重要な都市であった。
この時代、既に堺の街の人口は3万を越え、なおも増加する傾向を見せていた。
 平安時代、熊野詣や、弘法大師信仰を広める際の宿場町として歴史に登場した堺は、数百年の時をかけて徐々にその商業・軍事的特性を強めていた。
三好→織田→本願寺と名だたる大名家によって制圧された後でも、堺の自治組織(納屋衆や三十六人衆)はそれらに対し時には牙を向け、時には交渉することで他とは異なる一定の自治を認めさせていた。
 織田信長はそれを徹底的に弾圧、破壊する予定だったのだが、他家からの侵攻に呑まれ、実行する機会はついになかった。
姉小路が支配下になってからもそれは変わらなかった。(姉小路家は他の町と同等にしたかったようだが、高度な生産加工能力をも合わせ持つ堺の取り扱いにはかなり苦労したようである。)
もちろん、数々の大名家を苦しめた中には名だたる豪商が多数おり、彼らは堺を起点に畿内の各所で商売を行っていた。
 米、日用品、酒、醤油、塩などの生活物資、鉄砲、弾薬、槍、刀、武具といった軍需物資を収めた蔵は堺の至る所に存在し、その総量は姉小路の軍事活動を丸3年は支えられる程であった。
 また、畿内最大の人口を要し、交通の要衝でもあった大坂の街の台所という側面もあり、大陸から運ばれた硝石貿易の終着点でもあった。
本願寺が支配した経緯から一向宗の門徒や、南蛮貿易や布教のために訪れた宣教師なども大勢住んでいた。
文化的にも、宗教的にも、或いは経済的にも極めて重要な都市であった。

姉小路の経済特性

 姉小路の保有する総資金額は武田に大幅に劣っている。だが、これはあくまで表面上であり、その内実は全く違った。
 武田はその収益のほとんどを市場に流さず、手持ちに留めていた。これは民衆に力を蓄えさせず、反乱を起こさせない狙いだった。
そのため、兵一人一人に武具を買い与えなくてはならず、その武具の調達にも姉小路とは比べものにならない費用と時間がかかっていた。(流通網と市場が発達していないため)
一方の姉小路は絶えず資金を流動させる事によって、市場の活性化を狙っていた。これによって民の生活を肥えさせ戦役に伴う不満を逸らす狙いだった。
そのため、姉小路手持ちの資金は少なくとも、民や兵自体の生活レベルは比較的高く(美濃は例外的といえる)武具の調達等を個人単位で行える者が少なくなかった。(中には職人に頼み元込銃の銃身を切り詰めるなど、独自の改造を行った兵士もいたという)。その他にも物資の流通を良くするための街道整備や、疫病(脚気や結核から伝染病に至るまで)対策、寺子屋の設営、実施などの教育分野への投資。(飛騨、白川には武将専用の教育施設があったとされるが、後の地震によって該当地が、その他運営記録は火災によって焼失、詳細は不明となっており、何者かによる陰謀説も囁かれている)
//サティア・・・ゴフンッ。なんでもないです。
//内ヶ島乙
などの数々の政策は、いわば将来的な投資として実行していた。これによって姉小路の収益自体は年ごとに桁違いに増加し続けたと考えられている。
姉小路領内の循環資金は、その時代の他家全ての資金を合わせた額をも遙かに凌駕していたという。
そしてその流動資金が多く集まるのも、堺の特徴であった。

余談だが、姉小路は武将の統括については、武田、北条に比べ遙かに劣っていた。
松永、滝川、異能の者全般や本願寺などを抱えた大所帯とはいえ、その軋轢は大きかったという。

 
 話を戻すが、今回の三好の攻勢によって、この経済圏が一気に破壊される可能性が出てきた。
それを恐れた姉小路側は、当時からは考えられないほどの大規模な撤退戦を決心する。
豊かになったを言い換えれば、力をつけたといえる民衆がそれを後押ししたのも大きかった。特に商人的な思考が強く「権力に反抗的で戦に向かない」との風評がある摂津、河内の風土の特性が色強く出たということだろう
//自分も摂津の人間なので、こう書きましたが、気を悪くした方いたら申し訳ございません。

