内的視点-ハート-

ルールが存在するということは、取りも直さず、行為に何等かの秩序あるいは規則性が見い出されるということに外ならなかった。
前章で述べたように、ハートは、この、行為に何等かの規則性を見い出す視点を、ルールに対する外的視点と呼んだのであった。
また、ハートは、ルールの、行為に規則性が存在する事態として捉えられる側面を、その外的側面と呼んだのであった。
しかし、ハートによれば、ルールがルールとして存在し得るためには、行為に規則性が見い出される以外に、ルールが行為の当否を判定する根拠あるいは理由として、(行為主体に)受け容れられておらねばならないのである。
言い換えれば、ハートの言うルールは、その外的側面が観察される以外に、行為の妥当性を評価する規準となる、その内的側面が確認されて始めて、ルールとして存在し得るのである。

ルールは、そのルールには従わない、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームには内属しない外的視点によって、行為に規則性が存在する事実として観察されるその外的側面と、そのルールに従う、言い換えれば、そのルールの構成する社会的なゲームに内属する内的視点によって、行為の妥当性を判定する当為として受容されるその内的側面と言う、二つの側面が合わさって始めてルールと呼び得る。
すなわち、ハートによるルールの概念は、ルールの事実として従われていることが観察されることのみならず、ルールの当為として従われるべきことが受容されていることをも、その構成要件とするのである。
この、事実としてのルール、すなわち、ルールの外的側面と、当為としてのルール、すなわち、ルールの内的側面とは、いずれか一方から他方が導き出されるといった関係にはなく、ルールという一つの事態を、外的/内的という二つの視点から見ることによって現れた、その二つの側面なのである。
従って、その外的視点から見るならば、ルールは、それが従われているという単なる事実に過ぎず、従うべき当為では些かもあり得ないのに対して、その内的視点から見るならば、それは、自らの従うべき当為なのであって、それが事実として従われているか否かは、規範逸脱の事実認定においてのみ問題とされるのである。
いずれにせよ、ルールが、行為の当否を判定する根拠あるいは理由となり得るのは、その内的視点から見た場合なのである。

ところで、行為の妥当性を判定する根拠となる内的側面を持つ、ルールそれ自体の妥当性は、いかなる根拠によって正当化されるのであろうか。
法的ルールの場合、前章で述べたように、あらゆる法体系には、それに属する総てのルールの妥当性を根拠付け得る承認のルールが、常に存在しているというのが、この問いに対するハートの答えであった。
すなわち、法体系を構成する(一次)ルールは、承認の(二次)ルールによって、その妥当性を理由付け得るのである。
しかし、ルールの妥当性の、このような正当化の方法は、無限後退に陥らない限り、どこかで断念されざるを得ない。
言い換えれば、無限後退を避けるためには、他のあらゆるルールを正当化し得るが、自らは如何なるルールによっても正当化され得ない承認のルールが、どこかで要請されざるを得ないのである。
前章で述べたように、ハートは、このような承認のルールを、究極の承認のルールと呼んだのであった。
すなわち、究極の承認のルールは、そのルールの妥当性を根拠付け得る如何なるルールも存在し得ないという意味において、究極的なのである。

究極の承認のルール、あるいは、法体系には属さない一般のルールは、その妥当性を判定し得る如何なる根拠も持ち得ない。
言い換えれば、このようなルールは、それ自体を対象として規範的に評価し得る、如何なる内的視点をも持ち得ないのである。
従って、このようなルールそれ自体を対象とし得るのは、それが遂行的に存在しているという事態を認識し得る、その外的視点以外にはあり得ない。
すなわち、このようなルールは、(それ自体を対象として見れば)ただ事実として遂行されているという事態以外ではあり得ないのである。
しかし、このようなルールの規範性と遂行性との関係については、前章に詳しく検討したので、ここでは触れない。
むしろ、本節では、ルールわけても究極の承認のルールに従う内的視点の存在が、ハートの批判する法の主権者意志説に対して、果たして如何なる含意を持ち得るのかを問題としたい。

