*
ここはドニ。ゼシカがククールの仲間、もしくはそれ以上の存在であることは住人のほとんどが
知っている。めったなことはないと思うが、日付も変わろうというこの時間、あの薄着で
真夜中の町をフラついている彼女の姿を思い浮かべただけで、じっとしてはいられなかった。
ククールは宿を出て酒場に向かった。足取りは重いが、このままゼシカを見つけずに宿に戻る気はない。
「おばちゃん」
店の前に、幼いころからククールを可愛がってくれた馴染みの女店主を見つけた。
恰幅の良い姿はそのまま世話好きのおばちゃんという感じで、ククールも昔から随分と甘えてきた。
「おや、ククールぼっちゃん」
「…だから坊ちゃんはやめてくれって」
思わず苦い顔をすると、彼女――リンデは、満面の笑みを浮かべる。
「おっと悪かったね。女の子を泣かせる立派なプレイボーイに、ぼっちゃんはなかったかい」
「……ゼシカに会ったのか?」
女性特有の、笑顔と言葉の裏にあるトゲに勘付き、ククールは聞いた。
リンデはさっと表情を改め、じっとククールを見つめてから、
「ククール。…あの子はあんたの、恋人かい?」
確かめるように聞き返した。
頭の中ではそうだと言っているのだが、すぐに肯定の言葉が告げず、ククールは押し黙る。
自分にとっては、そうだ。でも、アイツにとっては、もしかしたら、もう…。
余計な考えを振り切るように一度首を振ってから、ククールはそうだ、と答えた。
リンデは長い間ククールをじっと見つめて、苦しげに目を伏せ、息をついた。
「……あんたは本当に、色々と背負い込む子だねぇ」
「え?」
「あんたはあんたで色々大変なんだろう、わたしには詳しくはわからないけど。…今度就任する
新法皇の名がマルチェロだって聞いた時は、驚いたよ。あれは…あんたのお兄さんだろう?
前法皇の死も色々と疑惑が取りざたされているし、あんたが心穏やかでいられるわけがない」
ククールは何も言えなかった。聞きたくない話題なのに、聞かなくてはならない気がする。
「……それでもねぇ、ククール。自分は一人だなんて、勘違いしてはいけないよ」
その一言は、ククールの心にすっと自然に沁み込んだ。
今度こそはっきりと怒りをこめて、リンデはククールを見据える。
「あんないい子を、あんな風に泣かせて、何が恋人だいまったく」
そろそろ酔っ払いを追い出して店じまいの支度をしようとしていたリンデが、
こんな時間に一人とぼとぼと町中を歩いていく見覚えのある娘を見つけたのは今から少し前。
声をかけ、ククールの連れだったと思い出して、ククールはどうしたんだいと尋ねてみると、
たちまち声をあげて泣き出してしまった。
実はリンデは、夕方に連れ立って店にやってきた2人を、最初からこっそり注視していた。
はじめから険悪で、言葉少なに、そのうち口論になり、そのうち早い時間にゼシカだけが席を立った。
その後のククールはひどいもので。
明らかにヤケになり、酒を浴びるように飲んでは、見知ったバニーをはべらせて人目もはばからず
下品な言動に下品な振る舞い。バニーを膝に乗せて濃厚なキス、さらに行為がエスカレート
しそうなところで、“ぼっちゃん”には甘いリンデもさすがにそろそろカツを入れようかと腰を上げた。
その時、店の入り口に立ち尽くすゼシカの姿に気付いたのだ。
帰りの遅いククールを迎えに来たのだろう、扉にもたれ、無表情に、半ば呆然と、
他の女と乱れるククールの姿を遠目に見ている。
「…わたしが張り倒してこようかい?」
そっと近寄って言うと、ゼシカはハッとしてから、力なく笑って首を振った。
「……いえ…いいんです。今は…好きにさせます。アイツ、弱いから……時々忘れるの、私がいること。
…………一人じゃないって自分で思い出してくれるまでは、…放っておきます」
「だけど」
「おばさんには迷惑かけるけど、ごめんなさい。…よろしくお願いします。
あんまり度が過ぎたらお店から放り出していいですから」
そう言って頭を下げるゼシカは毅然としていて、それは確かに本心なのだろう。
しかしリンデの目には、どこか必死で無理をしているようにしか見えなくて、眉をひそめる。
「いいの。――……ちゃんと、帰ってきてくれれば」
ゼシカが寂しげにポツリと呟いたのを、リンデは聞いた。
「他の女とイチャついてるのを見ておきながら、じっと耐えて待っててくれるなんざ、
