栄えている街とはいえ、大通りを外れた裏路地はやっぱり人通りもないし、いい雰囲気ではない。
でも宿屋までの道はこっちが近道だから、と、ゼシカはその薄暗い路地を足早に歩いていた。
―――何気なく視線を上げた瞬間、狭い道の先に立ちはだかる人影にギクリとして立ち止まる。
どんな明るい街にだって、悪い連中は必ずいる。陽も落ちて、しかもここは民家とは離れたさびれた路地裏。
声を上げても誰にも聞こえないかもしれない。どうしよう、ゼシカは焦った。どうしてこんな時に限って。
影が、無言でザッと足音を立てて近付き、反射的に身体がビクッと震えた。
さらに一歩。ゼシカの足も、それと同時に後ろにさがる。しかし恐怖が先に立ち、逃げ出すことすらできない。
凍り付いたように動けなくなったゼシカをよそに、影は最後の一歩を大きく踏み出しゼシカの目前に迫った。
「………………ククール?」
呆然とその名を口にする。ろくな明かりのない路地ではその赤い制服が漆黒に見えて逆に恐怖心を煽ったが、
近くで確認すれば見間違えるはずもない、それはククールだった。一応は、ゼシカにとっての騎士である。
ゼシカははーーっと大きな息をはいた。
「驚かさないでよもう…心臓止まるかと思ったじゃない」
怒るより安堵が先にきて、文句を言いながらも胸をなで下ろす。
と、下げた視線の先、ククールの左手に握られたレイピアを見てぎょっとする。
―――血が。
「なに…どうしたの?モンスターでもいたの?」
怪訝な顔で尋ねるゼシカに、ククールは薄い笑みを浮かべたまま あぁ、と呟いてレイピアをヒュッと空中で切った。
小さく飛散する血痕を気にもせず、それを鞘に戻す。ゼシカは不穏なものを感じて無言で彼を見上げた。
「…別に?」
ククールは笑ったままだ。
なんだろう…何か、変だ。このタイミングでククールが現れてくれて、これ以上の安心はないはずなのに。
未だに不安感が去らないのは。
ゼシカは理由のわからない居心地の悪さに耐えきれなくなり、意を決してククールの脇を通り抜けようとした。
「………何もないなら帰りましょう。いつまでもこんな―――」
しかし言いかけた言葉と同時に、ゼシカの足が突然止まった。
ククールがゼシカの腕を捕らえ、両肩を押さえてあっと言う間に壁際に押しつけたからだ。
余りにもいきなりすぎて声も出ないゼシカ。微笑を崩すことのないククール。
しばらくそのままで、お互い身じろぎひとつしなかった。
見慣れているはずの彼の笑みが、今のゼシカには凄味をたたえた悪魔の笑みに見える。ゼシカの喉がゴクリと鳴った。
「………………ゼシカ」
「………………ゃ、やだ、なにクク―――」
「お前武器は?」
え?と声がもれる。脈絡のない問いに、震えそうな声をなんとか抑えてゼシカは答える。
「武器…は、置いてきた、わ。宿に」
「ふぅん」
自分で聞いておきながらどうでもいいような返事を返したと思ったら、何の前ぶれもなくいきなりククールは
ゼシカの口唇を奪った。しかもなんの気遣いも優しさも技巧もない、力任せの強引な。
あまりの衝撃に一瞬頭が真っ白になっていたゼシカは、ハッと我に帰り渾身の力をこめて彼の頬を張った。
「―――なにす………!!!!」
「メラしねぇんだ」
沸騰しそうな怒りをサラリと流して、ククールはからかうようにそう言った。ゼシカが目を見張る。
彼の言いたいことが見え、わなわな、と拳が震えた。バカにされているんだ。
「………おあいにく様。MPなら少しは残ってるわ、―――アンタみたいな男を撃退するためにね!!」
怒りの余り抑えつけられた肩を引きはがして、ゼシカは指に炎を灯した。
