発端は、彼女のとある一言だった。
「『おハナミ』をしたいデス!」
何とも唐突なパトリシア・マーティン――通称
パティの言葉に、彼女のアルバイト仲間、シン・アスカは思わず首を傾げた。
「お花見……ねぇ」
「ハイ、おハナミデス。シンはやったことがありますか、おハナミ?」
「いや…知識としては知ってるが、そういや実際にやったことは無いな」
互いの故郷こそ違う物の、シンもまたパティと同じくこの日本とは別の国で生まれ育った少年である。
二人とも日本での生活に大分馴染んで来た物の、やはり海外育ちの彼らにとっては未だに聞き慣れない日本独自の行事や風習の類は数多く存在する。
今回、パティが言い出したお花見についてもそうだ。
シンもお花見という言葉そのものは聞いたことがあるのだが、しかし実際に何をやったらいいのかまでは知らなかった。
せいぜいが『お花見とは春になったら行う物』ぐらいの認識がある程度だ。
「まあ、お花見っつーからには、やっぱり花を見るんだろうな?」
「イエース。私、おハナミは皆でサクラの木を見に行くモノだって聞きました。
ニホンのおハナミはとっても賑やかで、皆が楽しいキブンになれるそうデス。
ソシテ、伝説のサクラの木の下でスキな人に告白すると、その二人は永遠に結ばれるとかナントカ…」
「いやいや、途中までは多分合ってると思うけど、最後のはちょっと違うだろ!
…ふむ。そういや桜の木って一年にこの時期にしか花を咲かせないよな。
だから日本人は、年に一度しか見られない桜の花を特別な物だと考えて、それで桜を見ることをお花見って言う風になったんだろうな」
「そういうコトデスからシン、私達も一緒にサクラを見に行きましょう。
私達が今住んでいるのはこのニホンデス。私、ニホンのこともっと知りたいデス。
ニホンのおハナミを知って、もっともっと、ニホンがスキになれたらイイって思ってます」
「パティ…」
彼女の言うことも尤もだ、とシンは明るい笑顔で語るパティの顔を見ながら思った。
日本での生活に不満がある訳では無いが、たまに遠い生まれ故郷が懐かしく思える時も確かにある。
しかしそれでも、パティが言う通り今の自分が暮らしているのはこの日本なのだ。
所詮は異邦人に過ぎない自分の存在を、こうも優しく受け入れてくれているこの世界について、もっと詳しく知っておくのも悪くないとシンは思った。
何よりも、日本で新しく出来た友人の提案を無碍に却下するのは気が引ける。
シンは期待の眼差しを向けるパティに同意するかのように、頷きながら答えた。
「そうだな。やってみるか、お花見。他の皆も誘ってさ、パーッと騒いでみようぜ」
「ハイ!」
そうやって嬉しそうに答えるパティの顔が、シンには何だかとても眩しい物のように見えた。
「ふーん、お花見ねえ。シンがそんなことを言い出すなんて珍しいね。別にいいよ、やっても」
「ま、まあ、別にその日は用事も無いし…あ、でも誤解しないでよ!?
私はあくまで、パトリシアさんの提案だって言うから参加するんですからね!
あんたと一緒にお花見が出来るのが嬉しいだとか、そーゆー訳じゃないんだからね!わかった!?」
「勿論私も行くよ~。わーい、皆でお花見。楽しみだなあ。
私、お弁当いっぱい作って来るから、シンちゃんも楽しみにしててね」
「そういうことでしたら、喜んで。そもそもお花見というのはですね、奈良時代頃に行われていた貴族の風習が…」
「うん!私も絶対に行くよ!でもパティちゃんがそんなこと言うなんて珍しいね?