女の鑑じゃないか。それをなんだい、あんな泣かせ方して今頃飄々と探しに来て、
どの口が恋人だなんてぬかすんだ。アンタぶん殴られても文句ひとつ言えないんだよ」
本気で叱られてククールはたじたじだ。もちろん言い返せる要素があるわけもない。
「こんな香水の匂いプンプンさせて!妙な痕までつけて!何様だいまったく!!」
ぎょっとして胸元を見ると、バニーちゃんにいつの間につけられたのか、あからさまなキスマーク。
リンデはククールの胸をどんと突き飛ばし、恐ろしいオーラを放って、ククールを睨みあげた。
「……一体あの子に何をしでかしたんだい?」
「………………。」
言えない。絶対に言えない。言わないと殺されそうだが、言ったら間違いなく殺される。
ククールは無言で許しを請うた。マジすいませんでしたと心の中で叫びながら。
やがてリンデがニヤリと笑って見せる。
「まぁいいさ。聞かなくても大体わかるからね。状況証拠はそろってる」
「…ぅ、え?」
「薬でも塗るかい?ソレ」
口唇を指さされて、ククールは思わず口元を押さえた。ゼシカに噛まれた箇所がわずかに痛む。
「ほっぺたに紅葉も張り付いてるしねぇ」
「………………。」
すげぇ、女の観察眼ハンパねぇ…素直に感嘆するが、それより何より…怖い。
もうダメだ、これ以上攻撃されたら本気でへこむ。
そう悟ったククールは、決心してぐっと拳を握った。
「わかったおばちゃん、オレが悪かったから。ゼシカどこにいるのか教えてくれ」
「ほんとに反省してるのかい」
「してるよ。悪かった。全面的にオレが悪い。ちゃんと謝るから…」
脳裏には、最後に見た彼女の泣き顔しか浮かんでこない。
「……頼む。アイツに会いたいんだ」
今もたった一人で、あんな風に泣いているのかと思うとたまらなかった。
リンデはしばらくの間、そんなククールの顔を睨みつけていたが、そのうちふっと表情をゆるませた。
やれやれ仕方ないね、という呟き。
「…わたしの家にいるよ。場所はわかるだろ?土下座でもしてくるんだね。
それで、二度と泣かせるんじゃないよ。いいね?」
「わかってる。ありがと、おばちゃん」
すぐに踵を返して走り出したククールの後ろ姿に、幼かった彼の姿を重ねて、リンデは優しく微笑むのだった。
***
赤々と燃える暖炉の前に座り込んでいるゼシカの背中を見た時、心臓が止まりそうになった。
勢い込んで来たものの、その頼りない背中に胸がつまる。足が止まる。声が出ない。
つくづく自分は情けないと思う。
―――いきなりゼシカがぐるりと振り返り、固まっているククールと目が合った。
「…!!」
泣いて―――――、いるものだとばかり、思っていた。
しかし次の瞬間、それがとんでもない自惚れだったとククールは知る。
バッッッチイイィィィイインン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
…本当に、そんな音が部屋いっぱいに響いた。
説明するまでもない、すっくと立ち上がったゼシカは、いきなりククールの頬を力の限りに張ったのだ。
その威力は、さきほどと同じ単なる平手などという甘いものではない。
なんの構えもしていなかったククールは、あっけなく気前よくスポーンと、部屋の隅にまで吹っ飛ばされた。
その様はまさに、「なぎ払われた」と称するのがふさわしい…
さすがゼシカ、そのへんの女の張り手とはわけが違うぜ。目の前に星が飛ぶとかヒヨコが回るとか、
そんな力士ばりの一撃を繰り出せるのはオレのゼシカしかいねぇ。さすがオレの惚れた女。GJ。
そういえば最近コイツ、格闘スキル上げるのに熱心だったっけ…これなら暗黒神などメじゃあるまい…
「グーじゃなかっただけ感謝しなさいよね!!!!」
一瞬気が遠のいていたククールは、聞き慣れた怒声に我に返った。
「…ゼシカ」
「あんたなんかダイッキライよ!!!!」
目の前に立つゼシカを見上げると、顔を真っ赤にさせて拳を握りしめてククールを見下ろしていた。
「なんでそうなのよ!!いつもいつも!!あんたはなんでそうバカなのよッッ!!!!」
クラクラするのを堪えてゆっくり立ち上がり、いつもの身長差で彼女を見る。
本気で怒っている時の顔だった。微動だにせず、絶対に相手から目を逸らさない。
「なんでわかんないの!?なんですぐカッコつけるの!?カッコよくなんかないくせに!!
