時枝誠記「言語教育と文学教育  附 鑑賞の問題」

時枝誠記『改稿/国語教育の方法』有精堂 1963

第六章 教育内容の分析と教育の方法
 一 言語形態の分類─「話す」「聞く」「書く」「読む」─
 二 言語生活の実態
 三 標準語教育と方言生活
 四 経験主義の教育と基礎学力の問題
 五 話し方と聞き方
 六 読み方
  読み手(読者)の立場
 ○言語教育と文学教育
  ○附、鑑賞の問題
 七 作文(綴り方)
 八 文法


 国語教育の現場では、教材を、文学教材と非文学教材とに分け、高学年に進むに従って、文学教材を与へることに重点を置き、それが、また、児童生徒の人間形成に寄与するものであるとする考へ方は、極めて一般的である。文学的教材に対する児童生徒の立場を、鑑賞的立場として、非文学的教材に対する立場とは別であるとすることも、今日常識化された考へ方である。昭和三十五年度の高等学校指導要領の改訂に際して、「現代国語」の科目を設定し、教材内容に関しては、「文学的な内容だけに片寄ることなく、論理的な表現や理解をも重んじること」としたことは、従来の国語教育の通念からいへば.相当な衝撃であったことは事実で、ごの改訂を、人間形成の国語教育から、技術偏重の国語教育に転落させようとするものであるといふ批判がなされたのである。私はここで、従来の国語教育の通念は、どのやうにして形成されたか、それに対して、改訂指導要領は、それとは別に、何を目指したかを、私の言語理論から解明してみようと思ふ。
 国語教育において、技術面の教育と、内容面の教育とが、二元的に対立的に考へられたことは、明治三十四年公布の中等学校令施行規則第一章第三条に、
国語及漢文ハ普通ノ言語文章ヲ了解シ正確且自由ニ思想ヲ表彰スルノ能ヲ得シメ
とあり、それに続けて、
文学上ノ趣味ヲ養ヒ兼テ知徳ノ啓発ニ資スルヲ以テ要旨トス
と規定されてあることで明かなやうに。前半は、技術技能に関する教育で、後半は、内容に関する教育、特に文学教育をうたつたものと理解されるのである。この考へ方は、今次の改訂にも引継がれてゐると見ることが出来るのである。それは、指導事項の中に、高等学校において、
さまざまな文体にふれ、それぞれの表現の特色を理解鑑賞すること(「読むこと」(1)オ)。
また、
古典としての古文や漢文について、概観的な理解を得させ、読解し鑑賞する能力を養い、思考力・批判力を伸ばし、心情を豊かにする。(「古典甲」1目標)。
中学校においては、
文章を正確に読解し、あわせてこれらを鑑賞する態度や技能を身につけさせる(第一、目標2)。
文学作品などを読んで、鑑賞し、まとまった感想をもつこと(第三年「読むこと」(1)ク)。
小学校においては、鑑賞といふ語は用ゐられてゐないが、「味わう」といふ語が、それに相当する内容を云ってゐる。
調べるために読むことができ、また、味わって読むことができるようにする(第五学年目標(4))。
味わって読むため、また他人に伝えるために声を出して読むこと(同「読むこと」)。
のやうに、「鑑賞する」「味う」といふ語が、「読解する」「読む」といふ語とは、別の意味を持つものとして使用されてゐる。これはいふまでもなく、文学作品のために用意されたものと見ることが出来るのである。
 以上のやうな「鑑賞する」「味う」といふことが、文学作品あるいは文学教材に立向ふ、児童生徒の態度、立場であるとするならば、それがどのやうにして、児童生徒の人間形成に関与して来るかといへば、それは、作品の思想内容あるいはそこに盛られた感情的内容が、児童生徒の人格に何等かの影響を及ぼすものとの期待が懸けられてゐるからである。指導要領の国語科の目標1に、「心情を豊かにして」とあるのは、それを云ったものと解せられるのである。このやうな人間形成の方法は、いはば「焼付け主義」の方法ともいふべきもので、そこでは、当然、焼付けるべき原板が用意されてゐる必要があるので、教科書の内容は、焼付けるに値するものとして選択され、取揃へられた原板であり、それを集めたものであるといふことになるのである。国語教育における人間形成の問題は、第八章「国語教育と人間形成」の章で、纏めて論ずることとして、ここでは、問題を更に転じて、言語教育即ち技術教育と、文学教育即ち内容教育との対立を結果するやうになった根本である、言語と文学との関連交渉の問題に入らうと思ふ。
