もう来週で終わる時期なのに、新宿武蔵野館は満席だった。
ソフィア・コッポラの作品をはじめて観た。とても好みな作品だった。あらかじめ阿部和重の「映画覚書」で彼の批評を読んでしまったのでかなりの部分で見方が出来上がってしまったが、それはかえってよかった。阿部はソフィア・コッポラの映画的主題としてデビュー作同様に、一種の「引きこもり状況を描いている」ことを上げていた。
自分のなかでスカーレット・ヨハンソンの魅力はここ数年勢いを増している。「ゴーストワールド」や「バーバー」で観た彼女、そして今回も感じたことは「何もしない」という無為な状況に対して見せる「途方もなさ」が切実だということ。
遠くを見つめる彼女の視線は「バッファロー’66」での郊外や「パリ・テキサス」の広大な平野というような、そこへ吸い寄せられてしまうほどの空虚さをもった映画を思い出させる。そして僕らは時にそのような映画によって、現実の空虚さをも知らされているのではないか。
そのようにして連鎖してくる感情を、むしろこの映画は徹底して主題にしているのだ。パークハイアットの宿泊室で窓辺に座り時間をやり過ごしている姿を執拗に映し出す・・。
学生時代の長期休暇で、何日もやることが無く1日中寝ていた。あまりの寝付かれに身体が重く、また寝込んでしまう。そして夜中に目が覚める。誰もいない時間をただ無為に過ごした。やるせない気分と同時にこんなことが嫌いではないと思っている自分に愕然とした。
それは内面化された規範の許さない、ある種の禁じられたそれでいて「ふるさと」を思うような気分であった。なにもしたくない為に生きている。そんな風には思いたくない自分と、一方でこのような映画から連想され郷愁に近い思いさえ抱いてしまうのだ。
作品にはズレた日本の描写があり、終始笑いを誘っていた。しかし必ずしも笑ってばかりいられなくて、既視感すら抱くことがあった。東京の雑踏ある街中で、異邦人のように感じる時がある。そのとき自分に見えていたあの姿に近いのではないか。あるいは無為の時間を過ごしている気分と重なってくる感情なのかもしれない。
クライマックスで行われる一瞬の抱擁。そこには先日みた「恋人までの距離 」が重なってきた。ある限定された時間を共有し、再会の約束されない男女の出会い。そんな形式をあの映画と共有しているのだと見れば、むしろこの作品ではそれが徹底されているようだ。
あの映画では「限定された時間を過ごしている」ことが何度も二人の会話で確認されていた。しかし「ロスト・イン・トランスレーション」では会話ではなく、二人の目線でそれを示していた。なによりも再会を約束もせず、ただ一度抱きしめるだけで別れてしまうのだから。映画における引用とはそのように監督自身の意識・無意識とは別の場所で、見る者が勝手に抱く妄想なのだ。2004-05-29/k.m
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