嫌な夢を、見た。
ここ……煉獄島に送り込まれて間もない頃に。
黒犬を倒した後の、あまりに
理不尽なこの展開。
法皇の館からここまでの一連の筋書きを作ったのは、他ならぬ兄。
極度の混乱によって暫くの間は眠ることすらできず、半ば倒れるような状態で眠りに陥った時の夢だった。
緊張の糸が切れたように傍らで倒れてしまった法皇様。
悦に入った表情で一瞥をよこした兄。
混乱の中で放置してきてしまった、あの杖。
それらの衝撃的な記憶がもたらした悪夢だとばかり思っていた。
あまりに凄惨な図だったために、口に出すこと自体が憚られた。
そんな夢を見てしまったことで底なしの罪悪感に苛まれていた。
(杖を聖地に近づけてはならぬ……。決して、聖地には……!!)
ククールの夢に現れ悲痛な叫びを残した法皇の胸には、ぽっかりと穴が空いていたのだ。
地上の大ニュースが、日々繰り返される看守交代の折に煉獄島へともたらされた。
法皇が亡くなったと看守は言った。しかもひと月ほど前のことだと言う。
そのニュースに牢内も一時騒然となり、それが収まった頃に囚人の一人である修道僧が、震えながら小さな声で絞り出すように語った。
「そう。あれはちょうどひと月前。法皇様が夢枕に立ち、私にこう告げたのです。杖を聖地に近づけてはならぬ……と。胸に何かを突き刺されたような、大きな穴の空いた、おいたわしいお姿でした」
ガチャッ!!と、派手な金属音が牢内に響いた。
床に腰を下ろしていたククールが修道僧の側に向き直った際に、その勢いのあまりに装備していた剣がたてた音だった。
ククールの顔は驚愕で歪み、その瞳は修道僧を凝視していた。
その様子を見て、近くにいた全員がククールに注目する。
「あんた……法皇様に会ったことがあるのか?杖って何だ!?」
「い、いえ!お目にかかったことはありませんし、杖も分かりません」
尋常ならざるククールの迫力に、修道僧はたじろぎなからも言葉を続けた。
「ですが不思議なことに、夢に出た方が法皇様だということだけは確信が持てたのです」
ククールと他の面々の視線が、今度は修道僧に向けられる。
「そして、法皇様をあのようなお姿で夢に見てしまった自分は何と罰当たりなのだろうと思い、あの日以来懺悔をしておりました」
そう言うと修道僧は俯き、十字を切ってから祈りを捧げ始めた。
ククールは修道僧の姿を凝視したまま、しばらくの間凍りついたように動かなかった。
そしてようやく開かれたその口から出された言葉は、それを耳にした者全員を凍りつかせることとなる。
「オレも、あんたと同じ夢を見た……」
静まり返った中、ククールは沈痛な面持ちで語り始めた。
「多分、法皇様はその姿で亡くなったんだ。そして最後の力で世界中の僧侶の心に呼び掛けたんだろう」
全員が固唾を呑んでククールの話に耳を傾ける。
「……あの杖のことを。しっかし、滑稽なもんだよな」
ククールは立ち上がり、かぶりを振って苦笑した。
傍目には苦笑に映るククールの表情を見た仲間たちは愕然とする。
いつもの彼のそれとは違う、その奥に見え隠れするやり場のない怒りや絶望……。
それらが綯い交ぜになった、凄絶としか言いようのないものを垣間見てしまったからだ。
「あのじいさまが法皇様でなけりゃ……。お告げを受け取ったのが僧侶でなけりゃ……。最後の最後で、法皇様が生涯を捧げて教えを説いた信仰ってやつが邪魔しやがったのさ……」
寄せられる視線から逃れるようにククールは皆に背を向けると、その胸中に溜まっていたものを一気に吐き出した。
「たった今真実を知らされるまで!誰もお告げだと気付こうともしなかったんだ!あんたも!オレも!!」
そして振り上げた左手の拳を壁に打ちつけた。何度も、何度も。
「何が懺悔だ!?笑わせんじゃねえよ!それで悪戯にひと月も無駄に……ちくしょう……!!」
「もういいから!やめてよっ!!」
壁に打ちつけ続けられるククールの左手を、ゼシカは駆け寄って
後ろから両手で掴み制止しようとした。
しかしククールの手加減無しの腕力を華奢なゼシカが受け止められるはずもなく、最後の一回はゼシカの手もろとも壁に打ちつけられることとなってしまった。
「痛…っ」
自らの左腕にしがみついたまま眉間に皺を寄せるゼシカを見て、ククールはようやく恐慌から抜け出す。
「…ゼシカ……」
「ククールもこの人も悪くないわ。悪くない……」