なんにもわかってないくせに!!逃げてばっかり!!一人じゃなんにもできないくせに!!」
「……その通りだよ」
ククールが自嘲気味に呟くと、ゼシカは一度押し黙り、彼をじっと睨みつけた。
「……何しに来たの」
「謝りに」
「…じゃあ謝ってよ」
「……………悪かった」
目も合わせられない。そんな一言で伝え切れるわけがないのはわかってる。
だけど彼女のまっすぐな視線を受け止めるには、胸の中を覆う罪悪感が、まだあまりにも重くて。
逸らした目線の先に、ゼシカの剥き出しの肩や鎖骨にあからさまに付けられた
品のない残酷な赤い痕の多さを見て、さらに失望する。
あぁ、これもさっきおばちゃんの言ってた、“状況証拠”の一つだったんだろう…と。
しばらくして、ゼシカがボソリと言葉を落とした。
「…あとちょっと来るのが遅かったら、私があんたをひっ捕まえに行ってたわ」
来るのが遅い、と言われてるようなものだろう。
「…悪い。…待たせた」
「待ってないわ」
しかしキッパリと言い切られ、顔を上げる。
「最初は、待とうと思った。あんたのこと、ちゃんと待ってみようって思った。
あんたが酒場で他の女の人と何してたって、私以外の人とどんな最低なことしてたって、
最後に私の待つ部屋に帰ってきてくれるなら、待っていようと思ったのよ」
ゼシカの顔がまた怒りに染まる。だけどその表情は、泣きそうに歪んでいる。
耳をふさぎたい気持で、ククールはそれを聞いていた。
改めて今日の自分の情けない所業を思い返し、奥歯を噛みしめるしかない。
「―――だけどッ!――そんなのできなかった…!私は、待ってるだけの女なんかお断りよ!!
ククールが間違った方に逃げるなら、追いかけて捕まえて、殴って燃やして、それから…ッ」
ゼシカの瞳に涙が浮かぶ。
「それから…ッ、…あんたは一人じゃないんだって、嫌ってほど教えてあげるんだから…ッ!!」
頬を流れた涙に、ククールはじっとしていられず、彼女の肩に手を置いた。
泣きながらもゼシカは、気丈にククールをまっすぐ見つめている。
「…あぁ、オレもそう思うよ。大人しく待ってるだけなんて、ゼシカには似合わない」
「…悪かったわね…」
「殴ってくれてありがとうな。おかげで目、覚めた」
あんな風にしてくれるのは、ゼシカだけだ。
「――――…ゼシカがいるから、もう大丈夫だ」
今度こそ、見上げてくる瞳をまっすぐに見つめ返し、心からそう告げる。
マルチェロとも…きっと、まっすぐ、真正面から、戦うことができる。そんな決意を。
ゼシカが小さな声でククール、と呟く。
ククールが苦笑交じりに笑うと、ゼシカもようやく口元に笑みを浮かべた。
そして…
そのままで、十数秒。
肩を掴んだままで一向に動こうとしない相手に、ゼシカはイラリ…と眉をひそめる。
「……ちょっと…なんなのよバカ…いつもはやめろって言ってもしてくるくせに…」
「え」
「え、じゃないわよッ。こういう時くらい男らしく抱きしめたらどうなの?なんで何もしないのよ…ッ」
まさかゼシカの方からそこに言及してくるとは意外で、ククールは咄嗟にうまい言い訳が思いつかない。
さらにちょっぴり俯き、頬を染めるゼシカ。
「……それに…っ、キ、キスくらいしたって…ッ、別にいいんじゃないの!?わ、私だって
いつもいつも嫌がるわけじゃないんだからね!?空気ってものがあるでしょ!?バカ!!」
「あの、いや、えっと…」
「なによっ、もう!」
しびれを切らしたゼシカの方からズイッと一歩近寄られ、ククールは焦って思わず一歩退く。
「いや、待てよ。オレだって今めちゃくちゃお前を抱きしめたいけどさ、キスもしたいけどさ」
「じゃあすればいいじゃない!!!!」
「いやだから!オレ今…」
そこまで言って、ククールはゼシカからさらに一歩下がり、申し訳なさそうに続ける。
「……嫌だろ?風呂入らねぇと」
ゼシカはきょとんした。そしてすぐに、彼が何を言っているのか悟り、不機嫌な表情になる。
「そりゃ…イヤよ。他の女の人の匂いさせたまま抱きしめられるなんて。でも今は、そんなことより…」
「ダメだ。お前がよくてもオレが嫌なんだよ」
「いいって言ってるじゃない…ッ」
「嫌だ。お前にそんな我慢させたくない。一回部屋に戻ろう。ちゃんと風呂入って、それから…」
「今抱きしめてほしいのよッッ!!!!!!!!!」
涙まじりの叫びに、ククールは絶句する。
ゼシカはスカートを握りしめ、涙をぼろぼろ流しながらククールを睨みつけていた。
