チクッ
不意に下腹部に感じた痛みでゼシカは目を覚ました。
煉獄島に幽閉され二週間が経とうとしたある日のことだった。
「もしかするともしかしてるわね…ひぃふぅみぃ…、やっぱり」計算してみると、間違いなかった。
来ると思っていたが、こうも日付感覚の欠落した場所にいると忘れてしまうのだ。
ふと、月のものをすっかり忘れていた自分がとても怖くなってきた。
このまま少しずつ神経が衰弱して、そのうち自分がアルバート家のゼシカだということも、
ラプソーンを討伐する為に旅をしていることも、ここがどこなのかも認識できなくなるのではないか。
それはありえないけれど、もしかしたらそうなるかもしれない。
ゼシカはどこまでも抜けられない底なしの不安のようなものに襲われていた。
とにかく、月のもの特有の憂鬱な、陰鬱な気分だった。
丁度時間だったようで、遠くから鎖の擦れる音、空気の振動が聞こえる。
少しだけゼシカの寄りかかった柵が振動し、伸ばした足先の水溜りも波紋が広がっている。
「もうこんな時間なのね」今から看守が交代するようだ。
籠の落下と共に少しだけ新鮮な空気が、地底のぬるりと湿った空気と入り混じる。
この牢屋は太陽の光も新鮮な空気も得られない、無条件で得られるはずのものが得られない場所なのである。
(少しだけ、
おなか減った…)ゼシカは食事を貰いに行くことにする。
食事は野宿のために用意していた保存食で賄っている。
4人とニノは寝起きの時間を少しずつズラし(ひどい話だが、他の囚人に盗まれないように)食料を見張ることにしていた。
今の時間はククールが番をしている。
目当ての相手は隅で一人座って剣を磨いていた。
「おはよ、ククール」ゼシカは正面に立つ。
「おはよう、起きるのちょっと早いんじゃないか?」ゼシカを見上げてから、手入れを止めククールは道具を傍に置いた。
「目が覚めちゃって…隣いい?」ゼシカがそう言うと、ククールは隣に置いた袋をどける。
「そうそう。これ、今日の食事な」袋から出したのはビスケットだった。
「ありがと」ハンカチでそれを受け止め、隣に腰を下ろした。
「うん?なんか顔色悪いぜ、しっかり食えよ?」怪訝そうな顔でククールが言う。
「ううん、大丈夫だから心配しなくていいわ。ほらぁ、ここって空気悪いから気分悪くなるのよ」
少しだけゼシカは笑い、髪を耳にかける。
「そんなことより!ここに来てからもう二週間になるね」なんとなく話題を誤魔化したようになってしまった。
気が付いただろうか?そう考えると少し頭と腰が重くなってきたような気がする。
「ああ、こうしている間に地上じゃあ何が起きてるやら…心配だぜ、一応だけどな」
すました顔でククールが言った、彼がこういう表情のときは結構真剣である。
ゼシカはふっと自分たちの置かれた状況を哀れむ気分になる。
「うん、どうなっちゃうんだろうね、地上も、私たちも」膝に置いた手で頬杖を付きながら、なんとなく不安になる。
「…それは神のみぞ知るって奴なんじゃないか?
少なくとも俺たちが行動を起こすにも何もきっかけはないしな」たっぷりと間を空けてククールが喋った。
きっかけがなければ何もできない?何を言っているのだろうかこの男は。
そんな受動的な態度に少しイラついてきた。
「確かにそうだけど…、どうしてそんな悠長なの?これは自分たちの事なのよ?
