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時枝誠記「国語学への関心」

時枝誠記『国語学への道』「2国語学への関心」

 私の国語への関心の跡を辿る時、勢ひ、それは私の少年時代にまで溯らなければならない。そして、私と国語との奇しき結縁を思ふと、そこには私の亡き父(誠之、昭和九年五月十七日歿、享年六十四歳)の面影が浮んで来る。今の場合、私事を述べることは甚だ心苦しいことではあるが、父は私の生まれる直前から、私が中学を終へて岡山の高等学校に入る頃まで、殆ど二十年の永きに亙つて、横浜正金銀行の行員として、インド、アメリカ合衆国等の海外の支店に在勤してゐた。その間、時たまの帰朝や内地在勤の時を除いて、殆ど私とは家庭生活を共にしたことが無かつた。だから、上野公園でパノラマを見、十二階に昇つて東京を俯瞰し、その頃珍しい西洋料理を食べさせて貰つたことや、祖父の埋葬の日に、終日墓地に立たされた御褒美に、日頃の念願であるヴァイオリンを銀座の十字屋で買つて貰つて、さて四絃の調律をどうすべきかに父も当惑したことなどが、父に関する唯一無二の思出である程だつた。しかし、私も中学に進むやうになり、父が東京に残して行つた若干の蔵書を通して、また、これを整理したり、埃を払つたりしてゐる内に、私は、次第に父の好む処を何時とはなしに知るやうになった。父は自ら自負してゐたやうに、銀行員としては珍らしい読書家であつて、私の大学在学中の父の家庭における生活は、殆ど読書に終始してゐたやうである。しかも、読書の範囲は、何の為にああいふ方面の書物を読むのか了解に苦しむやうなものにまで及んでゐて、寝衣を着替へる間も、書物から眼を離さうとしなかつた。私は、今でも父の勉強振りには敬服し、自分の遠く及ばないことを恥ぢてゐる。父の読書は、素人らしい気まぐれな浅薄なものであつたとはいへ、父の書斎に私が訪れた時などは、何時も新らしい話題が繰りひろげられ、奇想天外な創見を如何にも愉快さうに私に語つて呉れたことには、私はひそかに驚嘆したのである。その父が、大正の初年頃、国語問題に没頭し、自ら国語改良論を執筆してゐた時がある。若い銀行員の人達が訪ねて来られた時は、相手が、興味あらうが無からうが、そんなことにはおかまひなしに、国語改良論を一席弁じて、終電車の時間が来て、漸く放免になつた人達も二、三には止まらなかつたやうである。国語改良論を裏附けるために、ありふれた言語学書にも目を通し、サンスクリットやアラビヤ語等にも手を染めて、その該博な知識を誇りつつ私を煙に巻いた。明治の文明開化の空気を呼吸し、アメリカの合理主義、便利主義、物質主義の生活を存分に体験した父の国語改良論に、その当時、私も知らず知らず感化を受けて、タイプライターを熱心に独習してローマ字文を綴つたり、仮名ばかりの作文を堤出して中学の国語の先生から叱られたりしてゐた。創見を誇る父の国語改良論も、云つて見れば極めて簡単な理論に基づくもので、国語の要素を(一)phyysical element (二)psycholosical elementに分ち、(二)は国語の文法語格に関する語で、国語の不易な部分であり、(一)はその他の語で、自由に変改し得る部分である。よつて国語においても、(一)の要素に大変革を加へて、これを新時代に即応せしめようとするのである。父は、これをNeo Japaneseと称し、過去においては、国語はそのphysical elementに沢山の漢語を取入れたが、今日においては、漢語を駆逐して、その代りに世界的な流通力を持つ英語を採用すべきであると説くのである。road first! 然る後足駄にすべきか靴にすべきかの問題は自然に結着するといふのが父の持論である。漢語をそのままにして置いて、ローマ字採用を主張するのは、泥濘に草履をはくことを力説するに斉しい。今日、英語に世界の共通語であり、日本と英語国(米国、カナグ、濠洲等)との国際的環境から見て、漢語を英語に置き換へることによつて、全然、国語の本質に手を触れることなく、しかも世界的言語として、日本語を世界の檜舞台に押し出すことが出来る。言語は思想伝達の道具に過ぎないのであるから、国語の本質的部分に拘はらないphysical elementに大変改を加へて伝達の機能を充分に発揮させることは必要なことであり、現代の国語は、その一部に既にこれを実行してゐるのであるから、新国語は意識的にこれを助長させるに過ぎないものであるといふのである。次に、父の所謂ネオ・ジャパニーズの雛形を示して見れば、
Wazuka twenty years ago, Constitutional Government no moto ni, first Diet ga hirakareta toki, prince Ito ga kare no "Commentaries on Constitution" ni Ministers wa directly niwa Emperor ni mata indirectly niwa people ni "responsible de aru" mata "Ministers no responsibility wo decide suru power wa Diet kara w ithheld sarete aru" to iishi koto wa generally ni acknowledge sareta.