一発のメラくらいならまだ撃てる。間近で黒焦げにしてやる。
しかし、その時ククールが素早く唱えた呪文は。
向けられた手の平がかすかな光を放ったと思った瞬間、ゼシカの炎はたちまち消滅した。
そして、なぜか凄まじい脱力感がゼシカを襲う。支えをなくしてフラ、と倒れかけたところを、
再びククールに捕らえられてしまう。今度は両手首を押さえられ、両足の間に下半身を挟まれる形で。
さっきよりももっと身体を密着させられて、ゼシカは怒りと羞恥で顔を赤く染めた。
「…ッ、なんなのよ…ッ、離しなさいよ!!」
なんて力なんだろう。いつものヘラヘラした、そしてフェミニストな彼からは想像もつかないほど、
容赦なくギリギリとこめられる力。まるで憎まれているようだ、とすら思う。
ゼシカが藻掻くのを楽しんでいるかのようなククールの表情に、ゼシカの心にまた不安が蘇ってくる。
―――やっぱり、いつもとちがう。
「………ゼシカちゃん、思いっきし力こめてさっきのビンタ?」
ククールが耳元でおかしそうに囁く。
「全然痛くねぇよ、ゼシカ」
「………ッククール!!」
ついにゼシカは弱音をもらすように彼の名を叫んだ。どうしちゃったの?しかしククールは薄笑いをやめない。
「武器もなくて、女の細腕で殴ったってあんな程度で、おまけに頼みの綱の魔法も…取られちまったしなぁ?」
ハッと気付く。さっきかけられた魔法は、あれは…マホトラだ。わずかに残しておいたMPを吸い取られたのだ。
―――どうしてそんなことするの? どうしてそんなことまで。
ゼシカの瞳に今度こそはっきりと恐怖が浮かぶ。そして脅えが。
途端、ククールの手が、折れそうな強さでゼシカの手首を強く握った。
「―――何フラフラしてんだよこんな所で!?武器も持たねぇで何やってんだよお前は!?!?」
まさに堰を切ったように。
ククールの秘められていた怒りが一気にゼシカにぶつけられる。ゼシカは驚きすぎて声も出ない。
「…オレは前から言ってるよな、てめぇの無自覚さ自覚しろってさ。もっと用心して警戒しろって。
世の中には腕の立つ奴も、ある程度魔法が使える奴も、呆れるくらい悪知恵の働く奴もいくらでもいるんだよ」
ますます強められる手の力に、ゼシカは本気で顔を歪める。
「なのにコレかよ。なんでそうなんだよ。馬鹿かお前は。オレがどんだけ」
「…ッ、………クク…」
ククールの本心を知っても、ゼシカの胸から不安はぬぐい去れなかった。
いつもとちがう。その感覚だけは今も感じている。ククールが、追いつめられているみたいに余裕がない。
だって、だって、来てくれたじゃない。そうでしょ?だからもういいじゃない。
なのにどうしてそんなに怒るの?
そう、彼はものすごく怒っている。今まで見たことがないレベルで、本気で。
ゼシカの鎖骨あたりに額をつけ、脱力して凭れかかっているのに手首を拘束する力だけは強くなる一方で…
とにかく、ごめんなさい、とか細い声を出すことしかできなかった。確かに悪いのは自分だ。
しかし次の瞬間肩に走った痛みに、ゼシカは小さく悲鳴を上げた。そしてそのまま強く吸われる感触。
肩口を噛まれ、そして跡をつけられたのだ。
混乱するばかりのゼシカの耳に直接、ククールの低い低い囁きが注ぎ込まれる。
「―――オレを、知らない男だと思えよ。そうしたらわかるだろ?自分の愚かさが」
それはゾッとするほどに甘い声で。
全身に鳥肌が立った。
獰猛な目をした彼の背後に、突き刺すような光を放つ満月が、異様な大きさで存在している。
もうゼシカには、今自分を蹂躙しようとしている目の前の男が、まさに見知らぬ暴漢にしか見えなかった。
最終更新:2008年11月12日 12:49