いつまでも受身でいたって、私ここは抜けられないと思うけど?!」
「ゼシカ。何怒ってるんだよ、俺が受身なのはいつものことだぜ?」
口元だけ笑い、なだめる様に肩に触れようと手を伸ばす。
「んもう、触んないでよね!」ククールを少し睨む。
ゼシカは避けようと、地面に片手を置き重心を少しずらした。
すると不意にじんじんと痛む。今から本格的な波が襲うことをゼシカは予感した。
「レディーは今日はユウツな気分のようで。こりゃまいったね…」宙に浮いた手を滑らかに引っ込めた。
「んーなあゼシカ、ここ寒くないか?」思いついたようにそう言うと、ククールはマントを外した。
「まあちょっとね」その肩にふわりとマントが掛かる。
「あら…どうも」ククールを一瞥して視線をそらす。
「当然だろ?」ククールは口元で笑って、少しだけ首をかしげる。
「え?」
「具合の悪いレディーに対しては当然だろ、ってこと」少し焦る。
「…いつから気付いてたの?」
「俺は女性の事なら大抵なんでも知ってるんだぜ」茶化すように言った。
「バカ」
「そうだ、温めてあげようか?」
ククールはこの胸に飛び込めと言わんばかりに両手を開く。
「バーカ!」ゼシカは赤い舌を出した。
「大丈夫、何もしねぇよ。かれこれ丸一日近く起きてるし」
「えっ?それほんと」少し驚いた。
「ホントだよ、あのニノのおっちゃんがなかなか起きてくれなくてさ」
ククールが指差した先に、ニノがいびきをかいて寝ている。
「だから寝ずの番してたって訳。ゼシカが早起きしてくれて助かってたんだぜ?」
「そうだったの…」
「俺もう限界だし、寝てる間なら俺で暖とってもいいよってこと」
「まあ、確かに寝てるなら安心だけど…」
ちらりと見たククールの顔は、隅の方で暗いからわからなかったがそれなりに寝不足がにじんでいた。
「それに恒温動物だから寝てるほうが暖かいし」ククールはそう言って唇を曲げる。
ゼシカはくクールの目がとろんとしているのに気付いた。
「アンタ、寝たほうがいいわよ」少しだけ心配になる。
「つうか、ほんと、もうそろそろキツいんだ…ごめん」ククールは目を閉じる。
「うん、おやすみ」ゼシカが言っても、返事は返ってこなかった。
「まったく、無茶して…」とりあえず出しっぱなしの剣を鞘に納め、袋の口もしっかり閉めた。
腰は重たいが、まだなんとか耐えられる。でも立ち続けるのはちょっと…
そんなゼシカの目に入ったのは、立膝で座ったまま寝ているククール。
だらりと垂れ下がった手を掴むと、ゼシカの手よりずっと暖かい。
「…ちょっと、本気にしてみようかしらね」少し、ゼシカの喉が鳴る。
両膝の間に収まるように、座り込む。確かにこれなら一人より大分暖かい。
背中の辺りに手が当たるのがちょっとむず痒くて、ゼシカはその邪魔な腕をちょっと持ち上げた。
どこに添えようか考えて、自分のお腹の上で交差することにする。
ククールはよく眠っているようだし、大丈夫だろうと思ったのだ。
それに、痛みは立つのがつらい波に差し掛かっていた所だった。
「痛、うぅ…」ゼシカが小声で呻く。
ニノはまだ起きる気配はない。
「なんで今日はこんなに痛いのかな…あああ」
そういえば昨日ゼシカが眠り始めたとき、まだ彼は起きていたことを思い出す。
「つー」
何度目かの波で、鼻の頭に汗をかいていることに気付く。
ゼシカはそれを手の甲で拭い、姿勢を一度正した。
すると、背中にしていた物がもぞっと動いた。
「…ぁーれ…ゼシカ?何してる…だ…」枯れた声のククール。
ゼシカの体を抱きしめるようになっていた手に、無意識に感覚が集中する。
「え、どうしたこれ」記憶はないが、普段触れることのない細身の腰に両手が掛かっている。
「ちょっと、やっぱり、キツくって」ククールの方を向いた顔は、血色が悪い。
数時間前、眠りの縁に落ちる前の(といっても実は意識は半分朦朧としていたが)顔色よりずっと悪い。
「寒いのよね、さっきから」頬からは血の気が引いている。
「だから俺はこんな状態なんだな、了解」やっと、おぼろげに輪郭が思い出せてきた。
暖を取っていいやらなんやら、ちょっとバカなことを言ったような気がする。
それを本気にしてくれたゼシカは、素直で、ちょっと可愛い。
「手を出したらマダンテ…」ゼシカはリブルアーチのときのように眉間にしわを寄せている。
「わかってらい」
「も一度寝てよ、落ち着かないから…」少し甘えるような声で、ゼシカがささやく。
「わかった、おやすみ」こんな状態で寝られるわけがない。
「ええ、おやすみ…」ゼシカはため息をついて、プイと正面を向いてしまった。
白いうなじが気になるし、手も意識し始めたら途端に動かしたくなってくる。
しかし、動いた途端に培った信用を失うのも惜しい。
するりと動くゼシカの背中も、小さなうめく声も危険だ。
さて、どうしようか。
エイトは目を覚ました。
うつ伏せになるように眠っていて、枕代わりにしていたせいかすこし腕が痛い。
「ん…あれ」腹ばいのまま軽く顔を上げると、
ゼシカとククールがくっついている。
「え」そのまま腕立て伏せの要領で上体が起きる。
「あらエイト、おはよう」ゼシカはにっこり笑った。
「おはよう、どうしたの?」エイトは怪訝そうな顔でゼシカの後ろの彼に目を向ける。
「違うの。これはね、この状況だと誤解されるかもしれないけれど、それはエイトの大きな誤解なの。
不可抗力って言うの。これはね、体を許したとかそういうのじゃなくて、別に毛布みたいなものなの。
エイトが考えたようなことではないの。違うのよ。断じて違う」
冷静な声で、早口でゼシカが言い切った。
「あぁ、そうなの…」エイトは唖然としている。
少し嬉しそうに眠っている(ように見えるが実際はどうかわからない)ククールを見つめながら。
最終更新:2011年04月29日 01:45