これらの学校は、官立の大学といい、私学といい、どれも男子のために建てられたものです。女子はすべての学校から門戸を鎖され、公的には教育を受ける機会が与えられませんでしたので、家庭で教育を受けました。元来女子は、男子のように社会的に活動をする自由を与えられておらず、したがって学問においても、そうした不公平な取り扱いを受けたのです。清少納言の『枕草子』の「すさまじきもの」の条に「博士のうちつづき女子うませたる」とありますが、これは博士の家に引き続き女の子ばかり生まれて、男の子が生まれないことを、興ざめる不釣合いのことだと評しているのです。女子にはその家の学問を伝えることができなかったことを意味しております。
また、『紫式部日記』に「この式部丞といふ人のわらはにて、史記といふ書よみ侍りし時、聞きならひつつ、かの人はおそうよみとり、忘るる所をも、あやしきまでぞさとく侍りしかば、文に心入れたる親は『口をしう、をのこごにて持たらぬこそ幸《さいは》ひなかりけれ』とそ常になげかれ侍りし」とあります。式部丞とは、紫式部の兄にあたる人で、その兄がまだ少年のころ、父越前守為時から『史記』を教えられた時、傍で聞いていた紫式部のほうが、兄よりも早く理解したので、その方面に熱心な父為時は、慨嘆して、幼い紫式部に向かって「残念なことにはおまえが男の子に生まれなかったことだ」と、愚痴をこぼしたというのです。これらによっても、その当時の婦人の立場がわかります。
平安中期になりますと、漢字と仮名、支那風な絵と日本風な絵などが、厳重に区別されました。漢字は男文字といい、仮名は女文字といいます。支那風な絵は男絵、大和風な絵は女絵とよんでいます。そういうふうに、男・女という区別がはっきりと立てられて、前者は支那風なもの、後者は日本風なものを意味することになりました。「ざえ」というのはおもに漢学をさすのです。それに対して「やまとだましひ」というのは、日本人としての本然の心というような意味に解せられます。よく、和魂漢才というふうに区別されているのですが、男子たる者は和魂とともに漢才も備えなければならぬ、大和心とともに才《ざえ》も備えなければならないとされたのですが、女子は、漢才つまり学問というものは、必ずしも必要ではない、むしろ敬遠すべきものであるとされているようです。
『土佐日記』に「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」と書き出してあります。男の日記というものは、漢文で書かれたものです。ところで貫之は仮名で『土佐日記』を書きました。 『土佐日記』ができ上がった事情については、説がありますが、要するに女文字すなわち仮名で書いたために、わざと女の所為のようにことわりをしているのです。 『源氏物語』などを見ますと、たとえば、玉鬘の巻に、源氏が末摘花を批評することばが見えていますが、そこに学問というようなもの、たとえば和歌の髄脳《ずいのう》などという理窟っぽいものは、女子にはあまり奨励すべきものではないというようなことをいっています。また帚木の巻に、女子のことをいろいろと批評してあって、そこにある博士の娘のことが書かれています。その婦人は、けっきょく終わりを全うしないで不幸な身の上になるのですが、それはつまり学問が禍いをしているのだというのです。
また『紫式部日記』を見ますと、式部は亡夫宣孝の残した漢学の書物をたくさん読みましたが、女房たちはそれを苦々しいことと思って、「おまへはかくおはすれば幸ひ少きなり。なでふ女か真字書《まんなふみ》はよむ。昔は経読むをだに人は制しき(あなたは漢籍というようなものばかり読んでおられるから幸福でないのだ、いったいどんな女が漢字の書物なんかを読むか、そんな婦人はろくな女ではない)」というふうに批評をしたのです。それを聞いた紫式部は、それから後は、漢字も書かず、漢籍も読まないようにしました。また屏風に書かれた詩文なども、人の前などではなるべく読めないような顔をしていました。読めないのではないが、いかにも知ったかぶりにふるまうということを慎んだのです。すなわち学問を隠したのです。また、やはり『紫式部日記』に見えていますが、式部は、中宮に『白氏文集』三・四の巻にある楽府《がふ》をお教えする際、人に隠れて、目にたたぬようにしております。
学問に対しての紫式部の考え方は、『源氏物語』の帚木巻にも、たびたび現われています。女が学問をしてはならぬというわけはない、またわざと習うというわげではないけれども、少し才のある人であれば、しぜんに会得《えとく》することもあるだろう、だからそういうことをとめるわけにはいかない、しかし、三史・五経というような、道々にむつかしい学問を專門に研究して、その研究したものを、残るところなく外に現わしてしまうような態度は、けっして賞揚すべき態度ではないと批評しているのです。
『大鏡』や、『栄花物語』などにでていますが、高内侍という才女、当時有数な学者であった高階成忠の娘ですが、この人が中関白道隆の室となりました。父に似て学問があり、漢詩なども男子以上に作ることのできる人だったそうですが、晩年ひどく零落してみすぼらしい生活をしたということです。これに対して、『大鏡』の作者は「女のあまりざえかしこきは、ものあしと人申す」と世人が批評をしていたといっています。すなわち高内侍が零落されたのは、学問があり過ぎたからであるというのです。
昭和53年 武蔵大学 経済
最終更新:2016年11月14日 00:11