 三好側の状況もそれを後押しした。当時三好の軍港となっていた宇多津には小規模な水兵が配属されているに過ぎず、陸軍の大多数は勿論、水兵までもを勝端城に駐留させていた。理由としては、畿内を失い弱体化した戦力を少しでも補うため姉小路の同盟国、長宗我部を隙あらば攻撃し、軍門に下らせようという狙いがあったと見られている。
 陸上戦闘ではほとんど戦力としてあてにできない水兵をも配置したのは、長宗我部に対する戦力的な欺瞞工作という面が強かった。
姉小路の渡洋侵攻能力では宇多津を含めた四国東部に上陸してくることはありえないという判断の結果でもあった。
これが今回、裏目に出た。
勝端から出撃港となった宇多津(鉄甲船の整備が出来るのはここの港のみだった)までの行軍に無駄な時間を要することになる。
勝端に駐留していた水軍兵が、普段輸送にも関わっていない兵ばかりで、陸軍への転換を行っている最中だったのがさらに状況を悪化させた。
陸海ともに中途半端な練度しか持ち合わせていないため、行軍中に鉄砲を暴発させたり、方角を間違え、足軽頭もろとも一部隊が行方不明という惨劇すら広げた。
辛うじて港にたどりついてからも、多くの問題が噴出していた。
まず、鉄甲船に問題が発生していた。数年の時を得て[[パチュリー・ノーレッジ]]が開発した鉄甲船にも経年劣化が生じていた。
三好には新造艦を作る技術も設備もなく、けして効果的ではない修理、整備を行っているだけに過ぎなかった。
汐風によって船体には錆が回り、同時に多数のフジツボが定着、その無様な光景を見た[[織田信長]]はあまりの情けなさに笑いだし、哮喘の調子が悪く、吉野川近くの保養地で静養していたパチュリーは報告を聞くと、読んでいた書物を取り落とし、しばし絶句したという。
他にも何気なく兵が船縁を触ったところ、鉄片がポロリと取れたともいわれている。
やむを得ず、研究用に陸揚げしていた一隻の使用を急遽決定。
また、同時に行っていた安芸への進撃の為、鉄甲船に随伴する船が全て出払っており、呼び寄せるのに時間を要した。
 港にあった物資だけでは足りず、急遽勝端城から輸送したのも進撃速度の低下の一因となった。
海に出たら出たらで、別の問題が発生した。水軍練度の低下により、航法を間違えた随伴の関船が数隻行方不明になったり、外洋に比べれば凪のような海のうねりに耐えきれず、横転する小早まででた。
 それにもめげず、三好水軍は堺まで進撃を続けた。

姉小路側の対応

 三好の現状をそれなりの精度で探知していた姉小路は、この大がかりな撤退戦を決断した。
兵、民は本願寺の坊官上がりの七里頼周をこの撤退戦を行える器ではないと見ており、必然的に堺の街の実力者達がその中心となった。
 まず、名うての大手馬屋が薬師や産婦の協力の下、手持ちの馬を無償で、老人、子供、妊婦、身障者などに優先的に提供した。
 飯屋を経営する者達は続々と撤退先の石山への街道上で炊き出しを行い、街道は炊き出しの湯気が至る所で上がった。避難民の多くは『むしろ、避難しているときの方が旨い物を食べられた』と後に語ったという。
 呉服屋や京の高価な織物屋も迫り来る冬に備えさせるため、自ら蔵を開け、進んで着物を提供した。
豪華な錦の着物をきた童女を襲った盗賊衆が、これまた武具商人が提供した武具で武装した町民達に撃退されるという珍事まで引き起こしていた。
 七里頼周が撤退の報を聞き、動き始めた頃には既に、民の半数が堺の街から脱出済みだったといわれている。