 一般に、言語と文学とを截然と分けて、それぞれ別個の世界のものであるとする考へ方が行はれてゐるが、このやうな考への出て来る根拠は何所にあるかといへば、それは、文字を、言語を媒材とする表現であると規定することにある。例へば、サピアが、
言語は、大理石、青銅、粘土などが彫刻家の材料であるやうに、文字の媒材(原語 medium)である(木坂千秋訳『サピア言語』第十一章「言語と文学」)。
と云ふ時、大理石や青銅が、自然界の存在として、彫刻そのものとは別個の存在であるやうに、言語は文学に対立する別個の存在であることになる。
 次に、言語も文学も、ともに表現であるとする立場に立ちながら、絵画や音楽や彫刻のやうな芸術作品と言語的芸術作品とを同一視する立場から、言語の中から、芸術的形成を経た言語芸術即ち文学を切取ることによって、言語と文学とを分つ立場がある。
芸術活動は一種の表出活動であるとしても、逆に表出活動はすべて芸術活動であるとはいえない。(中略)その根本の理由は感情表出はおおむね反射的・無秩序的・無計画的であり、したがって没形式的formlosであって、(中略)つまりここには芸術作品の産出にとってきわめて重要な形式の契機が欠けているのである(竹内敏雄編『美学事典』一七五頁)。
右は、芸術と言語との根源的同一性を説いたクローチェ等の思想と判断されるのであるが、そこでは、形成(Gestaltung)といふことを以て、文学と非文学とを分たうとするのである。このやうに、言語と文学とを対立させ、あるいは言語の中から芸術的言語を取出すところから、一般に芸術的所産に対する立場として考へられてゐる鑑賞的立場といふものが、読解的立場とは別に、文学に対する立場として考へられて来るのは当然である。国語教育において、文学教育と非文学教育とを対立させ、鑑賞的立場を、読解的立場とは、別に存置しようとする考へ方の根拠は、以上のやうに説明出来ると思ふのである。
 言語過程説における言語と文学との関係に対する考へ方については、『国語学原論続篇』第三章「言語と文学」において論じたので、これを繰返すことは避けたいが、そこで述べた重要な点は、第一に言語は、文学の媒材ではなく、文学は即ち言語であるとする考へ方である。これは、言語を、人間の表現・理解の行為であるとする言語過程説の根本理論から出て来る当然の結論なのである。次に、上掲書の第二章「言語の機能」において論じたことは、文学といへども、それが言語である以上、言語の根本的機能を離れて存在するものではなく、むしろ文学を広大な言語の機能の点から考察することが必要とされるのである。文学を、言語の機能から考察するといふことは、文学が、ただ読者によって眺められるといふ、鑑賞の対象としてあるのではなく、文学は、常に読者の理解を媒介として、読者の人生観に影響を与へ、読者の行動を左右しようとする意欲を以て表現されるものである。文学は、常に作者と読者との間に鑑賞者としての関係だけでなく、もっと広い関係を構成することをねらってゐる。例へば、
夕やみは道たづたづし(「たどたどしい」の意、不分明なること)月待ちていませ我が背子その間にも見む(万葉集巻四相聞七〇九番)
の歌は、我が背子と呼びかけられてゐる相手の男性に、ただ鑑賞の対象として贈られたものではなく、相手の行動を左右し、彼を暫時引留めようとする意図を以って詠まれたものである。従って、この相手が、この歌を受取って、彼女のために、月の出まで留まってやるといふ行動にまで発展することによって、この歌の機能が果されたことになるのである。このやうに、文学は、そのものだけで完結するといふものでなく、広く生活と結び付く性質を持ってゐる。そのやうな意味で、文学の機能は、言語のそれと同様に、手段的機能であるといふことが出来る。