あらゆる法は、主権者の意図的に設定したものである、さらに、その論理的な帰結として、そのような主権者は、法的に無制限な主体である、これが法の主権者意志説であった。
これに対して、究極の承認のルールは、あらゆる法に、それが法として妥当するための根拠を与えるルールである。
従って、たとえば、主権者の制定した法は妥当するといったルールもまた、究極の承認のルールであり得る。
因みに、ある法が主権者によって制定されたものであるか否かを、その法の妥当性を判定する究極的な規準とする法体系は、近代国家においてはむしろ通例である。
しかし、この場合、主権者は決して無制限ではあり得ない。
このような法体系においては、主権者は、主権者の設定する法は有効であるという、究極の承認のルールを根拠として始めて、自らの設定する法の妥当性を理由付け得るのであり、さらに、そもそも自らの主権者たり得た根拠それ自体も、主権者たるの要件を規定する、究極の承認のルールを待って始めて与えられるのである。
言い換えれば、主権者は、自らの行為の法的な効力のみならず、自らの存在それ自体をも、究極の承認のルールによって与えられているのである。
すなわち、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者はついに無制限ではあり得ず、究極の承認のルールに従う、その内的視点を取らざるを得ないのである。

あるいは、このことを、主権者によって制定された法が、法として妥当し得るか否かは、究極の承認のルールに依存する、と言い換えてもよい。
すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的に)発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存しているのである。
この命題は次節に述べる(発語内)行為の文脈依存(context-dependence)性という命題と、全く同型の構造を持っている。
たとえば、主権者の「私は~を法とする」という発話が、法を制定する行為として発効し得る(~を法として妥当せしめる)ためには、立法の権限が主権者にあらかじめ与えられていることや、立法の発話が適切な手続きに従って為されていることなどといった、様々な条件が充たされておらねばならない。
次節では、このような条件を、(発話内)行為の文脈と呼ぶことにするが、究極の承認のルールとは、まさに、この意味における(法の妥当性の承認という)行為の文脈に外ならないのである。
すなわち、主権者による法の制定という行為が、行為として(法的な)行為として発効し得るか否かは、究極の承認のルールという文脈に依存している、という事態は、発話という行為が、(社会的な)行為として発効し得るか否かは、その文脈に依存している、という事態(発語内行為の文脈依存性)の、法領域における現れとして捉え得るのである
(発語内)行為は、その主観的な意図とは独立に、何等かの文脈が与えられて始めて、自らの社会的な効力を確定し得る。(この命題については次節で詳しく検討する。)
同様に、主権者による法の制定は、その主観的な意図とは独立に、究極の承認のルールが与えられて始めて、自らの法的な効力を確定し得る。
すなわち、主権者の行為の(法的な)効力は、その主観的な意志ではなく、その社会的な文脈に規定され、あるいは、制限されているのである。

従って、究極の承認のルールの存在は、あらゆる法を主権者の意図的に設定したものであると考える、法の主権者意志説を、真っ向から否定することになる。
何故ならば、究極の承認のルールの存在は、法の主権者意志説の論理的帰結である、主権者の法的無制限という事態と、全く両立し得ないからである。
すなわち、法の主権者意志説に従えば、第一章で見たように、主権者の法的無制限を帰結せざるを得ないのであるが、究極の承認のルールの存在する法体系においては、主権者は法的に無制限ではあり得ないのであって、その必要条件を否定される法の主権者意志説は、棄却されざるを得ないのである。
言い換えれば、主権者の行為が、究極の承認のルールに依存せざるを得ないとするならば、法を主権者の意志の表出としてのみ捉えることは、もはや不可能となるのである。

また、法の主権者意志説においては、あらゆる法は、究極的には主権者によって意図的に設定されたと考えるのであるから、法が、法として妥当し得る根拠もまた、それが、究極的には主権者によって意図的に設定されたという事実以外にはあり得ない。
すなわち、法の主権者意志説は、法の究極的な制定目的が主権者の意志にあると主張するのみならず、法の究極的な妥当根拠もまた主権者の意志にあると主張するのである。
このような主権者は、いかなる法によっても決して制限され得ず、従って、如何なる法体系の内部においても、その(主権者たる)根拠を持ち得ない存在である。
言い換えれば、このような主権者は、あらゆる法体系の外部にある、いわば超法規的あるいは政治的な存在なのである。
従って、法の主権者意志説は、法の究極的な妥当根拠を、法によっては制限も根拠も与えられ得ない、超法規的あるいは政治的な存在である主権者の意志に、委ねざるを得ないことになる。