流通面でも異常ともいえるほどの迅速さでその流れを変えた。
2週間も立たぬ間に、敦賀から搬送された硝石は京都北方の西近江路、朽木街道で止められ、それぞれ坂本、京に一時的に保管された。
堺市内にあった物資は門真、住吉、天満、尼崎などに全て搬送され、後に改めて軍事物資は姉小路が買い上げ石山へと送られた。
貸付金などに関しても、小規模な者は全て豪商達の寄り合いが全額即金で保証し、自らの分は後に姉小路に求めるという形に勝手に決めてしまった。
 交易船に関しても、岸和田、湊川などの近隣に避難させ、搬送できないと判断した場合は、これまで寄り合いが買い上げ、すぐさま燃やして、後に姉小路へと請求した。
あらかた終わった後、最後の仕上げとばかりに、鉄砲鍛冶、刀鍛冶の面々が残っていた丸薬を一斉に爆破し、自らの作業場を破壊し、敵が利用するのを完全に阻止した。
姉小路の内政官がせめて蔵の中の貴重品だけでも先に避難させようと意気込んで堺に入ったとき、既に市街地はもぬけの殻で、ねずみ取りの為の野良猫が多数いただけだったという。
それからしばらくして、三好水軍が攻撃を開始、堺を占領するに至る。