いつものパティちゃんだったら、大概は池袋だとか秋葉原だとか、その辺に行きたいって話になるのに」
「私で良かったら…喜んで」
「へー、お花見っスか。留学生のお二人と舞い散る桜の花びら…
フムフム、これは中々創作意欲が刺激されるやもしれぬシチュエーションっスね。
わかりました。漫画の締切が近いっスけど、何とかして時間の余裕を作ってみるっス」
「こら~ウサ目!ズルいぞー、皆で花見だなんて楽しそうなマネ、私に隠れてやろうなんざ百年早いんだってヴぁ!うりうり、私も混ぜろーっ!」
「無理にとは言えないけれど…みさちゃんの抑えも兼ねて、私も参加させて貰えれば嬉しいな」
「やけに
ひよりんが頑張り出したから何かと思えば…私だけ仲間外れはやーよ、シンちゃん先輩?」
一頻り友人達に声を掛け終え、シンとパティが皆の承諾を取り付けた数日後。
桜の花が満開となって広がっている近隣の公園にて、今まさに二人の提案したお花見が始まろうとしていた。
「え~、ではでは?本日の企画立案者たるシンとパティのどっちかに、所信表明演説をぶって貰いましょーかー」
「初心表明って…それは何か違うでしょ…」
囃し立てる泉こなたに突っ込みを入れるのは、柊姉妹の片割れたる
かがみである。
地面に敷き詰められた大きなビニールシートの上には皆で持ち寄った沢山のお弁当や飲み物が準備万端とばかりに並べられており、後はもう開始の号令を待つばかりという様相であった。
「そんなのどっちでもいーよ。いいからとっとと始めようぜー、私待ちくたびれちゃったよー」
「いやいや、日下部先輩。所信表明がどうこうって話はさて置いて、この手の演説は結構重要っスよ。
さあ、これから何が始まる?まだ始まらないのか?いつになったら始まるんだ?
本編が始まる前の前フリにおけるタメ、蓄積されたギリギリ感を一気に吹き飛ばし、見る側に気持ち良く本編へと入って貰う為には、やはりこういう
アニメのオープニングに当たる部分は必須でして…」
「いや田村さん、それはちょっと違うんじゃないかな…」
「…オープニングセレモニーは大事だってお話」
「はーいはいはい。無駄話はそこまでにしときましょーね、あなた達」
「そうね。八坂さんの言う通り、お話なら後でゆっくりと出来るもの」
このままでは埒が明かないと判断したのか、わいわいと騒ぎ始めた日下部みさおやパティと同級生の一年生達を、みさおの親友である峰岸あやのと参加メンバー唯一の二年生、八坂こうが制止する。
そして同様の結論に達した高良みゆきが、二人の後に続いてフォローの言葉をシン達に投げ掛ける。
「ではシンさん、パティさん…改めてお二人に始まりの音頭を取って頂けますか?」
「がんばれー、二人ともー」
みゆきと柊姉妹の末っ子である
つかさに改めて話を振られたシンとパティは、互いに顔を見合わせた後、小さく頷いて立ち上がった。
「あー。んじゃあ皆…ちょっと聞いてくれるか?」
シンの一言によって、皆が一斉に口を噤んで彼の方へと顔を向ける。
皆の視線に少しだけシンは緊張を覚えるが、心の中で何とかその緊張を押し殺しつつ、皆に聞こえるようなはっきりとした声で言葉を続ける。
「えー、俺達は日本で生まれ育った訳じゃないから、お花見って奴がどういう感じの行事で、実際に何をやればいいのかなんてのも、正直まだ良くわかっているとは言えない。
今日の段取りのことだって、皆には随分と迷惑を掛けちまったしな」
「気にすんなウサ目、私は気にしてないぞー。きっと皆だって同じだろうぜー」
「こら、みさちゃん」
口を挟んで来た
みさおを
あやのが窘めるが、その言い方はあくまでも優しく、みさおが口にした言葉そのものを否定するような雰囲気は全く感じられなかった。
今この場にいる誰もがみさおと同意見であったらしく、皆の態度から先程のみさおの言葉に同調するような雰囲気がシンとパティにも伝わって来る。
その感覚に、不意にシンは揺さぶられるかのような衝撃を覚えた。
だが、今はそれを表には出さぬように、努めてシンは平静さを保とうと自分の五感に意識を向ける。
ここはまだ、感極まって涙ぐむ場所では無いのだから。
「だからその、何だな……今日は皆がこうして集まってくれて…ええと…」
「皆と一緒ニおハナミが出来て、とっても嬉しいデス!」
再び湧き上がって来た緊張感と気恥ずかしさのせいで、上手く言葉の出て来ないシンに代わって、いつも通りの快活な口調でパティが言った。
「確かニ、私もシンも今マデおハナミをやったコトはありまセン。
だけど私は、ニホンのおハナミは皆で集まッテ、皆で一緒に楽しむモノだって聞きました。
今日はこんな風にニホンのフレンドとおハナミが出来て、私、すごくハッピーな気分デス!」
本当に楽しくてたまらないという風に、パティは嬉しそうな笑顔を浮かべながら言葉を続ける。
「ニホンは本当に素敵な国デス。アニメとかゲームとかのオタクカルチャーだけじゃない、ニホンのもっと色んなコトを私は知りたいデス!
