「……どこ行く気だったんだ?ゼシカ」
ククールが一歩前に出て、背後で扉が閉められる。反射的にゼシカは一歩後退した。
必死で隠そうとしているものの、その顔は怯えに満ちている。
「…っ、……べつ、に、……どこにも」
ククールはひどく面白そうに目を細めながら、ゼシカに大股で近づいていく。
そのたびにゼシカはあとずさり、じりじりと壁際に追い詰められた。
ハッと気付いた時には壁に背中が当たり、ククールの腕がダン!と乱暴な音をたてて
ゼシカの顔の両脇に突かれた。ゼシカは思わず身をすくめ目をつむる。
20㎝近くの身長差のせいで、ゼシカの小さな身体はククールの影にすっぽりと覆われてしまう。
室内の照明は点いていない。月影に見える男の微笑は不気味なほどに美しい。
そしてその瞳の奥に潜む確かな怒りを見出す。あぁ、やっぱり彼は最初からわかっている。
ゼシカは逃げようとしたことを死ぬほど後悔した。
自らクモの巣に飛び込んできた蝶をみすみす逃すような真似はしない。この沸き上がる憤りに応えるだけの
ものは返してもらうつもりだった。震えながらもがき抗う彼女の姿は、ククールの加虐心を大いにくすぐる。
一纏めに高く結わえられているまだ半乾きのポニーテールにサラリと指をからませながら髪留めを外すと、
ゼシカによく似合う赤髪がフワリと肩にすべり落ちた。その一挙一動にゼシカはいちいち身を震わせる。
何をされるのかと怯えているのは一目瞭然だ。そんな態度がますます男をつけあがらせるだけとも知らずに。
ククールはほくそ笑んだ。そのまま耳に口づけ耳たぶを甘噛みし、性感帯をゆるやかになぞりながら
言葉を注ぎ込む。もっともゼシカが羞恥を煽られる方法で…
「――――ちゃんと身体中キレイにしてきたか?」
“オレに抱かれるために”
言外に含まれたその嘲りに、ゼシカの全身が紅潮した。
一瞬にして耐えがたい羞恥に襲われ、拒絶の言葉が口をついてほとばしる。
「―――やめてよ…っっ!!!!」
舐められる耳を振り切って彼の胸を押し返し、阻まれた二の腕の中から逃れ出ようとした。
許せない。咄嗟にそう思った。それは言わないのが“ルール”のはずなのに!
虚を突かれたククールは、扉の方へ走ろうとする身体をすぐさま力任せに捕えた。
それでも尚 暴れ、なりふりかまわず抵抗するゼシカに、ククールは動揺の色を顔に張り付ける。
手首を捕え大きな音を立てて乱暴に壁に貼り付けると、ギリギリまで顔を近づけて強引に視線を合わせる。
―――睨みつけて、怯えさせるつもりだった。
しかしゼシカの思いがけぬ反抗は、一瞬でククールから全ての余裕を奪ってしまった。
唐突に沸き上がったのは怒りではなく、畏れ―――
ゼシカは強引に合わされた視線を逸らそうとしたができなかった。
間近で注ぎ込まれる碧眼に何かを奪われるような錯覚を覚える。
掴まれた手首にさらに力がこめられ、聞こえてきたのは絞り出すような呻きに似た…
「……オレから、逃げようとするな…ッ…!」
その目にはすでに怒りなどなかった。
ただ、狂おしい焦燥と…悔念に満ちた、今にも泣き出しそうな悲しい瞳…
その言葉を、彼は「乞うて」いる。強く願い、望み、欲しているのだと気付く。
どうして?