ククールの左腕から力が抜けてゆくのを感じたゼシカは、拳を労るように両手で包み込んでから話を続けた。
「誰だってそんな夢を見たら胸の内に留めるわよ。だから、そんなに自分を責めないで」
「…………」
しばらく時間をおいた後、ゼシカは未だ呆然と立ち尽くすククールの顔を覗き込む。
「ね?」
ゼシカと目が合ってしまったククールはバツが悪そうに目を逸らし、今の騒動でゼシカの手にできてしまった擦り傷に、泳がせた視線を落とした。
「……すまない」
ククールはぽつりと一言呟いてから、半ば条件反射的にゼシカの手の傷にホイミを施す。
「ありがとう……」
ゼシカはククールが平静を取り戻しつつあることを認め、微笑みを返した。
再び床に腰を下ろしたククールは、微動だにせず自らの足許に視線を落としていた。
ゼシカはそのすぐ隣に腰を下ろし、静かにククールを見守っていた。
そんな状態でどのくらいの時間が経っただろうか。
ククールがぽつりと呟いた。
「……だらしねぇなあ、あいつ」
「ん?」
ゼシカは小さく一言だけを返した。
ちゃんと聞いているからね、というサインだった。
「マルチェロの奴、まんまと暗黒神に乗っ取られやがって。ざまぁねぇや。…………ほんと…頭くるね。マルチェロも、ラプソーンもさ。ほんとに……」
ククールはゆっくりと一言一言を噛み締めるように呟いた。
ゼシカはその言葉を聞いて、改めてククールの抱える苦悩の大きさを思い知らされる。
そうだった。
自分たちは杖……ラプソーンの動向だけを案じていたが、ククールにはそれに加えてマルチェロのこともあったのだ。
そして法皇様の死も、自分たちとは違った辛さがあるのだろう。法皇様の死……。
(あれ……?)
ゼシカはひとつの疑問に突き当たった。
「ねえ、あれからひと月過ぎてるのに、大ニュースが法皇様の訃報だけって変じゃない?」
「……何で?」
「法皇様が亡くなったってことは、最後の封印を継ぐ賢者の末裔も死んじゃったわけで、それで杖の封印は全て解けたってことでしょ?でも暗黒神が現れたっていうニュースは無い」
「そう…だな……」
ゼシカの言葉の勢いに思考が追い付かないのか、ククールの返答はゆっくりとしたものだった。
「あの時は法皇様が倒れられてしまったから、しばらくの間は誰も杖に触らなかったんでしょうね。だけど、その後ずっと部屋に放っておかれたとも思えないの」
「…………」
「でね。私も杖を拾ったのはマルチェロだと思ってる」
ゼシカの耳が微かな金属音を捉える。
マルチェロの名を聞いて、ククールが身じろぎをしたようだった。
「……それが館の警護を任された聖堂騎士団長の仕事でしょうからね」
「よりによって……だよな」
ククールの声音には絶望的な響きが含まれていた。
それを聞いたゼシカは首を横に振る。
緋の髪が大きくなびいているのが、ゼシカに視線を向けずともククールには認められた。
「ううん。不幸中の幸いだわ」
その言い様に驚いて顔を上げたククールは、ゼシカの瞳に宿る強い光に貫かれた。不覚にも背筋に衝撃が走る。
「今確実に言えることは、私たちにはチャンスが残されてるってことよ」
「チャンスったってなぁ……。ここからじゃ何も」
「うん。まずはここから逃げ出さないとね」
ゼシカは大きくため息をついた。
世情を冷静に判断して微かな希望の光を見出したゼシカも、こと脱走に関しては良策が浮かんでいないようだった。
「それにあのマルチェロだしな。どうせロクなこと考えてねえぜ」
ゼシカは苦笑する。
「相変わらずな言い方ね。まぁ分からないでもないけど。でも、今に限ってはマルチェロに感謝してるわ、私」
「感謝だって?」
途端にククールの顔に不機嫌の色が現れた。
言うに事欠いてマルチェロに感謝とはどういうことだ?しかも直前の言い分と矛盾してはいないか?
「マルチェロが何を考えているかなんて私には分からない。だけど今、マルチェロは確実に杖の要求を抑え込んでくれてる。他の人だったら多分できないわ。そのことに感謝してるの」
「……そうか」
「それがどれだけ大変なことか、私には分かるわ。私の時は、サザンビークに戻った日の晩から杖の望む行動をさせられたんだもの」
ビクッ、と、ククールが身を強張らせた。
ククールの脳裏に、リブルアーチでの出来事が鮮明に甦る。
二度と思い出したくもない、ゼシカと刃を交えたあの悪夢のような出来事。
それを今度は兄で経験することになるのか?