//や   り   す   ぎ   た
//1から作るのは初めてでして、至らんところがたくさんあると思います。修正、訂正大歓迎です

//長宗我部にしてみればこの時点で毛利・三好に挟まれているので動くに動けない状態だと思うんですけどね。毛利が四国の西にいるのでそれが長宗我部に対する抑止力になっているのでむしろ三好は安心して場所は違えど陸水同時作戦に踏み切れたと見るべきかと。
//というかまあ、長宗我部にとって姉小路との同盟ってあんまり利益がないんですよね。技術交換はしていても目の前の驚異を退けられるわけでなし。国力差考えると同盟と言うより長宗我部が姉小路傘下に入っているもんですし。ラスボス立志伝における従属大名みたいなもんか。若殿も後でおいしくいただきますとか言ってますし(言ってません)良くある話ですがひどい話だ。
//当の堺ですが、三好→織田→本願寺→姉小路ところころと、特に1563年あたりに支配者が変わっているのでそのあたりも考慮すべきかと。
//アドバイスありがとうございます。更に改正していきたいと思います。長宗我部に関しての下りは、三好家が毛利の状況を、本州から落ち延びてきて、
//今や気息奄々であり、部隊の再建途中でとても戦える状況ではない(抑止力はない)と見なしただろう。という判断で書いてみました。
//五月に一条家滅ぼしているのでむしろ長宗我部側が毛利をどう評価するかによると思います。中国から追われた割に兵力は9万超で、しかもこれは殆どが四国攻めの軍、長宗我部は2万ちょい。兵を動かせるか否かに関係なくでかい兵力というのは十分な驚異です。特に長宗我部のような弱小大名にとっては。と言っても当の毛利も四国ので地盤固めを重視して積極的には動かないでしょうから、よってどっちも動けない。
//ありがとうございます。また少し砂上の楼閣がまともになったと思います。ついでにもう少し現実的に考えるなら安芸を狙った三好主力は石山を狙うべきでしたね。そうすれば事実上孤立した点に過ぎない(過ぎなかった)堺、岡山ラインがつながって、姉小路に対して十分な脅威になったというのに。だけどそこまでの脅威になってしまえば姉小路が東征を取りやめて全力でたたきつぶしに来る可能性があったでしょうから(特に上杉は霧野さんが言ってらしたように時期的に出撃が難しいでしょうから、長政、藍を加えた越中駐留の将が来そうです。)、姉小路の主敵を上杉、武田に固定したままの上で可能な限りの戦果を狙って堺を襲撃した可能性がありますが・・・、まさかCPU・・・これを狙ったのか!?
//播磨の存在を無視しないでください。かわいそうじゃないですか、赤松が。まあ、COMは原則守りが一番薄いところ狙います。あんまり利口でもありませんし。
//完全に忘れていた。そうだ。何かおかしいと思ったら播磨が抜けてる。三木城に立て籠もって干殺しにあってきます。
//話が全然違いますが、大友はやっぱり島津に呑まれてしまうんでしょうか?高橋紹運が島津方につくのは余り見たくないなと最近思ってます。姉小路に流れてこないかなぁ・・・。
//「特徴」と「特長」とかを変換ミスとはいえ間違うとものすごい恥ずかしいです。自分が国語をろくに勉強していないのを暴露しているようなものですから。
//金属の経年劣化に関しての項は、金属関係の資料の結果次第で消去する予定です。記憶が正しければオーバーホール(分解修理)もフラム(近代化改修)も行わずに数年経ったのなら、上記の状態になるでしょうが・・・
//無償・・・料金を含めて料金、報酬、代償がないこと・・・。こりゃ本格的に勉強し直さないと・・・。
//金属関係はとりあえず大丈夫っぽかったです。当時の加工技術を考えれば、ですが。鉄片関係の元ネタは日本海海戦で「敵艦見ユ」を送った信濃丸のエピソードです
//面白かったです。質問&意見があります。どうでもいいことですけど、わからないことがあれば人に聞く!って橙に妖々夢で言われたので(ぇ!
//三好と堺って史実でも良好な関係でしたが、史上あんまり聞かない民間主導の焦土作戦をやるほど支配を嫌がるのはなぜ?合戦時の一時的な避難ならわかりますけど。自らの生活基盤を壊してまで姉小路家に自主的に協力するのはなぜでしょう?
//水軍って地元漁師とか運送関係者とか、船のスペシャリストが主体かと。船を動かしている人間が素人ってことはないと思います。勝端-堺間は瀬戸内では波が荒い方ですけど、おっしゃるとおり外洋と比べれば凪同然。外国から来てる船じゃないのだし、どうしたんでしょう?三好と水軍って密接に関係した一族ですし。弟二人とか特に。
//鉄砲頭単位で行方不明ってのは問題かと思うのですよ。新兵器の明智筒に慣れていないだけで兵自体は新兵ではないと思います。戦国戦い抜いている国ですからね。それに姉小路家との付き合いでなんやかやで明智筒無しでも鉄砲技術では先進国のうちにはいりますし。
