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小さな宿屋のあるじに借りた台所で、一番に目覚めたゼシカがテーブルに
簡単な朝食の準備をしていると、エイトやヤンガスが順番に起きてきた。
最後にのっそりと現れた、低血圧なはずのクク―ルと目が合った瞬間。
「おはようゼシカ。ハッピーバレンタイン」
「……。」
ゼシカは心底うんざりした顔で、ニコニコ笑うそのバカつらを見る。
「…おはよう。何を期待してるのか知らないけどアンタにあげるものなんかないわよ」
「またまた。何もチョコレートじゃなくたってオレは全然かまわないんだぜ?
なんならゼシカ自身にリボンをつけてプレゼントしてくれても…って、ちょっとベタすぎるか」
「バカじゃないの?うちのパーティはいつも金欠なんだから、そんな無駄な出費するわけないでしょ。
そんなこと期待してるのアンタだけよ」
「だから金のかからないものでいいんだよ。ゼシカの愛がこめられてるならなんだって」
「こめる愛なんかありません」
にべもないゼシカの態度にククールはたちまち不機嫌になる。
「マジかよ?ホントになんもねぇの!?」
「ないって言ってるでしょ!あるとしたら朝ごはんくらいよ。ぐだぐだ言ってないで手伝って」
「ウソだろ~そりゃないぜゼシカさんよ~」
がっくりと肩を落とした色男は情けない声をあげながら、渡された皿をテーブルにのろのろと運んだ。
エイトやヤンガスがクスクス笑っている。彼らはククールが数週間も前から、この日を
浮足立って待っていたのを知っている。本人は隠しているつもりなのだが、ことあるごとに
ゼシカってバレンタイン知ってんのかな、とか、知ってても当然サーベルト兄さん☆にしか
あげたことねぇんだろうな、とか、アイツの手作りチョコなんて考えただけでゾッとするよな、とか。
クールぶっているがまったく成功しておらず、バレンタインチョコなど掃いて捨てるほどもらってきた
であろう色男がそわそわと話す様は、少し滑稽で、なんとなくかわいかったりした。
ククールは一皿運んだだけで椅子に座り込み、頬づえをついてブツブツと文句を言っている。
それを見て、ゼシカは盛り付けたサラダをテーブルに置きながら呆れた。
「甘いものそんなに好きじゃないくせに。そんなにチョコが欲しいなら自分で買ってくればいいじゃない」
「2月14日に男がチョコレート買いに行くとかどんな罰ゲームだよ。女の子がくれるからいいんだろ」
「あっそ」
ゼシカはツンとあごをそらして踵を返す。
尚もククールはグダグダとテーブルに突っ伏し、
「あ~つまんねーの~~……。……ドニにでも行ってこうかな…」
まったくそんな気もないのだが、惰性でなんとなくそう呟いた。
今日ドニに行けば、間違いなく大量のチョコが雨あられと渡されるだろう。
取り巻きに飛びつかれ、抱きつかれ、キスされ、女の子たちにもてはやされるククール。
そんな光景が容易に思いつく。
「……。」
ゼシカは無言で4人分のカップを用意する。
背後では、まだ何か不満をもらし続けているバカな男。
「………………コーヒー、いる人」
はーい、がす、うぃ、と3人分の返事が聞こえた。
レトロなやかんがピーーーと音を立て、しばらくするとトレイにカップを乗せたゼシカがテーブルに戻ってきた。
エイト、ヤンガスの前にカップを置いて、最後に突っ伏しているククールの前にドンと置く。
そして自分は再び流しの前に戻り、洗い物や後片付けを始めた。
すっかり不貞腐れていたククールだが、コーヒーのいい香りに誘われ顔を上げ、
まだ何やらしつこくボヤきながら、ゼシカの淹れてくれたコーヒーを飲む。
「……ん?」
すぐにククールは口を離し、カップの中をのぞいた。
あれ?
「おいゼシカ、これコーヒーじゃ…」
「――おかわりはないから!」
しかし唐突にゼシカがその声を遮ったので、ククールは目を丸くした。
ゼシカは背を向けたまま、小さな声でポソリと告げた。おそらくは、ククールに対して。
「……だから、味わって飲みなさいよ」
ククールはしばらく考えて。そして。
―――あぁ、と気付く。
カップの中身は苦いコーヒーじゃなくて、…甘いココア。
でも香りはしているから、自分以外の連中にはコーヒーを淹れたのだろう。
それを知られたくなくて、ゼシカはあんな風に言ったのだ。
今この空間で、2人の間だけにある秘密。ククールのカップだけ中身が違うこと。内緒にして、と。
ククールは頬がゆるむのを隠せなかった。
気のせいか若干ぎくしゃくした動きで洗い物をしているゼシカの後ろ姿はかたくなで、
もうしばらくは決してこちらを振り返らないことは確かだった。多分顔はトマトのように赤いに違いない。
それならば、と正面に座りなおして、改めてココアを口に含む。
多分自分基準で砂糖を入れたのだろう。それは普段なら絶対にククールが飲むことのない甘ったるさ。
でも今は、この甘さが幸せで、最高に愛しい。
思わずのどの奥でクックッと笑いがもれたククールを、仲間たちが不気味そうに見ていた。
さりげなさを装ったゼシカがテーブルに戻り、全員が朝食を終えた頃、エイトがふと尋ねる。
「そういえばククール、さっき言ってたけど、今日ドニに行くのかい?」
だったらついでに買ってきてほしいものが…などと計画的なことを言い出したエイトに、
ククールは笑って首を振った。
「いや、行かねぇ」
「でも今日行ったらお望みのチョコが死ぬほど貰えるんじゃねぇんでがすかい」
「ゼシカが淹れてくれたコーヒーが最高に甘かったから、他のチョコなんてもういらない」
ククールはすでに空のカップを持ち上げ、ウィンクして見せる。
いつもブラックの彼が甘いコーヒー?2人は顔を合わせて首をかしげた。
途端にゼシカがガタンッ!!と音を立てて立ち上がり、ククールの手からカップを奪い取って、
彼の後頭部をバシッと叩く。
まったくめげず、ククールは「ごちそうさま」とニヤける。
ゼシカは悔しいような表情でそれを睨むと、すぐにカップを流しの中に突っ込んだ。
証拠隠滅。
でも、この甘さをなかったことには絶対できない。
それは今まで貰ったチョコレートなど足もとにも及ばない至高の甘さだったのだから。
「――ハッピーバレンタイン」
ククールが嬉しそうに囁くと、消えそうな声でゼシカが「バカ」と呟いた。
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最終更新:2010年05月07日 19:01