(大正二年一月ニューヨーク新報掲載、雑誌ローマ字第九巻第一号付録、川副桜喬氏論文に引用。)
 父は、また、言語の性質から見て、国語に対する漢語の融和性よりも、寧ろ英語の融和性の方が濃厚であると断じて、当時ニューヨークで流行した"Every body's doing it now"といふRag time調の俗謡のコーラスにカッポレ調を附けて次のやうなものを作つて示した。これも、云はばNeo Japaneseの一の試みと見ることが出来る。
     Champagne Kappore
      (一)
 カッポレ カッポレ Champagneでカッポレ
   Rag timeで カッポレ ヨイトナ ヨイ〳〵
 夜明け近いのに danceが 盛る
   これがNew Yorkのgay life
     ヤッチョルネ ヤッチョルネ
     ドイツモ コイツモ ヤッチョルネ.
       (二)
 豊年じゃ 満作じゃ
  See that rag time couple over there
  Watch them throw their shoulders in the air
 小腰をフワリと一寸抱いた
       抱いたセッセ
 抱いたかいなに科はない
   It's a bear, it's a bear
    アリャ 何でもセー
(以下略、昭和二十年四月十四日の空襲による火災で、父の遣稿はここに収めて置いたものを除いて全部消失した。)
 かういふやうな国語改良論が、日本にあつて教育を受けつつある私に、そのまま素直に受入れられる筈はなかつた。父の改良論に疑を持ち、国語の将来がこれでよいのかといふ気持ちが頻に涌いて来たのは、中学の上級に進むやうになつてからである。国語は、私に対して大きな問題を投げかけ、次第に、私の心から離れることが出来ないものとなつてしまつた。丁度その頃であつた。国語読本の中で、上田万年先生のかの有名な国語愛護についての大文章を教へられる機会が与へられた。恐らく、他の中学生の誰もが感じ得ないやうな感激を、私はあの流麗なそして熱情の籠つた文章の中に見出し、心の戦きを禁ずることが出来なかつた。先生は云はれた。
言語はこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、精神上の同胞を示すものにして、之を日本国語にたとへていへば、日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ、日本の人種はこの最もつよき最も永く保存せらるべき鎖の為に散乱せざるなり。故に大難の一度来るや、此声の響くかぎりは、四千万の同胞は何時にても耳を傾くるなり、何処までも赴いてあくまでも助くるなり、死ぬまでも尽すなり、而して一朝慶報に接する時は、千島のはても、沖縄のはしも、一斉に君が八千代をことほぎ奉るなり。もしそれ此のことばを外国にて聞くときは、こは実に一種の音楽なり、一種天堂の福音なり。
また、
かくの如く、其言語は単に国体の標識となる者のみにあらず、また同時に一種の教育者、所謂なさけ深き母にてもあるなり。われわれが生まるるやいなや、この母はわれわれを其膝の上にむかへとり、懇ろに此国民的思考力と、此国民的感動力とを、われわれに教へこみくるるなり。
また、
