それはゼシカがいなくなってからしばらく経った日の夜のこと。
ククールは夜中にふと目を覚ました。
なぜ突然覚醒したのかと自分でも訝しむ。眠気はなく、頭はおかしなほどに冴えている。
呼ばれた気がして、ハッと窓の外を見た。薄暗い月明かりの中、闇夜にたたずんでいるのはーーー
「ゼシカ!!!!」
外に飛び出し叫んだククールの声に、背中を向けているゼシカの細い肩がビクリと揺れた。
なぜか触れることがためらわれ、ククールは息荒いまま、驚きと困惑に満ちた表情で彼女が振り向くのを待つ。
「……………………クク………」
ゼシカはひどくゆっくりと振り返り、今にも泣きそうな大きな瞳をククールに向けた。
その瞬間、ククールの中で張りつめていたものがはじけ飛んだ。
「ゼシカ………!!」
駆け寄り満身の力をこめてゼシカを抱きしめる。
他の多くの言葉は何一つ言葉にならず、ただその名だけを絞り出すように囁いた。
こんなに強くしたら痛いだろうと思うのに、抱きしめる腕の強さを弱めることができない。
ゼシカの手がククールの背中に回されかけ、何かをこらえるようにそっと下に降ろされた。
どうして来ちゃったの、とゼシカが呟く。
「………ククール………ごめん、なさい……わたし………」
「ゼシカ………!!この、バカ………!!!!」
ククールの声も、今にも泣き出しそうで。
「どれだけ…ッ。お前な、人がどれだけ心配したと……ッッ!!」
「ククール………」
「いなくなるんじゃねぇよ…!!二度と離れんなゼシカ……!!」
「……クク……」
ゼシカの身体が震える。少しだけ平静を取り戻したククールが両肩を掴んで身体を離すと、
彼女の目から大粒の涙がとめどなく流れていて、眉をひそめる。
「…泣くなよ。悪かった、怒ってんじゃねぇから…」
言いつつ親指で滴をぬぐって、手の平で頬を優しく上下してやる。
「………いいから。な?ほら、帰ろう。エイト達も心配して…」
「ごめんなさい、ククール…ちがうの、わたし…ッ」
ゼシカはあたたかく包まれた顔を振りほどくように地面を向いて、胸元で強く拳を握った。
「…わたし、わたし…ッ。もう、ダメなの…戻れないよ…」
「大丈夫だ」
「わたし、さよならを…言いにきたの…ッ」
「バカなこと言うな…お前はこうして戻ってきただろ」
「ダメなの、お願い、わたし…!!」
「大丈夫だオレがいるから」
「ククール…ッ」
ゼシカが嗚咽をあげて泣き始める。それでも自分の背中に回されない彼女の手に、
忌まわしき杖が握られていることにククールはその時はじめて気が付いた。
ギリ、と歯がみする。
「ゼシカ…大丈夫だ。お前は一人じゃないから。不安に思うことは何もない。だから」
色を無くすほどに強く杖を握りしめている、彼女の小さな手を取る。
「ーーー離すんだ。こんなもの、オレがぶっ壊してやる」
「だ…ッ、ダメよククール…!!」
ゼシカは突如、怯えを露わにして、泣きながらククールの手を振り払おうとした。
しかしククールは決してそれを許そうとせず、手を握ったままゼシカの瞳をのぞきこむ。
「ゼシカ、オレを信じろ。オレがお前を護るから」
「ククール、離して!」
「離さない」
「ククール!」
「ゼシカ、オレを見ろ」
「ククール!!」
「ゼシカ!!!!」
錯乱したようにククールを振り放そうと暴れる彼女を、ククールは再び腕の中に封じ込める。
そして、その勢いのままに、強引な口づけを。
あまりの驚きに目を見開き固まった身体をすぐには解放せず、
ククールはさらに長く深い口づけを彼女に仕掛け続けた。
次第に溶けていくゼシカの身体を支えながらようやくして顔を離すと、目の前には、目尻を赤く
染めながらもおそらく悲哀とは違う涙をためたゼシカの瞳が、艶をたたえてククールを見つめていた。
「………ッ、ククール………」
「…ゼシカ、………オレは」
お前が。
もはや溢れ出した胸の想いに、苦しげな表情でククールが口を開く。
その時 闇夜の雲が、月を隠してあたりを暗闇に染めた。
「ーーー………だからダメって言ったのに」
「………………………………え………?」
ゼシカの肩が震えている。クスクスクスと笑いながら…。
ククールは自分の腹を見た。
深々と突き刺さっているのは、愛しい人を苦しめている呪われし杖。
「…ッぐあ……ッッ!!!!」
「悲しいわ…本当に、弱い者は愚かで悲しい」
容赦なく杖を引き抜き、倒れるククールを悲しげに微笑みながら見つめている。
「愛することも信じることも、愚かで悲しいものでしかないのに」
「ゼ、ゼ…シカ…ッ」
ククールは倒れ伏した地面から顔をあげ、今や憎き者に意識を奪われたゼシカを見上げた。
ゼシカの姿をしたソレは、膝をつき、妖艶な笑みでククールの耳元に囁きかける。
「…アナタがね…邪魔だったの。口先だけの騎士、ククールさん?」
「この娘の心は悲しい復讐と執念にとらわれて、とても居心地がよかった…。でも、決して
支配させてはくれないの。甘美な闇に飲み込もうとすると、決まって助けを求めて名を呼ぶのよ…
一人は、サーベルト。そう…ふふ、この杖が殺してしまった大切な人の名前。
でも死んだ人間には何もできないわ。だから、厄介なのはねぇ、アナタなのよ、”ククール”。
この娘は私の支配に逆らい、何度も何度もアナタの名前を呼ぶの。
そしてそのたびにこの娘の心には光が灯る…希望と言う名の光がね。
アナタの存在は、この子の心に残された光…救い…願い…望み…
私が欲しいのは、絶望。そんなものはいらないわ。だからアナタもいらないの。
………フ、フフ……。ウフフフフフ…アハハハハハハハ!!!!
でも、もう、これでおしまい。心が求める最も愛しい者を、自らの手で殺したのだもの。
この娘の心に希望など、もう一欠片も残されてはいないわ。
ほら…私の中で泣き、叫んでいるこの子の声が聞こえる?悲しいわね…ウフフ…」
ゼシカの…いや、異形の者の美しい指が、血に濡れたククールの頬をなでた。
遠のく意識の中、去りゆく背中を必死で凝視しながら、
ククールは胸の内で彼女の名前だけを、何度も何度も、叫び続けていた。
最終更新:2008年10月27日 04:29