「ウソ…なんでしょ?本気じゃないんでしょ?だったら…だったらちゃんと…」
「嘘?本気?って…何の話だ?」
「…ッ!!」
唐突に、ゼシカが走り寄りククールの胸に飛び込んできた。
拒否していたもののいざこの状況になると、抑えていた愛しさが相まって、
ククールも瞬間的に腕の中の小さな体を思い切り抱きしめていた。
小さな頭を抱き込み、彼女の香りをめいっぱい吸い込む。
ククールの背中のシャツを握りしめ、ゼシカもそうして安堵の息をついた。
しばらくして、もぞもぞと顔を動かしたゼシカが、ククールの胸に顔を埋めたまま呟いた。
「…私が他の男の人と、こういうことしても…いいの?」
「なっ…」
脈絡がなさすぎて、いいわけないだろ、という言葉すらすぐに出てこない。
「だって私は…なんにもわかんないもの。ククール以外の男の人の胸の中も、
ククール以外の男の人のキスも、ククール以外の人との、…エッチも」
「……あ~…」
今さら思い出した自分の最低最悪な失言に、天を仰いで遠い目をする。
――――お前も、一回オレ以外の男と寝てみたら?――――
なんであんなことが言えたのか…今となっては本気で自分を呪い殺したい。
「ゼシカ…あれは」
「私はククールしか知らないの。ククール以外知りたくなんか、ないの」
弁解を遮られ、向けられたゼシカの赤く染まった顔とまっすぐな言葉は、ククールの心を貫いた。
これ以上喜ばしい言葉があるだろうか。そして愛しい。どうしようもなく。
「……あれは、うそなんでしょ?…うそって言って」
「嘘に決まってんだろ…お前がオレ以外となんて…考えただけで気が狂う…」
本当は誰よりも独占欲が強いのは自覚してる。それを隠すのに慣れすぎただけで。
だからそれを増長させるようなことをゼシカ本人から言われては、もう抑えきれない。
お望み通りキスを与える。
だけどそれは到底、王子様がお姫様に捧げるようなロマンティックなものじゃない。
息さえ紡がせない。オレのことしか考えられないように。オレのことしか見えないように。
思いのたけを、無言で伝える。口唇だけで伝える。隠してきた汚れた欲さえも、唾液と共に注ぎ込んだ。
ゼシカが酸素不足と敏感になった体を持て余して床にペタリと座り込むと、
ククールは当たり前のようにそこに覆いかぶさってきた。
「ちょっ…!何してんの、これ以上はダメよッッ!!」
「なんで」
「ここがどこだか忘れたの!?」
荒い息でゼシカは叫ぶ。ククールは一瞬シーンとして、あぁ、と思い出した。
「さすがに人んちでは無理か…」
「…よかったわ、それくらいの理性は残ってて」
呆れたため息をついたゼシカが、それに!とククールの胸をグイッと押し返した。
「やっぱりイヤ!その香水の匂い全部キレイに落としてからじゃないと、絶対しない!」
「さっきはいいって言ったくせに」
「イヤ」
頬を膨らますゼシカにククールは観念し、立ち上がる。
続いてゼシカも立ち上がり、少し考えたあと、おもむろにククールに手の甲を差し出した。
反射的にその手を取ってしまうのは、騎士の性。しかし顔には??が浮かぶ。
ゼシカはふわりと微笑み、
「これくらいは許してあげる。…早く帰ろ」
そう言って、ククールの手を握り返し、そっと寄り添い、歩き出した。
*
「…でもさ。自分じゃ、匂いが取れたかどうかなんて正直わかんねぇんだよな」
「そんなの知らないわよ。死ぬほどゴシゴシすればいいでしょ。でも私が待ってるってことを
考慮して、迅速かつ丁寧に、かつ完璧に洗い落としてこなきゃダメよ」
「手厳しーこと…。…じゃあここで一つ提案」
「なによ」
「ゼシカも一緒に入るってのはどうだろう。合理的かつ素晴らしい打開策だと思うんだが」
「なっ!!!!」
「そんでゼシカがオレの体をゴシゴシ洗ってくれれば、匂いが取れたかもわかるし
無駄な時間もかからないし、何よりゼシカが一人ぼっちで待つ必要がなくなる」
「そっ、そんなっ、こと…っ」
「なんならそのまま次はオレがゼシカの体を隅々までゴシゴシしてやるよ。
ゼシカがイイ所、思う存分時間かけてゆーっくり丁寧に洗ってやるから…」
「~~~~ッッバカーーーーーッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
帰り道、人騒がせな2人がどんな会話をしたのか。
その夜、恋人たちは、はじめて一緒にお風呂に入ったのか。
それは、本人たちしか知らない。
最終更新:2010年05月10日 11:51