ゼシカに想いを告げて、それにゼシカが応えてくれて…、
そしてその後すぐに2人の新たな関係による甘い生活が始まるはずだった。
俺が魔物に呪いをかけられ猫の姿になってからあっという間に2ヶ月程経った。
かつて一緒に旅をした一風変わった外見の王と姫君がかけられていたような強力な呪いではない。
雑魚モンスターに油断しているところをやられちまったんだ、俺としたことが。
本当ならこんな呪いとっくに解いて真っ先にゼシカに会いに行っているはずだった。
と こ ろ が だ。
俺は事態を甘く見すぎていた。
通常なら裏の世界とも流通している酒場などをさくさく回ってちょいちょいっと情報収集、
この程度の呪いなんて3日もあればスッキリおさらばしていたところだろう。
だけどこの姿になってまず参ったことは
「ニャ~」
しか喋れねえ!!!
当然呪文も使えない。
猫の手ってのは思いのほか不便なもので、物もちゃんと掴むこともできないし字を書くことだってできやしない。
1度インクを直接手につけてそのまま紙に文字を書こうとしたら、
不思議な事に古代文明の絵文字をふやけさせた様な文字しか書けなくなっていた。
歪な魚に虫に鳥のような形のものが、紙の上に羅列されていく。これは所謂猫文字というやつか?
せっかく磨いたレイピアの腕も今はスキル0よりも酷い状態だ。そもそも剣が持てないからな。
俺は他人に己の状況を伝達する手段を失ってしまった。
まさか壮絶な呪い主と戦い撃ち滅ぼした事もある身で、
それに遥かに劣る微弱な呪いによってこんなに苦労するはめになるとはな。
馬の姿に変えられた姫君。それよりももっと酷い化け物の姿に変えられた王様。
思えばその時は城全体が大規模な呪いをかけられ、化け物の姿になっていてもトロデ王は人語を話せ、
事情を全て知っている付き人のエイトが一緒にいたわけだ。
今の俺は誰から見てもただの猫でしかなく、
そして俺が呪いでこんな事になっているのなんて俺しかしらない。
はっきり言って絶望的だった。
それでもとりあえずなんとか呪いを解こうと、猫の姿のままで色々と奮闘してみたものだ。
呪いを解く方法を探すために様々な場所に赴いた。
ルーラが使えない状態での町巡りは想像以上にきつく何度も音を上げそうになったが、
その度に俺の気持ちを受け入れてくれた時のゼシカの姿が浮かんできて俺を奮い立たせた。
熱っぽく揺らめく瞳いっぱいに溜めた涙を溢れさせないように堪えながら、
「うれしい」と微笑んでくれたゼシカ。
その瞬間のゼシカが今まで見てきた中で1番綺麗に見え、胸が熱くなった。
まっすぐ向けられた飾り気のない笑顔が、これほどまでに心を震わすものだったなんて始めて知った。
──待っててくれゼシカ。絶対にこの間抜けな呪いを解いてお前のことを迎えにいくから。
そう決心を固め僅かでも弱気になった己を叱咤する。それの繰り返しだった。
猫の姿だと魔物が襲ってこないから、戦闘せずにいられた事がせめてもの救いだったね。
呪いが解けるまでゼシカとは会わないつもりでいた。
例え会ったところで、猫の正体が俺である事を知らせる術がないからな。
だけど港でポルトリンクに向かう船を見つけた時にいても経ってもいられなくなった。
思わず船の積荷の影に隠れ船の中に忍び込み、船がその地へ着くのを待っていた。
──そうだ、一目見るだけでいい。ゼシカの姿を一目だけ。
そしたらまた呪いを解くための旅に戻ろう。
ポルトリンクに着いたらリーザス村まで走って、そこで何一つ変わりないゼシカの姿を遠目に見届けてるだけ。
船の中で身を潜めている間ずっと自分に言い聞かせていた。
船がポルトリンクにつき陸地に降り立った時、俺は目を疑った。
船着場のベンチに座るよく見知った姿。
ゼシカが、なぜここに。
船から降りてくる乗客一人一人を確認するように動く視線。
誰かを待っている?
…俺を…?
いや、ゼシカは俺が会いに行くときはルーラで直接村に行くと思っている。
ポルトリンクに着いた船から俺が降りてくるなんて考えたりしないはずだ。
だったらこんなところで、誰を待っている…?