 このやうに見て来ると、文学を受容する立場を、鑑賞的立樶として、読解の立場とは別ものであるとすることに大きな問題があるといふことになるのである。文学を言語であるとする考へ方からいへば、文学を受容する立場は、読者的立場以外のものではなく、文学作品に対して、これを鑑賞するといふ、受容の仕方は、文学の本質を歪める結果になりかねないといふことになるのである。
 文学作品に対して、鑑賞的立場といふものがあり得ないといふことをいふためには、先づ鑑賞といふことが、どのやうな心の作用であるかを明かにしてかかることが必要である。以下、竹内敏雄編修『美学事典』の記述に従って、そのことを明かにしようと思ふ。先づ「鑑賞」については、
鑑賞というのも受容的美意識をさすことは観照や享受と同様であるが、主として芸術のばあいに適用され、かつ特に対象についての積極的な価値認識の意味をふくむもので(一六六ペ、原文は横書き)、
とあり、「鑑賞」は、「観照」「享受」と同意語であることを知る。そこで、「観照」、「享受」について見ると、
観照は本質上、自我と対象との間に距離をおくことにおいて成立する。それは自我がかような態度をもって対象を受容する作用であり、この受容性からして享受と密接に結合する(一六六ぺ)。
観照とは対象を自我からへだてる特殊な態度であって、すべての美的享受は観照享受に属する(九二ぺ)。
とあって、「鑑賞」が「観照」と同じ性質のものとすれば、それの性質は、自我と対象との間に、距離を置くことによって成立するものであることを知るのである。更にこの作用を布衍して説明するところに従へば、
美意識における観照ばいわゆる無関心性(Uninteressierheit)特徴とする(一六六ぺ)。
ここに、無関心性といふことが挙げられてゐる。無関心性とはどのやうなことかといへば。
美的観照においては自我が実生活のあらゆる関心や意欲を超絶して純粋に対象へ帰依し没入する。これを美的静観という。カントが「対象の実存性(Existenz)の表象に結びついた満足」──すなわち「関心」──を欠く態度を静観的とよんで以来、この無鬨心性あるいは静観性は美意識の一つの根本的特性とみなされている(一六六ペ)。
享受作用はつねに自我を中心として行われるのである。その際自我は内面的に対象にむかっているとはいえ、対象に対していかなる態度決定をも行わない。(中略)さらに自我が対象を受容し、対象に身をゆだねるという点で、享受は受動性をおびている(一六四ぺ)。
これらの説明に対して、一般に文学と呼ばれる作品に対する受容者の立場は、およそ観照享受とは異なる態度が要求されるので、そこでは、読者は、表現者に対して、常に何等かの態度の決定を迫まられてゐる。換言すれば、文学作品に対する受容者の立場は、受動的でなく、能動的であり、表現者に対して諾否去就を保留する立場にあるといってよい。このやうな立場は、鑑賞的立場あるいは態度といふべきものではなく、いふならば、読者的立場であり、そのやうな立場が成立するためには、表現を理解するといふ作業を前提とすることがなければならない。文学作品の受容は、常に右のやうな経過をとるものである。例へば、ゲーテの『若きウェルテかの悩み』を読むものは、ウェルテルの書簡の相手である、友人ウィルヘルムの立場において、これを読み、ロッテに対するウェルテルの悩みを理解し、その心境に同情し、「すべての青年は、このやうに愛さんことを願ひ、なべての少女は、このやうに愛されんことを願って」(高橋健二訳『若きヴェルテルの悩み』「あとがき」)離婚者が徼増し。自殺者が統出したと伝へられてゐる。批評家は、それは作品の結果であって、表現そのものの罪ではないと云ってゐるが、文学作品には、常にそのやうな機能があることを、閑却するわけにはいかない。文学作品は、根本的に言って、言語表現そのものであるからである。勿論、作品『ウェルテル』の構成は複雑であって、一般には、ウェルテルと読者との関係において、この物語が読まれるのであるが、ウェルテルは、この作品の作者ではない。作者は、ウェルテルが友人ウィルヘルムに宛てた手紙を読者に紹介してゐる蔭の人であり、作品の編者に過ぎないのであるが。作者と読者との真の関係において、この作品を読むならば、この作品の理解の仕方は、自ら別のものになるであらうといふことが考へられるのである。武者小路実篤の作『彼が三十の時』の中で、作者は、主人公に次のやうなことを語らせて