だから今日は私と、そしてシンに、皆で楽しいニホンのおハナミをレクチャーしてクダサイ!」
「……ふっふっふ。シン、パティに完全に食われちゃってるねぇ?」
「うんうん、大方カッコ良く決めようとしたんでしょーけど、シンちゃん先輩ったら完全に形無しだわね」
「う、うるさいな」
にやにやと意地の悪い笑みを向ける
こなたとこうに言い返してから、シンは再びこちらを見上げて来る皆の側へと視線を向けた。
既に、先程まで感じていた緊張感の類はすっかりと霧散してしまっている。
目の前にいるのは、皆シンにとって気心の知れた友人達だ。その人達を相手に遠慮をする必要なんて何処にも無いではないか。
一体、自分は何を気にしていたのだろう。
さっきまでおかしな風に悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなって来たシンは苦笑を浮かべて、立ち上がる際に手に取った紙コップを掲げながら、言う。
「まあ、俺が言いたいことは全部パティが言ってくれた通りだ。
折角こうして皆が集まってくれたことだし、とにかく今日は全員でお花見を楽しもうじゃないか」
シンが一旦そこで言葉を区切ったのを聞いて、皆も手元の紙コップをシンと同じように手に取った。
やがて全員の準備が整ったのを見計らって、皆が一斉に咲き誇る桜に向かって唱和する。
『――かんぱーーーーーい!!!』
そして、満開の桜の花びらが舞う公園に、お花見の開始を告げる声が響き渡った。
「しっかし物の見事に女の子ばっかりだねー。男なんてシン一人だけじゃん。
まったく、あんたってばよくよくの女ったらしだよねぇ。よっ、憎いねこのギャルゲー主人公!」
「フフフ…気を付けるっスよぉ、
アスカ先輩。普段から女の子にモテモテのキャラってのは
本命の女の子にフラれたり、あるいは誰とも結ばれないエンドってのもありがちな末路っスから。
昨今のヤンデレブームに則って考えるなら、ぼやぼやしてる内に後ろからバッサリという線も」
「お、お前らって奴はーっ!一体俺を何だと思ってるんだよ!?」
「だからスケコマシのプレイボーイ男でしょ?でもホント、一歩バランス崩したら単なる女の敵にしかならないわよねー。
ひよりんの言葉じゃないけど、注意した方がいいと思うよー、シンちゃん先輩」
「むがー!」
「…何よ、シンってば鼻の下伸ばしちゃって。本当に女の子に弱いんだから…普段はあんなに格好良い癖に…」
「ふふ。柊ちゃん、アスカ君のことが気になる?」
「なっ!?何を言ってるのよ峰岸!だ、誰がシンのことを気にしてるですって!?
あんな女たらしでスケコマシでプレイボーイで女の敵みたいな奴のことなんか、どうだっていいわよ!」
「おおっ、本当かー?じゃあ柊、たまには私にも付き合えー。
お前ここ最近、ウサ目の奴にばっかり構ってて私とあやのに冷たいぞーっ。
あやのだって折角の休みなのに、ウチの兄貴とデートするよりこっちの付き合いを優先したんだぜ?
