共同幻想論








日本における「共同体認識」が、西欧の「社会」とは異なる理由は多々あるだろう。

そもそもの共同体にたいする認識の起源に生じているものであろうことは、この著作を目にする前から、現代的な問題を通してでも、なにかしら見えてくる差異から感じられることだ。

いまだに日本において、「共同の禁制でむすばれた共同体の外の土地や異族は、なにかわからない未知の恐怖がつきまとう異空間であった。」という言及が、遠い昔の話に聞こえなくもないのではないか。共同体を「世の中」や「世間」などへ、置き換えてみてもいいのだろう。

共同体、国家を「理性」あるいは「言語」ととらえる西洋と、それを「共同幻想」ととらえる日本。

つねに幻想的、表層的なものでしかないと、誰しも思っているものは「社会」ではなく、まさしく僕らを取り囲んでいる「世間」なのだろう。
コミュニティーについて考える。パブリックについて考える。そんな時いつも直面し、また隠蔽されるのは、根元的な認識の差だ。

キーワード、言葉。それらについて考察していくとき、思考の足元である社会的基盤そのものは疑えない。思考そのものが成立しないからだ。
国家や共同体、あるいは世の中からフリーになってネットしていく時代かもしれないが、自らのアイデンティティーや存立基盤の大きな差異を痛感し、戸惑いを隠せない時代でもあろう。

均質化や世界時間化がどんなに押し寄せようと、僕らの身体から沸き上がるものは多様化を止められない。多様性の認識、容認。そこから始めていく時代が、すでに今をささえる通念なのでは。

00.04.02/k.m

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最終更新:2008年10月02日 14:18