これに対して、究極の承認のルールは、言うまでもなく、法の究極的な妥当根拠となる、法的なルールである。
従って、究極の承認のルールが存在しさえすれば、法を究極的に妥当させる、法的に無制限な主権者の存在など、些かも必要とされないことになる。
言い換えれば、たとえ法の主権者意志説を取らないとしても、究極の承認のルールさえ存在するならば、法体系の理解にとって、些かの支障もないのである。
従って、法の主権者意志説は、究極の承認のルールの存在と両立し得ないばかりではなく、それが全くの誤りであるか否かはいざ知らず、究極の承認のルールが存在しさえするならば、少なくとも不必要な議論なのである。

しかし、究極の承認のルールそれ自体は、いかなる法的な根拠も持ち得ない、いわば法体系の外部に開かれているルールであった。
このような究極の承認のルールの存在と、法的な根拠を持ち得ない、言わば超法規的な主権者の存在とは、一体どこが違うというのであろうか。
そもそも、法の妥当し得るか否かを究極的に確定するためには、法によってはついに根拠付け得ない存在が、不可避的に要請されるのではなかったのか。
この問いに答えるためには、主権者の行為は究極の承認のルールに依存している、という命題の成立していることが、まず確認されねばならない。
すなわち、主権者の行為は、その当否を、究極の承認のルールによって始めて決定され得る、という事態である。
それでは、その逆である、究極の承認のルールは、その妥当根拠を、主権者の行為によって始めて付与され得る、という事態は、果たして成立し得るのであろうか。
この問いに対して、もし、究極の承認のルールにその妥当根拠を与え得る主権者の行為があるとするならば、その主権者の行為に妥当根拠を与える究極の承認のルールが存在することになり、究極の承認のルールの究極性に矛盾する、といった答えを与えることも、確かに適切である。
しかし、ここでは、この問題を、別の角度から検討してみたい。
すなわち、この問題を、たとえば、「私(主権者)の制定する法は妥当しない」という法(究極の承認のルール)を私(主権者)は制定する、といった自己言及の問題として捉えるのである。
このように問題を捉えてみるならば、究極の承認のルールが、主権者の、(たとえば法の制定という)行為によってその妥当根拠を与えられる、という主張は、まさに、前節に述べた、自己言及の非決定性を帰結することが明らかとなろう。
従って、前節の議論を援用すれば、究極の承認のルールは、主権者の行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的であることが結論されるのである。
すなわち、究極の承認のルールは、主権者の意図的な行為によっては、その妥当根拠をついに与え得ない、根拠付け不能な事態なのである。

しかし、(承認という)行為の持続的な遂行においてのみ存在し得る、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、行為の意図的な対象とはなり得ないという意味において、暗黙的な事態でもあることは、既に前章において詳しく見た処である。
むしろ、本章において見るべきは、遂行的な事態としての究極の承認のルールが、(承認という)行為の法的に発効し得るか否かを決定するという意味において、まさに、規範的な事態でもあることなのである。
すなわち、究極の承認のルールは、行為の社会的(法的)な効力を、その主観的な意図とは独立に決定する、まさしく慣習的な文脈に外ならないのである。

ところで、究極の承認のルールは、人々の行為の当否を判定する根拠となる(一次)ルールそれ自体の、妥当性を判定する根拠となる(二次)ルールであった。
従って、ある行為の当否判定において、その根拠となるルールをめぐる紛争の生じた場合に、究極の承認のルールは、いかなるルールが従われるべきかを決定することのよって、その紛争を常に解決し得ることになる。
たとえば、ある行為の当否について、現行のルールがいかようにも解釈し得る場合、究極の承認のルールは、ある一つの解釈をルールとして妥当させる根拠を与え得るのである。
すなわち、現行のルールに、行為の当否について、何等かの不確定な部分が存在する場合、究極の承認のルールは、その部分を確定することによって、事実上新たなルールを設定する根拠を与え得るのである。
ハートは、ルールがこのように不確定な部分を常に有していることを、ルールの開かれた構造(open texture of rule)と呼んでいる。
従って、究極の承認のルールは、(一次)ルールの開かれた構造を、常に閉じ得る装置であるとも言い得ることになる。