考えたくはなかったが、その可能性は極めて高い。
そして、ゼシカの時とは決定的に違うことが二つあった。
ハワードの結界が無いことと、杖の封印が完全に解け、その魔力が格段に上がっていることだ。
それが意味すること……それで可能性が上がってしまうことは……。
押し黙ってしまったククールを見たゼシカの表情が、にわかにかき曇った。
ゼシカの目に映ったククールは、普段の彼からは全く想像もつかない、不安や恐怖に苛まれ、それを隠すこともままならない姿だったからだ。
「……これからのことを考えると、辛いわよね」
ゼシカは立ち上がり、スカートの裾についた土埃を払った。
「でも、ククールは私の何倍も辛いんだと思う」
そしてククールの背後に歩み寄る。
「私はククールみたいにホイミはできないけど……」
ゼシカは両腕を広げると腰を屈め、後ろからククールをそっと抱きしめた。
「……ゼシカ?」
「こうすると、辛い思いを和らげられることは知ってるわ」
そしてククールを抱きしめたまま、ゼシカはゆっくりと立て膝の姿勢に変えた。
「子供の頃、恐い夢を見て眠れなくなった時にこうしてもらったの」
まぁ、子供を抱く時とは姿勢が違うけどね、と、照れくさそうにゼシカは付け加える。
予想外のゼシカの行動に驚いていたククールだったが、やがて強張っていた表情を緩ませ、目を伏せると身体の力を抜き、背中を軽くゼシカに預けた。
徐々にその背中にゼシカの温もりが伝わってくる。そして、鼓動や息づかいも。
「こうしてると安心できるでしょ?一人じゃないって……」
そう言いながらゼシカは、額をククールの後頭部にコツンとあてた。
「全部一人で抱え込もうとしないで。さっきも今も……心が悲鳴を上げてたわ」
抱きしめる両腕に少し力が入る。
「話せば楽になることもあるし、何かいい考えが浮かぶかもしれないし」
ゼシカの言葉はそこで途切れ、静寂が二人の周囲を支配した。
あの日……初めてマルチェロに会った日以来、ククールは無意識のうちに他人に救いを求めることを避けるようになってしまっていた。
最初から救いを求めなければ、それをはね返されて心に傷を負う苦痛を味わうこともない。
そんな、哀しいまでの自己防衛の手段だった。
マルチェロのことをこぼした時も、傍に居たゼシカのみならず、誰の返答をも期待していたわけではなかった。
言葉を口に含むことで自分自身に無理矢理納得をさせる、独り言の延長線上のようなもののつもりだった。
しかし、ゼシカはそれを心の悲鳴だと言った。
ゼシカの返してきた言葉は、ククールの想像の範疇を越えていた。
決して絵空事ではない解釈をもってして、それまでがんじがらめになっていたククールの心を、いとも簡単に解きほぐしてくれたのだ。
そして両の手を大きく広げて、負の感情が放つ棘から心を守るように包み込んでくれた。
それは久しく存在を忘れていた、心の片隅に残る遠い過去の記憶と重なるもの……。
これからやらねばならないことを考えると、そのあまりの恐ろしさに身も心も押し潰されそうになる。
しかしゼシカとのやり取りを経て、彼女の言う通りに幾分かはそれも和らいだ感じがした。
マルチェロが暗黒神ではなくマルチェロのまま対峙することになれば、その先に光明を見出すことも叶わぬ夢ではないように思えてきた。
ゼシカの胸に背を預け目を伏せたままのククールの顔に、いつの間にか微笑が浮かんでいた。
それはまるで母の膝の上で微睡む幼子のように、安らぎに満たされたものだった。
ふっ、と、ゼシカの腕から力が抜け、ククールの胸前で組まれていたその手が解かれた。
ゆっくりと背後に戻されようとするゼシカの手を、ククールは名残惜しそうに手を伸ばし、眼前で捕らえる。
見るとその手の甲には、僅かばかりの擦り傷の跡が残っていた。
いずれ跡形もなく消えるであろうそれは、ゼシカから差しのべられた紛うことなき救いの証……。
その傷跡に、ククールは気付かぬうちに口づけをしていた。
一瞬の後、自身の行動に戸惑いながら握る手の力を緩め、背後に去り行くゼシカの手をククールはこの言葉で見送った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ほんの小さな声で短く交わされた、互いの言葉の内に宿るものの大きさは、計り知れなかった。
~ 終 ~
最終更新:2008年10月22日 19:14