ぎくりと心臓が跳ねた。
一瞬ゼシカの瞳に光る雫が見えた気がした。
だけどそれは気のせいで、ゼシカは涙を浮かべてなどいなかった。
それでも切なげな表情は今にも泣き出しそうに見え、どこか痛々しかった。
ゼシカがおもむろに俯きぎゅっと手を握り締める様子が目に入ってきた。
「…ナーン」
「…あら…猫」
気がついたらゼシカの足元に擦り寄り、鳴いていた。
寂しそうな笑顔を浮かべ俺を抱き上げたゼシカが暫く猫の俺を凝視する。
どこか遠い目をしたまま唇が、
「ククール…」
俺の名前を紡いだ。
ああ、やっぱり俺の事を待っていたんだ。
ゼシカはここで、ルーラでいとも簡単にリーザス村まで飛んでこれるはずの俺をずっと、
ポルトリンクでたった一人で待ち続けてくれていたんだ。
「ニャーゴ…」
そうだよ、ゼシカ。俺だよ。
待たせてごめん、ゼシカ。俺、ククールだ。ゼシカの元に来たんだ。
約束通りとはいえないけど、時間かかったけど、こんな姿だけど、
戻ってきたんだ、ゼシカ。
俺の前だと泣くのをぐっと堪える事が多かったゼシカの頬に、一筋の涙が伝った。
「…びっくりした…。あなた…ククールみたいだわ。
まったく…私も重症ね。あいつのせいでいい迷惑だわ」
違う、俺がククールなんだよ。
泣かないで、ゼシカ。泣くな。
本当なら今すぐゼシカを思いっきり抱きしめて、その涙を拭ってやりたいのに。
あまりの歯痒さにどうにかなってしまいそうだ。
俺はここにいるのに。伝わらない。
俺が猫なんかになってしまったばかりに。
何もできない。ただゼシカを泣かせる事しかできない。
ゼシカ、ごめん…俺、君だけを守る騎士失格だ…。
俺は本気で馬鹿なのかもしれない。ゼシカに猫の俺の存在を認識させてしまった。
ゼシカは猫の俺に“クク”という呼び名をつけて、しきりに「ククールみたい」と笑う。
ある夜、ゼシカが夢に魘され目を覚ました時に、
胸元に眠る俺を見て抱きしめながら安心したように息を吐いた事がある。
「ね…、ククは…ククールみたいに突然いなくなったり…しなよね?」
か細い声で呟いた言葉に俺は答える事ができなかった。
代わりにゼシカの頬をそっと舐めた。
“ククール”を失い不安定な状態のゼシカが、
今度は“クク”を失ったらどうなってしまうんだろう…。
人間に戻るまでゼシカに会わないと決めていたのに、
我慢できずに中途半端に関わってしまった自分を俺自身が呪ってやりたい。
もっともっと強力で、強烈な呪いで。
ゼシカが“ククール”の事を想って泣く度に
俺は心臓がつぶれてしまうんじゃないかというくらいに胸が締め付けられた。
知らなかった。ゼシカって泣き虫だったんだな。
俺が一緒に旅している間何があっても全く泣かなかったゼシカが、
“クク”である俺の前だどこんな風に泣くのか。
今までどれだけ一人で耐えてきたのだろう。
俺はどれだけゼシカをたった一人で泣かせてしまっていたのだろう。
エイト達が一度だけゼシカの泣く姿を見たと言っていた。
大切な兄が死んでしまった時。それ以来ゼシカは一度も泣いていないと言っていた。
でも違ったんだな。
ゼシカは泣かないんじゃなくて、泣く時は誰もいない所で小さな体をさらに小さく縮め、
誰にも気づかれないように泣いていたんだ…。
クソッ、何をやってたんだ俺は…。
人間の俺がゼシカの傍にいられない分も、猫の俺はできる限りゼシカといようと必死だった。
本当は何としてでも真っ先に呪いを解く事がゼシカのためになるのかもしれない。
けれどいつ元に戻れるか分からないのに、今ここでゼシカの前から消える訳にはいかない。
せめてゼシカが“ククール”を想って泣かなくなるまでゼシカの傍にいたい。
ゼシカの胸元に滑り込み頬すりすりする。
すると顔をほんのり赤くして「もう、私嫁入り前なのよ!」と可愛く怒るゼシカ。
ゼシカが入浴する時についていって首筋や背中をぺろりと舐める。
くすぐったがって、怒ったような困ったような顔で慌てて止めるゼシカ。可愛い。
キスができない代わりに唇をぺろぺろ舐める。
「ククールみたい…」と言いながら俺をぎゅっとするゼシカ。可愛い。可愛い。
泣き顔も悪くないけど、やっぱりゼシカはこんな風に笑ったり照れたり怒ったりしている方がずっといいよ。
ゼシカが泣かないためなら俺は何だってする。ずっと傍にいる。
だからもう泣くなよ、ゼシカ。
戻ったのは突然だった。
いつものようにゼシカの胸元に潜り込んで心地よい眠りについた所までは
間違いなく俺は“クク”だった。
目が覚める。いつも通り俺を圧迫するゼシカの胸…違う。
いつもだったら頭全体を覆っている温もりと弾力が今は頬の辺りにしか感じない。
耳はいつも通り剥き出しになっているのに何故か違和感があった。
頭のてっぺんじゃなくて、頬の後ろの方にある…?