//明智筒なしだと鉄砲鍛冶だけですよ、三好って。ですので西国の大名としては鉄砲技術は標準レベルだったと思われます。
//あんまり三好の錬度の低さを強調しすぎると後々の合戦で燃え分が足らなくなるw。
//あと、パッチェさん、新兵器作ったらちゃんとアフターケアまでしないと駄目よ。ここで壊たら、新造艦作れないのにうp主の五隻の縛りが・・・。史実でもこの辺は管理できなかったようで、江戸時代の技術として銅板を貼ったそうな。
//ああっとすいません。こちらの文章はまず最初に勢いに任せて書いた部分がかなり強かったので。今見るとものすごい無茶振りが多いです。
//指摘されるように三好と堺、及び陸軍練度の低さの自分なりの解釈をここで話しておきます。といってもかなり弱々しいですが。
// 三好水軍の練度低下はどちらかといえば、慣れない鉄甲船の使用に伴うものだと解釈してました。基本的に劣勢な側が強力な新兵器を持った場合、心理学的に使用するパターンが2極化されるといいます。溺れる者は藁をも掴むの理論でかなり強引に戦場に投入するパターンと、大切に持ち続けるパターンです。
//三好の場合はこの海戦に至るまでに鉄甲船を使用しての渡洋侵攻を一切行っていないことから、艦隊保全主義(フリートインビーリングといいます)に近い思想を持っているのではないかと思いました。三好に当てはめるならば、鉄甲船を常に四国沿岸に駐留させ、瀬戸内海に睨みを効かせる事で姉小路が攻めてこられないようにするということです。
// そのため、三好は訓練において気軽に鉄甲船を使えなかったのではないか・・・という解釈です。横転したのが小早と書きましたが、一応これにも今記述した鉄甲船に間接的に関係する理由があります。
//その説明を行いたいと思うのですが、結構長い文章になってしまうので、もう少し時間くださると助かります。
//正直、三好が堺きた!!よっしゃあ!!ってノリで書き始め、こういう部分を書きたいという考えを先に立ててそこから理由をつけていく方法("部分"を"シーン"に読み替えれば映画的手法と呼べるのかもしれません)で作ったので、かなり見る人にとって見苦しいものになっているという自覚はありました。
//どうかこの戦いをより美しく書ける方いらっしゃいましたら、どうか上書きしてください。
//この時代の船って一気に進歩しているんですよ。日本は大砲技術が発達していなかったので、やや特殊な例でしたが、ポルトガルやスペイン、イギリスがアジアに進出してきた時代で、当然ながら船も同様に進歩してきました。帆船黄金時代の幕開け。
//パチュリーは西洋魔女なので、ゲーム上の表記は鉄甲船でも、実は日本風ではなく、流れにそった西洋風が混じってるかもと思ってました。
//伝説的な活躍をした"ゴールデンハインド"や初代"アークロイアル"等の技術を取り入れたかも・・・。っと話がそれました。
//グレヴェリンス海戦ではスペインの無敵艦隊(アルマダ)は主力のガレオンやガレアスに護衛としてサブラやフラガタ、パタジエといった小型船を護衛につけていました。それと同様に、三好水軍も小早や関船を鉄甲船の護衛として使用しようとして、新たに護衛隊を新設するか、それとも既存の部隊から再編成するかに帰結したという。
//護衛なしの場合、白兵が主力だったこの時代の場合は(スペイン海軍サンマルティン号には水夫177名に対して兵士300人が乗っていました)、他に比べて小回りのきかない大型船では危険が伴うので不可。戦国自衛隊でも強襲揚陸艦エンタープライズが福島水軍?と接近戦していましたし。あれ面白かった。
//いざ護衛に新設部隊を作るならばどうするか。畿内の産業基盤を失った三好に果たしてその維持が可能だろうか?
//乾ドックの設置、維持、整備、船体の清掃、整備。艦載物資の調達、モラルの維持、慰労施設の設置など、海軍は陸に比べてお金がかかります。
//そのしわ寄せが訓練に来たのではないか(都合解釈)それに加えて特定の艦船(鉄甲船)に優先的に熟練者を集め、それに加えて本州(岡山地方)と四国東部沿岸という飛び地の管理にかなりの水軍艦艇が抽出されていて・・・。(イギリスが20世紀の戦いで大西洋、地中海、北極海、そして太平洋を守る為にかなりの戦力を分散したように)特に輸送品目の中には間違いなく金銭や弾薬、食料がありますから、これの管理はしっかりと行わなくてはならないでしょう。時期的にも台風が多い秋ですから、ちゃんとした人間(信頼できる人間=古参)に輸送を任せていた・・・のかも。
//その全てのあおりを食らう形で三好水軍、堺攻撃隊の練度が低かったという自己解釈です。まったくもって都合の良すぎの解釈です。考えていた頃の自分を殴り殺してやりたいw

