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2人はベッドに腰掛け見つめあっていた。
ゼシカがかすかに頬を紅潮させ、瞳を閉じる。ククールは一瞬目を細めたが、
すぐに彼女の肩に手を置き、薄く開いた可憐な口唇に優しく口づけた。
あの忌まわしい出来事から、数か月が経っていた。
それ以来いつからか2人の間に、約束事のように繰り返されている一つの行為があった。
抱きしめ合い、睦言を交わし、素肌に触れ合って、見つめあって、キスする。
お互いを慈しむための行い。性行為などとは到底呼べないままごとのような愛情確認。
ふとしたことで、ゼシカが異性に触れられるとひどく怯えることに気づいたククールが始めたことだった。
それはゼシカ自身は全く気づいていなかった、心の奥底に残された傷だった。
「オレがすることが嫌だと思ったらすぐにそう言って。嫌じゃないと思ったら、
目を閉じて、なんにも考えないで、身体の力を抜いて、受け入れて」
ククールは真摯な瞳でそう言って、ゼシカの身体をまるで壊れやすい宝物のように大切に扱った。
少しでもゼシカが拒絶の反応を見せれば、ククールはすぐに謝って手を離した。
ゼシカは、ククールに抱きしめられることに嫌悪など感じなかった。どうしようもない恥ずかしさは
あったけれど、泣き出したくなるほどの安心感と苦しいくらいに高鳴る胸の鼓動は、
大好きな兄に抱きしめられた時の幸福感とはまるで違うときめきと疼きを与えてくれた。
最初は、両肩を掴まれただけで身体が跳ねた。それでも、ククールが丹念に肌を撫で、羽根のように
優しく触れ続けてくれたおかげで、徐々に緊張がほぐれ、彼に身を任せることができるようになった。
はじめてキスした時も、思い返せばゼシカの方から望んだような空気がある。
熱っぽく潤んだ瞳で見つめてくるゼシカに、あと数センチで口唇が触れ合ってしまうような距離のまま、
ククールはひどく戸惑った様子で眉をひそめていた。しかしゼシカが泣きそうな顔でククール、と
名前を呼ぶと、何かを決心したように(あるいは何かを諦めたように)、そっと…キスをした。
触れ合い、口づける。
そこで終わりではないことは、さすがにゼシカにもわかっていた。
これが「男女」の営みであるのなら、この先に続くべき行為も想像がつく。
さらに言えば、すでに一つの確信があった。
ククールはきっとそれを望んでいるのだろうと。
そして―――自分も。
ククールに「これ以上」をされても、もうあの恐怖は蘇らないとわかっていた。
「……………ククール…?」
ふいに彼の手が身体のどこからも離されて、ゼシカはうっとりと閉じていた目を開いた。
ククールは腰かけたまま組んだ指を額にあててじっとうつむいていた。表情が見えない。ゼシカは不安になる。
「…ど、うしたの?何かした?わたし…」
「もうやめよう」
いきなりキッパリと言い切られ、意味がわからずゼシカは目を丸くする。
「もうゼシカは大丈夫だ。あとは自分自身で心を回復していかなくちゃならない。
オレにできるのはここまでだよ」
絶句するゼシカをよそに、ククールは流れるように言葉を口にする。
しばらくして、ゼシカの口からようやく零れた言葉は震えていた。
「ここ、まで?…ここまでって、なに?」
「本当は、オレがするべきじゃなかった。ごめん。でもお前のトラウマを克服させるのは
あの時点でオレしかいなかったから、やってよかったと思ってる。
これでゼシカが怯えることはもうない。オレの役目は終わった」
それはあらかじめ用意してあったセリフのようによどみなく、躊躇もない。
ゼシカは声だけでなく、全身が震えてくるのを感じた。
ククールの言いたいことが、おぼろげながらわかってくる。決してわかりたくない内容が。
“役目”?
口唇が開くが、言葉が出てこない。明らかに狼狽しているゼシカに、ククールは低い声を落とした。
「――――ゼシカとセックスはできない」
その途端、衝撃で空気がひび割れた気がした。ゼシカのか細い声が響く。
「……役目、だから?」
「………………」
「ククール、私に触れてくれるの、嫌だった?」
「…そういう話じゃない」
「私、わたしは、ククールに触れてもらえるの、すごく好き、だったよ。しあわせだった」
おそるおそるゼシカは本音を吐露する。もう羞恥などとなりふりかまっていられない。
はっきりとククールが離れていく感覚が、怖い。
「…わたし、わたしは、ククールと、…。………した、い」
そう告白した瞬間ククールが乱暴に立ち上がり、ゼシカは思わず身を縮こませた。
嫌われた、軽蔑された、どうしよう、と、ただ混乱する。ククールはゆっくりと背を向ける。
「――――吊り橋理論って知ってる?」
へ?とゼシカは気の抜けた声を洩らす。
「深い谷の揺れる吊り橋の上で男と女が出会うと、恋に落ちる可能性が高いんだと。
心臓が高鳴ってる状態での出会いは、相手を好きなんだと脳が誤認するらしい」
温度のない置物のようにつらつらと並べられていく言葉。
だからなに?とゼシカは言いかけた。しかし、声にはならなかった。彼が何を言いたいのか、嫌でもわかる。
一気に頭に血が昇った。
「わ…っ、私のこともそうだって…言いたいの…!?私の気持ち…っ!!」
「お前が悪いんじゃねぇよ、全部偶然だ。お前はもうオレなんかにひっかかってちゃいけない。
キスもセックスも、ほんとに惚れた男とす…」
どん、とククールの肩を押したゼシカが、全身の力をこめてその頬を張った。
「バカにしないでよ!!!!」
さっきまでなんとか耐えていた涙が叫びと共に零れ落ちる。
それ以上言葉が出てこなかった。それぐらい腹が立っていた。そして、同時に悲しかった。
“勘違い”だと言われた自分の想い。
“思い込み”だと切り捨てられた自分の恋。
ドキドキしていたから、ククールを好きになった?