鳥の鳴き声も風の音も今日は随分と落ち着いていて耳障りが良い。
ゼシカの胸元に窮屈に収まっているはずの俺の身体が、今はゼシカから大分はみ出してしまっている。
…これはゼシカの足か?ゼシカの足が、俺の足に当たっている…?
いつもなら毛を通して伝わるゼシカの体温がダイレクトに俺の肌を伝わる。
このすべらかな肌を、いつもは半分以上も堪能できていなかったことを今更思い知る。
…猫の時はこういう事への感覚が麻痺しちまっていたみてーだな。そう思うのと同時に状況を全て理解した。
俺は今、人間の姿であると。
どうやら魔物のかけた呪いは時間が経てば自然に効力がなくなるものだったらしい。
戻るために必死になっていた日々は何だったんだろうとか、そんな事はもはやどうでもいい。
それよりいったん自分の姿に気づいてしまうと意識はどんどんゼシカの方へ向いていく。
──なんだこれ、くらくらする。
猫の時、ゼシカの反応が可愛くて色々いたずらしちまったけどこんなにエロイ気分にはならなかった。
ゼシカと素肌を合わせているだけの事がこんなに刺激的だったなんて。
女の感触なんてよく知っているはずなのに、まるで生まれて始めて味わうような強烈な感覚。
ヤバイ。
このままじゃ俺、暴走しちまう。
早く、ゼシカから離れないと…。
行動を起こそうとした時に、俺と密着したままのゼシカの身体がぴくりと動いた。
「…うん……クク……重いよ…」
「…ああ…わり…」
思わず普通に返事をしてしまった。
寝ぼけているのかゼシカはそのまま俺の顔を抱え込み、胸に自ら押し付けるようにさらに強く抱きしめた。
………………これじゃ離れられねえ。
俺のお姫さまには困ったものだ。
どうやっても俺の事を放すつもりはないらしい。
諦めに似た気持ちと、それを上回る熱い感情が沸きあがりそのままゼシカを抱きしめかえす。
俺の腕が余るくらいの小さな背中。その華奢な抱き心地に愛おしさが込み上げてくる。
顔を包んでくれている柔らかな胸も申し分ないが、できれば見つめあい、唇を合わせたい。
ぺろぺろ舐めるのはもう卒業だ。
ふと頭を抱える腕の力が緩んだと思ったら、頭にキスが降ってくる。
猫の時は“クク”を通して“ククール”を見ているんだと思っていたが、
今更ながら“クク”自身も相当愛されていた事に気づく。
なんだよ俺、人間だろうが猫だろうが、どっちにしろゼシカにめちゃくちゃ想われてるんじゃん!
そう思ったら嬉しくて、さっきまでのエロイ気持ちはどこかへ飛んでしまった。
もちろん今もゼシカに対しそういった類の劣情がないとは言えないが、
今はそんな事よりもこの穏やかな一時を大切にしたい。
この後の事はとりあえずゼシカがちゃんと目を覚ました時に考えよう。
最終更新:2009年12月02日 20:21