たまには柊も友達サービスをしろー!あ、妹ちゃん、おにぎり一個貰うぜ」
「はーい。いっぱい作って来たから、日下部さんや他の皆も沢山食べてねー」
「…おいしいですね、柊先輩のお弁当」
「はい。私も調理方法に関する知識はありますけれど、実際にお料理を作るとなると、やはりつかささんには全然敵いませんね」
「えへへ、二人共ありがとう。そんな風に褒められると照れちゃうな」
「でも、みゆきさんだったらすぐ上手になれますよ」
「ありがとう、
みなみさん。でも、つかささんや泉さんのお料理の腕を知ってしまうと…
もしお料理の腕が上達したとしても、あの人に自分の作った物を食べて頂くのはちょっと気が引けますね…」
「みゆきさん……みゆきさんと、
ゆたか…私はどっちを応援すればいいんだろう…」
「? みなみちゃん、呼んだ?…わあっ、綺麗な桜吹雪ー。すごいなあ、何だか吹き飛ばされちゃいそう」
ある者はお弁当や飲み物を肴に、ある者は桜の木々を眺めながら、皆は思い思いにお花見の時間を過ごして行く。
瞬く間に時間は過ぎて行き、やがて宴も酣となった頃、ふとその場に立ち上がったのはシンであった。
「あれシン、どしたの?」
「すまんこなた。俺、ちょっとトイレ行って来るわ」
「へいへい。こういう場所のトイレは並ぶのに時間掛かるし、行くなら急いで行っといでー」
「わかってるって」
こなたに軽く手を振って、そのままシンはくるりと皆に背を向けて駆け出して行く。
「――あのう、確か峰岸さんは付き合っている男の人がいらっしゃるんですよね?」
「ああ、いるよー。ウチの兄貴。まったく、あやのってば兄貴の何が良くて付き合ってるんだろーな?
兄貴なんぞにあやのは勿体無さ過ぎるぜ。ウサ目の奴はまあ、頭は良いし何だかんだでカッコイイからモテるのもわかるんだけど」
「こらこらみさちゃん。幾らあの人の妹だからって、私の彼をあんまり悪く言わないで欲しいな。
…ん、ああ、ごめんねゆたかちゃん。今聞いて貰った通り、確かに私には付き合ってる人がいるわね。
みさちゃんはこんなこと言ってるけど、素敵な所だってちゃんとあるのよ?」
「そうなんですか…」
「…ふふっ。男の子との付き合い方のことで、何か聞きたいことがあるのね?
ゆたかちゃんのお目当てのお相手も、やっぱりアスカ君なのかしら?」
「え、うぅえぇえ!?あ、ええと、私はそのっ…!」
「いいわ、私に答えられることだったら何でも答えてあげる。
役に立つかどうかはわからないけど、アスカ君とお付き合いする時の参考にして貰えれば私も嬉しいわ」
「あ、ありがとうございます!」
皆から離れて行くにつれて、後ろから聞こえる話し声も次第に小さくなって来る。
小走りで公園の中を横切って行くシンの目に映るのは、咲き誇る満開の桜の下で楽しそうな時間を過ごす人々の姿。
次々に人の命が失われて行く戦争とは無縁の、平和そのものの光景がそこにはあった。
「……平和だよな。この世界は」
そう呟いて、人気の少ない場所に差し掛かった時、シンはふと足を止めて天を見上げる。
そこでは木々の先に広がる桜の花びらが風に舞って、この空をも覆い尽くさんばかりの勢いで広がっていた。
その光景は確かに美しいと、頭上の桜を見つめながらシンは思った。
しかし、例えどれだけ美しく咲き誇っている花であろうと、やがてそれはいつか枯れ落ちてしまう。
どれだけ植えようとも、他ならぬ人間の手によって吹き飛ばされてしまう花だってある。
シンが生まれ育った世界は、果てしの無い戦争の中で人の命もまた花のように散って行く、残酷で冷たい世界だった。
あの世界に、自分もいつの日か帰る時がやって来るのだろうか――
今もこうして風に吹かれて散って行く桜の花びらを見て、シンは名状し難い寂寥感が自分の胸に去来するのを感じていた。
「――シン!こんな所にいたんですネ、シン」
「っ!?」
突然背後から声を掛けられて、思わずシンは全身に緊張を走らせながら勢い良く後ろを向いた。
思いも寄らぬシンの剣幕に、声の主は一瞬驚いたようにびくりと体を震わせる。
「……ああ、パティか。いきなり呼ばれたもんからビックリしちまったよ」
短めの金髪に白く透き通った肌、年齢の割には極めて女性的な成長を見せている体型。
この世界の海を渡って、一人で日本へとやって来た外国生まれの少女の姿を確認して、シンはふと表情を和らげる。
「イエ……私の方こそ、驚かせてしまってソーリーデス」
素直に頭を下げて、パティはそのままシンの側へと駆け寄って来る。
「シン、サクラを見ていたんデスか?」
「ああ。桜の花は綺麗だけど、でも見ていると寂しい気分になって来るなって思ってさ」
「サビシイ…sadness?」
「桜ってさ、一年にこの時期だけ、しかもほんの僅かな間にしか花を咲かせないだろ?