ゼシカにはわからない。治療と称した、辱められるだけの行為を跳ねのけられず屈辱に甘んじて、
快楽に翻弄され好き放題にされ、苦しいのは、悔しいのは、自分のはずだ。逃げるなと言うのなら
彼はそれを「強要」できる立場にあるのに、なぜこんな目をして「懇願」するのだろう。
ゼシカの口唇が何かを言おうとしてわなないた。しかし、言葉は出てこない。
ククールは顔を下向け、ゼシカの額に自分の額を静かに合わせた。
キツく閉じられた瞳。眉間には深いしわが刻まれている。苦しいのだろうか。
どうして?ねぇ、どうしたの?黙っていないで。言葉にしてくれないとわからないよ。
ゼシカの胸中に、いいようのない感情が広がっていく。同情ではなくて、憐憫でもなくて―――
愛しさ、この人を放っておけないという強い思い、自分だけがという責任、自負…
首の角度を変え、ゼシカは掬いあげるようにククールの口唇に自分のそれを重ねた。
なぜそうしたのか、自分にもわからない。そうすることが一番自然な行動だった。
ククールが一瞬驚きに身を固くするのがわかる。しかしすぐにゼシカを拘束していた手は
彼女の頬を両手で包みこみ、むさぼるように夢中で口づけに溺れた。
ククールの腕はゼシカの細い身体を壊しそうなほどに締め付け、
ゼシカも彼の背中を優しく撫でながら、果てのないキスを続ける。
彼の腕の強さにゼシカの胸は締め付けられた。まるで嵐に怯える子供のようにしがみついてくる。
どこにもいかないでと、子供の姿のククールが泣きながらすがりついているような気がした。
そう、怯えているのだ。怯えていたのは私だけではなかった。彼もずっと怯え震えながら、
自分を抱いていたのだ。いつ私が逃げ出すかと…彼を一人おいて逃げ出すのではないかと…
「―――――怖かったの…?」
互いの口唇の隙間で、必死で紡がれた言葉にピクリと反応したククールの動きが止まり、
ゆっくりと唾液の糸を引きながら顔を離した。間近に見つめあう。
怯えた目。困惑の目。己を恥じている目。それでも救いを求めている子供の目。
ククールは泣かなかった。
そして唐突にゼシカの瞳から一筋の涙が流れ落ちた。
その雫を舐めとり、ククールは堰を切ったように再び激しくゼシカの口唇に噛みついた。
抵抗できなくなったのは、決して快楽に支配されたからではない。ゼシカは今それを知った。
この人を、こんな風に抱きしめてあげたかった。胸のどこかに封じられてしまった彼の
本来の優しさや悲しみを、もっともっと知りたかった。だから離れられなくなった。
例えどんなに強引に抱かれても…どうしてもこの人をおいて、逃げられなかった。
それだけで達してしまいそうな濃厚なキスの余韻をお互い引きずったまま、
ククールは荒い息と口づけをゼシカの首筋や肩に注いでいく。
「ククー…ル。私…わたし、………逃げないよ…にげないから…」
彼の力はやっぱり強くて痛くて、ゼシカは小さな声で訴えるがククールは聞こえないフリをする。
ローブの合わせ目に手を入れてずらし、片方の白い肩と乳房を露わにした。
肩に近い腕の上方に深い傷が現れ、ククールは動きを止めた。
そこは清められてはいるが薬も包帯も施されず、明らかに痛みと熱をもっている。
当たり前だ…これが、ゼシカが今夜この部屋にくるための「口実」だったのだから。
……そして自分が彼女を抱くための。
ククールはほんの刹那口唇をかみしめ、そっとその傷に口づけた。
ゼシカが困惑しているのが伝わる。この傷を今治してしまえば、今夜自分たちがセックスをする理由はなくなる。
その通りだ。自分達は恋人同士じゃない。愛を誓い合ってなんかいない。――それでも。
傷口に口唇から直接回復呪文が注ぎ込まれ、ゼシカは切なげに目を細め背筋を震わせた。
淡い光に包まれ癒されていく自分の身体。そう、最初にククールがこの行為に及んだのは、
彼が優しい人だったからだ。彼の回復呪文は優しさの表れだとゼシカは思った。
そしてその恩恵を受け取ることがいちばん許されているのは、きっと自分なのだろうと。
そのことがこんなにも嬉しいなんて。…今気づいたんじゃない。忘れていた…
ククールの口唇と舌が、傷から逸れ腕を這い、胸の盛り上がりを縁取るようにくすぐりはじめると、
ゼシカの頭の中はしびれたように麻痺していく。
たったこれだけの戯れに息を乱すなんて。どうしよう。羞恥とは違う、疼くような感情に戸惑う。
幾度も望まない行為を続けてきて、いまこの瞬間にはじめて、ゼシカは心からククールに抱かれたいと思った。
そしてそれはククールもまったく同じ。ただひたすらにゼシカを抱きつくして、
この清純で淫乱な白い身体を自分だけのものにしたかった。辱めるのではなく、慈しみたかった。
口実はもう存在しない。欺瞞はもう必要ない。ここにあるのはようやくさらけ出した本心だけだ。
「逃げない」と言ってくれた彼女を、その真意を、言葉ではなく身体で実感したかった。
ずっとお互いが本音を押し隠したまま、意味のない行為を繰り返していた。
でもきっと最初からわかっていたんだろう。
「究極魔法」が、自分達の間でしか効果を示さないただ一つの理由を…
最終更新:2010年05月10日 02:51