山路愛山『荻生徂徠』「彼は如何に読みしや」

 吾人は既に彼れの世界を読むの眼光を見たり、乞ふ吾人をして、更に彼れの読書と読書力とを察せしめよ。
 過去を現在にするは高等なる読書力なり、外国の事を内国に適用するは高等なる読書力なり、|形式≪シンボル≫の異なる所に於て|本質≪エスセンス≫、に同じき所なるを見出すは高等なる読書力なり。漢の事は自ら漢にして、倭の事は自ら倭なり、|古≪いにし≫へは自ら古にして、今は自ら今なりとなし、|截然≪せつぜん≫として古今内外の区別を立て、時と空とに通じて、同一の潮流が貫通しつゝあるを認識せざる者は善く書を読む者にあらざるなり。斯の如きの読書家は即ち学んで当世に用なきものなり、何となれば彼等は其書中に於て自己の経験と合すべきものを見出さゞれば。
 徂徠及び其門弟等が、現時の事を序し、若しくは自己の所感を|言顕≪いひあら≫はす時に於て大抵|六≪むつ≫かしき擬古文を用ひしを以て、直ちに彼等は唯古を知つて今を知らざるものなりとなす者あらん乎。少なくとも彼等の擬古文を作るは即ち彼等が古を尊び漢を尊んで、今を|賤≪いや≫しみ、倭を賤しむの徴候なりとなす者あらん乎。斯の如く思ふ者は記憶せよ、若し真に擬古文にて現在の境遇と感情とを言顕はし得べき学者ありとせば彼等は高等なる読書力を有する者なり、何となれば若し古今に通じて同一なる者あるを見得て徹するに非んば、|奚≪いづくん≫ぞ能く今の事を序するに古の文を以てして遺憾なきを得んや。吾人は徂徠の擬古文を読み彼れが善く古き熟字を新しき事実に適用するを見る毎に、|倍≪ますます≫彼れの古今を一にし東西を同うするの識力を歎ずるのみ。
 彼れが異中の同を知れる識力は唯に今の事を序するに古の文を以てするに於て見るべきのみならず、古の事を序するに今の言語を以てするに於ても亦之を見るべし、何となれば過去を現在にするを解する者は即ち又現在を過去にするを解する者なればなり。請ふ政談、及び彼れの国字の書を取つて、彼れが如何ばかり善く、擬古文中に於て書き著はせしと同じ趣意を殆んど、言文一致に近き文躰に於て言顕はし得るかを見よ。彼れは古文辞を作るときも、国字の書を作るときも、同一の主義、同一の思想を彼此共に障碍なく一様に言顕はし得るなり、彼に取つては古文字も今の言語も共に同一の本質を顕はすべき異なりたる形式のみ。人唯彼れの文字の六ケ敷に就て言ふ。而も趣意に至つては即ち極めて明快、極めて透徹、少しの陰なく、少しの暗き処なし、吾人は其中に躍如たる彼れの精神を看取し得て余ある也。彼れは知らずして語る者の|類≪たぐひ≫に非る也。
 吾人は彼れの書を読む毎に恰も古の波斯王が国と言語と風俗とを異にする各種の人民、各種の種族を拳げて、|彭然≪はうぜん≫たる一大軍団となし希臘に攻入るを見るが如き心地す。彼れは其博くして大なる智識を使用して、悉く自己の材料となし得るなり。彼れは其驚くべき記憶に伴ひて、驚くべき消化、適用の才を有せり。彼れの材料を用ゐんとするや、万《すべ》ての智識、尽く一の中心に集り来つて用を為す。彼れが嘗て水滸伝を引きて墓〓の制を論じたるが如き、奚ぞ終生屹々書を読んで而して何の工夫なき者の夢想し能ふ所ならんや。
 彼れが読書の方法は即ち此の如し、読書の分量に至つては即ち如何。
 吾人は此に於て彼れの精力と該博とに驚かざるを得ず、彼れは「社会字彙」なるが如く「百科字彙」なり。|凡≪およ≫そ当時の学問にして、彼れの窮知せざる者は殆んど稀れなり、|蠧≪しみ≫食ひたる国乗より最も新しき舶来の唐本に至るまで、彼れが目の触れざる者なしと云も可也。将軍吉宗は彼れの「|鈐録≪けんろく≫」を見て、漢土の事は格別和国の事是程に歴覧せる事不大形儀なりと感ぜりと曰ふ。彼れが善く我国乗に通じ、法律、政治、兵賦、文学、の沿革に委はしきは人をして驚歎せしむるに足れり。彼れは安積澹泊の如く、新井白石の如く、若しくは後代の頼山陽の如く自ら史学を以て任ぜざりしかども、凡そ神武以来日本に起りたる重要なる政治社交文学上の変化は悉く彼れの脳中に存在せり。彼れは其脳中に書かざる日本歴史を有したるなり。頼襄が|畢生≪ひつせい≫の心血をしぼりたる通議二十八篇の如き、其多くは彼れの既に鈐録、政談に於て喝破せし所なりき。況んや漢籍の如きは是れ彼れが専門の業、其精通固より言ふまでもなきこと也。
 余をして一言せしめよ、余は彼れの巨脳に驚かざるを得ず。




昭和52年 東京工業大学

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2016年11月13日 23:17