こんなに綺麗なのに…すぐに散ってしまうってことを考えたら、何だかそれってすごく悲しいことのように思えてさ」
滔々と呟きながら再び桜の木々を見上げるシンに習って、パティも一緒に自分の頭上を見やった。
今この瞬間も、桜の花びらが風に吹かれて舞い上がり、桜吹雪となって空の彼方へと消え去って行く。
そこから片時も目を離さないまま、シンは淡々とした口調で言葉を続ける。
その視線はまるで、桜の更に向こう側にある、何処か遠い場所を向いているようにさえ見えた。
「俺は昔…この国みたいに平和で、綺麗な花がずっと咲き続けていられる世界を作りたいって思ってた。
どれだけ花が咲いても、その度に人間の手によって吹き飛ばされちまうような、そんな悲しい世界を終わらせようとしたんだ。
でも駄目だった。闇雲に人を傷付けて、ボロボロになって、大切な人達も守れなくて…
今の皆と出会ったのは、そうした挙句に何もかもを無くしちまった時だったな」
「シン……」
「この世界で皆と出会えて、本当に俺は救われたと思ってる。
皆にはどれだけ感謝してもしきれない。これは嘘偽りの無い本当の気持ちだ。
だけど、俺もいつか元の世界に返る日がやって来るかもしれない。
あの場所での出来事は辛くて悲しい物ばかりだったけれど、それでも懐かしい故郷には違いない。
今こうして皆と過ごしている日常に別れを告げなくちゃならなくなった時……
俺は一体どんな顔をすればいいんだろうな。何を思いながら、あの場所へ戻って行くんだろうな…」
その時、不意にパティは今シンが何を感じているのかわかったような気がした。
シンは儚く散って行く桜の花の姿に、自分の存在を重ね合わせているのだ。
帰るべき故郷は遠く、今の日本での生活も自分にとっては仮初の居場所に過ぎないと感じているが故に
心の内に抱えている例えようのない不安感、自らもまた風に吹かれて消え去ってしまうような焦燥を、今シンは改めて噛み締めている最中なのではあるまいか。
パティにはそんなシンの気持ちが手に取るように伝わって来る。
自分もまた、見知らぬ異郷の地に一人で暮らしているという事実に、言いようの無い不安感を感じたことのある身なのだから。
「ネエ、シン。私達が見ているサクラ、とってもキレイデスよね」
「え?あ、ああ……そうだな、花の寿命こそ短いけど…だけど綺麗なのは間違いないよな」
「だったら、私達はこのキレイなサクラを忘れなければイイんデスよ。
シン…私ももうチョットしたら、一度ステイツに帰らなきゃいけマセン。
ユタカやミナミ、ヒヨリ……シンや他のフレンドの皆と離れバナレになるのは、とっても悲しいデス。
次にまたニホンに来テ皆と会えるのは、イツになるのかもワカリません。ダケド」
そこで一旦言葉を区切って、パティは目の前のシンの手を取ってしっかりと握り締める。
ちょっと冷たい気もするけれど、だけど大きくて力強いシンの手の感触が伝わって来て、それだけでパティはとても心強い気分になって来る。
彼女自身の抱えている不安感など、そのまま溶けて何処か消えて行ってしまいそうなくらいに。
「私、絶対にニホンの思い出を忘れマセン。
ニホンで見た、ニホンのフレンド達と一緒ニ過ごした楽しい思い出は、私の一生のトレジャーです。
もしシンが帰らなくちゃいけなくナッタとしても…ニホンの思い出は、きっとシンにパワーとエネルギーをプレゼンしてくれるハズですよ」
「……パティ」
「デモ、まだマダ思い出は足りてマセン。モットもっと、私はニホンでイロイロな経験をしたいデス。
シンと一緒に、このニホンで楽しいコトをいーっぱいしたいんデス」
そう言って、パティは更に力を込めてシンの手を握り締め、その体をシンの懐へと近付ける。