//民間人が三好の支配を逃れて半焦土作戦を行った理由についての釈明。
//だんだん犯罪者が自己弁護しているような気分になってきましたwあはは、お手柔らかにお願いします。
//時代背景はまず、無視してしまいました・・・。人間を解釈したのではなく、損得という経済的理由での解釈でした。
//経済繁栄は一都市では不可能です。ハンザ同盟のように他の都市と結びついて、その交易によっての繁栄があります。
//三好の支配下に落ちてしまえば、畿内各所の交易線が切断されてしまう。そうなってしまうならば、堺から逃げればいい。
//単純に三好にいるよりも姉小路に居た方が儲かるのではないかという解釈です。
//今の三好にとって、堺を押さえる事は畿内奪還への第一歩ですが、客観的に見てしまえば大陸反攻への第一歩と言うよりは孤立した点。
//経済感覚に優れる(が故に権力に反抗的)浪速の風潮から、それを感知したと分析。
//オストプロイセンの古都、ケーニヒスベルクが飛び地故に荒廃したように、飛び地(それも政治的飛び地ではなく、物理的飛び地)になるのは経済的には計り知れない程の損失です。それを拒絶したのではないかというのが私の解釈でした。
//心理的理由も一つだけ。姉小路は三好をだまし討ちしたので、それを恨んでいるのではないかという推測です。
//敵方の姉小路に協力した(それも明智筒で滅多打ちにした。)となれば自分たちが何かやばいことになるのではないのかと・・・。それなら逃げろ!!ついでに俺たちの物をあいつらに渡してたまるか!、と証拠隠滅をかねて燃やし、爆破した。
//ここまで読めば、悟られてしまうかもしれませんが、私のこの解釈は"この時代"を分析したというよりもそういった戦争関係の法が機能しているということが無意識の常識になっています。
//商売と戦争は別物と考えて浪速商人が新たな支配者、三好の元でよろしくやる可能性だって十分にあります。
//心理描写の裏側には、この戦国時代の風潮を考えて推測したのではなく、既にあった事例を時代、舞台背景を考えずにぶち込んだ現実があります。(ちなみにここの参考例はスウェーデンです。気になる方がいらしたら説明します)
//気づいてしまった。俺は堺の"普通の市民"に対しては何も考えていなかった・・・・・・。彼らが家を捨てて逃げる理由はどこにもない・・・。多分彼らは一時的な避難だと思ったんだ。そして帰ろうとしたら他の人(姉小路のお役人)に止められたんだ・・・(自己解釈)
//うまく説明できたかは自信ないですが、一応の個人解釈はこんな所です。
//返信どうもです。&お返事遅れて申し訳ありません。
//なるほど。鉄甲船にと古参を輸送その他の回していたので水軍錬度が低い人達ばかりで組織した部隊だから小早関船が横転したという解釈ですね。姉小路が水軍弱いので毛利と三好で瀬戸内の東西の制海権を握っている状況で水軍戦力を分散させる必要がないですし、この理由は大変納得いきました。
//堺については、恨みを避けたというのは優れた心理的理由だと思います。本当ならこの辺も含めて前もって堺の納屋衆と親しい三好長慶が調略しなきゃならないんでしょうけど、あの調子では期待薄ですし。納得です。或いは堺の住民が三好家が堺を維持するのを困難と見て再び姉小路家の攻略まで他国に避難する、ってのも理由としてあったかもしれませんね。
//ただ、三好家が堺を取ったからといって堺衆には交易の点でそこまで影響は無いとは思います。そもそも堺の豊かさには元々瀬戸内と畿内の両方のネットワークが不可欠かと。三好が姉小路領の堺を取ったときに畿内ネットワークと切れてしまうのなら、姉小路が三好を裏切ったときにも瀬戸内とのネットワークが切れなきゃいけないですが、この時点での堺の繁栄をこのページで見る限りそんな様子は無いと思います。よって三好姉小路どちらが堺を握っても堺の交易にはあまり影響がなかったと思うのです。時代として大名権力が結構微妙な力なのです。国境も西洋とは随分意味合いが違いますし。
//うぐぅ。つい話し込んでしまいました。これも内容が興味深く、かつ面白かったからでして。今回説明してくださった水軍の事、堺の事、これに加えて陸の部隊の事も本文に何らかの形にまとめていただければ楽しいです。ありがとうございます。
//陸軍に関してはもう少しお待ちを~~。後これだけはどうしても言っておかねばならないでしょう。
//ぶっちゃけ鉄甲船を錆びさせたのは、パチュリーにむきゅ~と言わせたかっただけです。それ以外の理由は全部後付!!