しかし、究極の承認のルールもルールである以上、ルールの開かれた構造の例外ではあり得ない筈である。
すなわち、究極の承認のルールもまた、何等かの不確定な部分を常に有しているのである。
そこでは、究極の承認のルールの不確定な部分は、如何にして確定されるのであろうか。
たとえば、そのような確定が、いずれかの主体によって意図的に遂行されるとしてみよう。
この場合、究極の承認のルールの不確定な部分を確定する行為は、究極の承認のルールの(部分的な)不在という場面において、それを意図的に設定する行為となってはいないか。
言い換えれば、そのような行為の主体は、究極の承認のルールによっては制限され得ない、無制限な主権者と呼び得る存在ではないか。
すなわち、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じるためには、つまりところ無制限な主権者の存在が要請されるのではあいか。
究極の承認のルールの開かれた構造は、このような一連の疑問を当然に生み出すのである。

しかし、究極の承認のルールが、たとえ開かれた構造を持っているとしても、そのことから直ちに、究極の承認のルールそれ自体を設定する、無制限な主権者が要請されるとは限らない。
究極の承認のルールが不確定なのは、あくまでその一部分なのであって、残りの大部分においては、何が妥当なルールであるかの規準は、差し当たり充分に確定しているのである。
ハートは、ルールの不確定な部分を、その不確定な半影部分(penumbra of uncertainty)と呼び、また、ルールの確定している部分を、その確定した核心部分(core of certainty)と呼んでいる。
究極の承認のルールにも、このような半影部分と核心部分の両方が備わっているのである。
従って、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、残りの確定した核心部分を不問の前提にしていると考えてよい。
すなわち、そのような行為は、その対象とはならない部分の究極の承認のルールに従っている、という意味において、決して無制限ではあり得ないのである。
言い換えれば、究極の承認のルールの開かれた構造を閉じる行為は、あくまで究極の承認のルールの一部分のみを対象とするのであって、その全体を対象とすることは決してあり得ず、従って、究極の承認のルールに、たとえ開かれた構造が存在したとしても、それを閉じるために、無制限な主権者が要請される必要は、必ずしもない訳である。

しかし、それにしても、究極の承認のルールの不確定な半影部分を確定する行為は、極めて微妙な行為である。
それは、自らの従うルールの一部分を、自らの対象として言及する行為に外ならない。
このような行為が、自らの従うルールの全体に対してはついに不可能であることは、前章において、ルールの暗黙性として詳しく検討した処である。
すなわち、自らの従うルールの全体を、自らが意図的に変更することは不可能なのである。
しかし、ここで述べられたことは、たとえ自らの従うルールであっても、その一部分であるならば、自らの意図的に変更することが必ずしも不可能ではない、ということである。
ルールの一部分に変更が要請される場合とは、新たに生じた問題に対して、現行のルールが確定した解答を与えられない場合なのであるから、ルールの一部分が変更可能であることは、新たな状況に対するルールの適応のためには、むしろ必要でさえある。
しかし、自らの従うルールを、たとえ部分的であったとしても、自らが意図的に変更する行為は、依然として、かなり微妙な行為であることに変わりはない。
このような行為は、果たして、如何なる根拠あるいは規準によって、新たなルールを生成し得るのか、あるいは、このような行為の意図と、結果として生成されるルールとの間には、(行為の意図が達成されることは全くあり得ないが)果たして、如何なる関係があるのか、といった様々な疑問がすぐにでも涌いてくる。
これらの問題は、実のところ、前章で述べた、ハイエクの言う整合性の原理の問題と、全く同型の構造を持っている。
すなわち、これらの問題に対する回答こそが、まさに、ハイエクの言う整合性の原理に外ならないのである。

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最終更新:2013年06月11日 15:57