自分に密着して来るパティの体温がはっきりと伝わって来て、その感触にシンは何とも言えない気恥ずかしさを覚えると共に、目の前のパティという少女の存在を改めて感じ取っていた。
彼女だって遠い国から一人で日本にやって来て、今の生活にも様々な不安や戸惑いがあるだろうに、そんなことはおくびにも出さずに明るく振舞って、こうして自分のことを気遣ってもみせてくれている。
他の皆だって、異邦人に過ぎない自分の存在を受け入れてくれているではないか。
それなのに、こんな風に一人だけつまらない泣き言を言っていては、情けないどころか逆に皆を信用していないことにもなってしまう。
パティや今の友人達と過ごしているこの時間は、シンにとっても掛け替えのない大切な物だ。
永遠には続かないかもしれないが――それでも今こうして積み上げられている思い出は、決して無駄では無い。
例え人が戦争によって花を吹き飛ばそうとしても、果てしの無い闘争を終わらせられない宿命にあるとしても、何度でも花を植え続けようという努力を忘れてはいけなかったのだ。
人間は結局、一歩ずつ歩いて行く以外の道を選ぶことは出来ない。
そして今のシンが歩いている道は、何よりも暖かくて優しい世界の下にある物ではなかったか。
あのままボロボロになって擦り切れてしまいそうだった自分を、救ってくれた人達と出会うことが出来たではないか。
「……ありがとうな、パティ。なんとなく目が覚めた気分だよ。今日お前が俺に言ってくれたこと、絶対に忘れないよ」
「シンが元気ニなってくれるナラお安い御用デス!だけどサクラを見てサビシイ気分になる、デスか…
何だかとってもロマンティックなお話デスね。
ニホンの人達も、実ハサクラのそういうトコロをスキになったのかもしれマセンね」
「かもな。あまり長々と咲かないからこそ愛される花か…
そんな物があるなんて、昔の俺には想像も付かなかっただろうな」
「デモ私、そのアイデアはとってもステキだと思います。サクラはホントにステキな花ダト思いマス。
ダテに色々な萌えキャラの名前になってるワケじゃないデスねー。
これでマタシテモ私達、ニホンのことを一つ知るコトが出来ましたネ」
「ああ。この調子なら、俺達二人は他のどんな奴よりも日本通になれるかもしれないな。
さっきお前が言ったように、これからももっと色々とこの国のことを知っていこうぜ。皆に教わりなが
さ」
「ハイ!……あ、デモですね…ホントは私、シンと二人ダケで知って行きたいコトも…」
「パティ?」
「い、イエ、何でもないデスよ。――ッと、そうでした。実ハ私、シンに頼みたいコトがあったんデス」
「頼みたいこと?」
「イエス、マイロード。シンがシートから離れた後、少しドリンクが足リナクなって来ましてネ。
だからシンにはお買い物に付き合ってホシイと思いまして……」
「なるほどな。わかった、それじゃあ急いで買いに行くとするか。ああ、それと念の為聞いておくけど」
「ハイ?」
「まさか俺に隠れて酒を持って来た奴とかはいないよな?
んで、口煩い俺がいなくなった隙に一杯やろうとした奴とか…いたりしないよな?」
「…………」
「何故そこで視線を逸らす!?」
「さあシン、早くドリンクをゲットして戻りましょう。皆待ってマス。ハリーハリーハリー、の心デス」
「ううむ、何だか急に不安になって来た…よし、急ぐぞパティ!酒は二十歳になってから、だ!」
「OH、それもまたニホンのルールデスね――あ~ん!待ってクダサイ、シン~!」
はらはらと舞い散る桜の下を、シンとパティが駆け抜けて行く。
故郷を離れて日本で暮らす二人の様子を苦笑交じりに見守るかのように、再び風に舞い上げられた花びらが桜吹雪となって通り過ぎて行った。
最終更新:2009年08月17日 10:00