バカにするんじゃないわよ、そこまで子供じゃないしそこまで単純じゃないわ!
ボロボロ流れる涙を止めることもできず、ゼシカはただ無言でククールを睨みつけていた。
ククールも顔を逸らしたまま動かない。これ以上言うことはないとでも言うように黙っている。
――――何か言ってよ
ゼシカは心の中でククールに訴えた。
心を突き刺す沈黙に、もう、気勢を張れない。彼を殴ったまま握りしめていたこぶしから、ふっと力が抜ける。
本当は、もう気づいていた。
“吊り橋理論”。
そう、そうなんだね。それに引っかかってしまったのは、私じゃない。
…あの時、身も心もボロボロになった女に出くわして、決して一人では立ち上がれなかった女を前にして、
ククールは“勘違い”した。「自分はこの女のそばにいるべきなんだ」と、“思いこんだ”。
あなたの性格で、あんなに情けなくて惨めで可哀想な女を前にして、放っておくなんてこと、
できるわけなかった。だから、自分の気持ちを同情から恋心にすり替えた。
そうでもしなければ、好きでもない女の身体に、愛情を持って触れて、キスするなんて、できなかったから。
そして私が傷を克服できそうになって、ようやくわかったのね。自分の本当の気持ちに。
「……ごめんね」
永遠に感じられた沈黙を破って、ゼシカがポツリと言った。ククールがゆっくりと顔を上げる。
その力なくうつむくゼシカの様子に、さきほどの迸るような怒りはもう微塵も感じられない。
「ずっと、嫌なことさせてたんだね。…ごめんね」
降ってわいた偶然で、私は自分たちが好き合っているんだと誤解した。
告白ひとつまともに交わしてはいなかったのに、まるで恋人同士になった気になって、浮かれていた。
……それが「本当に」嬉しかったのは、自分だけだったのだと。
ククールは私と「これ以上」をするなんて、まっぴらごめんなのだ。その事実を冷静に受け止める。
私はただの仲間。なら未練なんか残してはいけない。少なくとも、そのように振舞わなくてはいけない。
じゃないと彼はまた、私に「同情」してしまう。
フラリと扉に向かって歩き出したゼシカに、ククールが何か言いかけてグッと口唇を結んだ。
ククールの心の中の葛藤がどれほどのものであるかなど、当然ゼシカが気づくわけもない。
何もかもを抑え込み封印しなければと考えたのは、ゼシカだけではなかった。
「もうやめよう」と、その一言を口にすることがどれだけ彼を苦悩させたか、ゼシカは知らない。
そしてククールにもそれを知らせるつもりはなかった。ククールの決意は強固だった。
だから、ゼシカが部屋から出ていくのをじっと待つ。こぶしを握りしめて。
「――-――あのね」
ふいに、ドアノブに手をかけたまま、ゼシカの囁くような声が床にしんと落ちた。
「…あの時、すごく怖くて、とにかく怖くて、声も出なくて、私、もう終わりだと思ったの」
ククールが眉をひそめる。強姦未遂に遭った彼女の、まさにその時の心情を聞くのはこれが初めてだった。
「その時ね。私の頭の中に無意識に浮かんだのは、…………ククールのことだけだったんだよ」
ハッ…とククールが目を見開いたことに、背中を向けるゼシカは気づかない。
ゼシカはポツリポツリと、でも意志をもってククールに伝える。
「他の誰も思い浮かばなかった。兄さんのことすら、考えもしなかった。ただ、ククールのことしか
考えられなかった。ずっとずっとククールの名前を呼んで、ククール助けて、って最後まで叫んでた」
ノブにかけられた指が震えている。そして、声も。それを隠そうと必死になっているのが伝わる。
「………だから…。―――“吊り橋理論”は、私には、当てはまらないの。
だってククールに抱きしめてもらう前から、私はククールが、…好き、だったんだもの」
それだけは伝えたかったの、という言葉と同時にゼシカは扉を開く。
ククールの足がわなないた。引き留めたいと、全身がわなないていた。
でも見えない糸に縛られて、時を止められたかのようになぜか指先ひとつ動かせない。
ゼシカが肩越しにわずかに振り返る。口唇だけで、ありがとう、と告げて。
その瞳から光る雫が流れ落ちたのを認めた瞬間に、ククールの呪縛が解けた。
廊下に踏み出し扉を閉めようとした―――ゼシカの身体を、ククールは攫うようにして腕の中に閉じ込める。
それはオレのセリフだ、と、心の中で叫ぶ。
そしてククールはゼシカがそれまで聞いたこともないような苦しげな声を、ゼシカの耳元に囁く。
「オレもゼシカを抱きしめる前から、………お前のことが、好きだった…!!」
最初からそういえばよかったのに。バカみたいね、私たち。
ずいぶん時間が経ってから、ゼシカはそう言って泣きながら、笑った。
最終更新:2010年05月10日 18:42