されば言語の上には、われわれが心中に一日も忘れかぬる生活上の記念、殊に人生の神代とも謂つべき小児の頃の記念が、結び附き居る者と知るべし。われわれが幼なかりし頃、終日の遊びにつかれはてゝ、すや〳〵眠りにつかんとせし折、その母君は如何にやさしき声にて、ねよとの歌をうたひ給ひしか。頑是なき小児心に、わるふざけなどして打ち回りし時、われわれの厳しき父君は、如何にをこそかに教訓をたれたまひしか。さては隣家の垣によぢて、栗の実をひらふに余念なく、或は春のうらゝかなる野辺に、秋さん冬さん諸共に、蓮華草などつみあるきたる、すべて当時よりつかひ来たる言葉は、当時の人名当時の地名と諸共に、何共いはれぬ快感をわれ〳〵に与ふるなり。
先生は国語の尊厳、国語の慈愛を懇々と説き去り説き来つて、更に、
嗚呼世間すべての人は、華族を見て帝室の藩屏たることを知る。しかも日本語が帝室の忠臣、国民の慈母たる事にいたりては、知るもの却りて稀なり。況んや日本語の為に尽しゝ人をや。
と、国語のために尽すことの如何なる意義があるかを述べられて、国語における楠氏一族、また水戸光圀卿の出現を強く希望せられた。(先生の右の論文は先生の論文集「国語のため」第一に収められてゐる。)
 もはや、私は国語のことを離れて、将来の私の方向を考慮することが出来ない程の気持ちに駆り立てられた。私は当時サンフランシスコに在勤してゐた父に向つて、自分は将来国語の研究に一身を捧げたいから許して貰ひたいといふことを書き送つた。父は直に返事をよこして、私の心境を、正成の遺志を継いだ正行に比すべきだと賞め讃へて呉れた。やがて中学を終へた大正七年の四月、父は用務を帯びて帰朝し、私は、直接父と上級学校への志望の選定について相談する機会が与へられた。ところが意外にも、父は、私が専門の国語学者として将来立つといふことに、絶対の反対を主張し出した。後になつて考へれば、そこには子に対する親としての当然の考へが覗はれるのであるが、父の意見としては、自分がやつて来たやうに、趣味として、また、実務の余暇にやるべぎで、専門に文科を選ぶことは、特殊の天才でも持ち合せない限り危険千万であると云つて、文科出身者の誰彼の生活を例に挙げて、極力私の素志を翻へさせようとした。事は極めて現実的な問題に直面し、青春の希望に燃えたつた私の心は全く暗澹とならざるを得なかつた。高等学校に提出すべき願書を前に置いて、父も私も次第に激越な口調となり、議論は果しなく続いて、夜も白々と明けてしまつた。私の将来のことは、遂に未解決のまま引き下ることになつた。間もなく父は再び任地に帰ることとなつたが、私は、自分の将来については再び父と語らうとはしなかつた。横浜埠頭で父の乗つた船が港外に出て行くのを見送つても、私は私の将来について、父の勧告に従ふ気にはなれなかった。このやうにして、その後私は岡山の高等学校に学ぶことになつたが、私の決意を誰彼に云ひふらすといふことはなくても、心の内では依然として素志を翻すことは考へられなかつた。その頃愛読した頼山陽や吉田松陰の伝記も、私の国語に捧げようとする熱情を弥が上に駆り立てて、私は国語に殉ずる一個の国士を以て自ら任じてゐたのである。大正十一年の春、再び東京へ帰つて来た。その頃、既に東京に在住してゐた父も、もはや私の針路について反対をしょうともしなかつたし、私もとりたてて相談することもなく、東京帝国大学の国文科に入つてしまつた。

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最終更新:2019年04月16日 23:22