ゐる。
 彼は夢を見た。
 死んだ嫂が出て来て、彼に彼が人殺しをしたと言った。
   (中略)
 彼は黙つてゐた。彼はこの時もしかしたら自分のかいたものが、ある女の心に刺戟を与へて、その女が自分の好きな男と姦通して、それが原因で自殺したのではないかと思つた。
  (中略)
 彼はわるいものをかいたと思った。彼は姦通を是認したことはないが、是認したやうな調子のものをかいたことはあった。
  (中略)	
 彼はとり返しのつかないやうな気がした。さうして目がさめた。(中略)彼は自分のかいたものが、他人の運命に今見た夢のやうに交渉してはたまらないと思った。
  (中略)
 彼は自分のかくものが人々の心にふれてくれることを喜び、且つ恐れた。さうして自分の責任を今更に感じないではゐられなかった。
これは、作者武者小路の文学の機能に対する反省の表白と見ることが出来るのである。文学は、読者を鑑賞的立場に誘ふのではなく、読者の行動的立場に、ある示唆を与へ、行動を促す機能を持ち、そこに作者としての喜びも戒心もあるとしたのである。
 以上において、文学作品に対する立場としては、理解作用に基づく読者的立場以外にはないことを明かにして来た。従って、それは、二般言語表現に対する立場と別のものでないのであるが、我々は、ある種の作品に対して、一種の陶酔境に導かれることを経験する。これは鑑賞的立場といふべきものではないかといふ疑問が生ずる。しかし、この気分的情緒的なものは、表現を理解することによって獲得した世界に関するものであって、対象そのものに帰依し、それに没入する心的状態とは、自ら別のものであると見なければならない。それは、対象に対する美的観照的享受とはいふことが出来ないものである。『美学事典』には、この区別を次のやうに説明して
享受には外方集中と内方集中とが区別される。前者は享受対象を観照することであり、したがって美的享受たりうるが、後者は対象から刺戟されて生じた自己の気分にむかつて集中するようなばあいをさす。内方集中にはさらに感情や気分への(auf)内方集中と感情や気分のなかでの(ni)それとがわかたれるが、後者がまったく美的享受たりえず、しばしば危険なディレッタンティズムに陥る可能性を有するのに比して、前者は芸術作品についての美的享受ではありえぬにせよ、なお気分についての美的享受たりうると考えられるのである(九二ぺ)。
文学作品を読むことによって獲得する気分感情は、右にいはれてゐる内方集中の場合であり、それは対象である表現についての美的享受ではありえないことになるのである。同様のことが、次のやうにも述べられてゐる。
本来の芸術享受は「外方集中」でなければならない。すなわち享受客体たる芸術作品の観照でなければならない。芸術享受に際しては往々客体そのものの享受ではなく、客体からの刺戟によって生じた感情・気分の享受が行われるが、これは上記の「外方集中」に対して「内方集中」とよばれるばあいであって、本来の芸術享受とはみとめられない。ただし「内方集中」には感情・気分へのそれと、感情・気分におけるそれとが区別されるが、前者は本来の芸術享受ではないにせよ、なお感情・気分についての美的享受たりうるのに対し、後者はまったく非美的な享受であるとみなされる。このことと深く関連して美的享受においては自己享受はあくまでも斥けられねばならない(一六四ぺ)。
芸術作品の享受において、その本来の享受でないとして斥けられた内方集中が、文学作品においては、主目的となって、作者は、作品を媒介とし、その刺激によって、読者にある気分感情を起こさせようとするのである。このことは、文学作品が鑑賞の対象となるべきものでなく、理解の対象となるべきものであることを意味することになるのである。これを国語教育の場に移すなら
ば、文学作品に対する立場には、読者的立場以外のものは考へられず、作品に対する理解を深めること即ち作品を読むことによってのみ、作者が意図した世界を、読者が獲得することが出来るのである。