時枝誠記『改稿/国語教育の方法』有精堂 1963
第六章 教育内容の分析と教育の方法
一 言語形態の分類─「話す」「聞く」「書く」「読む」─
二 言語生活の実態
三 標準語教育と方言生活
四 経験主義の教育と基礎学力の問題
五 話し方と聞き方
六 読み方
○読み手(読者)の立場
言語教育と文学教育
附、鑑賞の問題
七 作文(綴り方)
八 文法
読み方教育の意義は、読むことの、我々の生活における意義によって明かにされる。読むことは、話すことや、聞くこととは異なる、別の重要な機能を持ってゐる。特に、高度の思想の伝達、文化の継承に重大な関係がある。読み方教育が、従来国語教育において、大きな比重を占めて来たことには、充分に理由があることである。戦後、話すこと、聞くことが言語生活の基盤であるといふ考へから、読み方教育が軽く扱はれ、延いては文字教育が粗略に扱はれる傾向にあったことは、言語と生活との機能的関係を忘れたことに基づくのである。勿論、このやうな文字言語観は、その淵源するところは、かなり古いのであって、十九世紀の近代言語学の発祥において、音声言語を、言語の本体的なものと見、文字を言語の付加物、第二義的なもののやうに見る考へ方に基づくのであるが、近代言語学のこのやうな考へ方は、近代言語学独自の課題に応ずるものとして出て来たので、国語教育に、直にそれを適用することが不当であることはいふまでもないことである。
読むことの経験は、他の国語の経験と同様に、広く家庭生活、社会生活において与へられることである。学校教育の任務は、これらの経験を正しく処理する態度、方法、技術を身につけ、自覚的にこれを実践することを教へることである。これは、他の話し方、作文の教育と同じことである。そこで必要なことは、教師の側において、あるいは研究者の側において、読むといふことは、どのやうなことであり、そこには、どのやうな技能が必要であるかが分析研究されてゐなければならない。
先づ読むといふことは、どのやうな事実であるかと見るのに、読むといふことは、表現の媒材である文字を手懸りとして、それによつて構成された文章を通して、作者あるいは筆者の思想、立場を分らうとすることである。このやうな作業には、先づ何よりも、己を虚しくして、相手を理解しようとする寛容の態度と、正しく読むにはどのやうな方法によるべきかといふ、生徒自身の読み方に対する批判的精神とを必要とする。それは、伝達を成立させ、正しい理解を成就させようとする精神である。ここに批判的精神といふのは、読まれた、表現者の思想内容についての批判ではなく、読むといふ自己の行為に対する批判である。高等学校指導要領第一款「目標」の項に、
生活に必要な国語の能力を高め、(中略)思考力・批判力を伸ばし
とある批判力の意味を、私は右のやうに解釈するのである。内容についての批判は、それは国語教育の埒外のことで、それには、社会科的あるいは理科的等の立場を必要とすることであらうが、読む行為自体の批判は、純然たる国語学習の埒内のことである。今まででも、屡々内容批判が国語科の主要な任務と考へられて来たのは、言語行為の目的と、国語教育の任務とが、混同された結果であって、もし内容批判を国語教育の主要な任務とするならば、国語教師は、教材に盛込まれた百般の事象そのものに対して責任を持たねばならなくなる道理であるが、国語教育の目標は、教材に盛られた思想を正しく理解するための読みの方法を教へることであって、正しい読み方に基づかないで読まれた内容は、時には作者の意に反したことを理解したことになり、従ってその内容に対する批判は、無意味なことになるか、あるいは相手を陥入れる結果にならないとも限らない。例へば、ある筆者が、金のために身を亡した人のことを述べて、「金は、人生の落し穴だ」と云ったとする。読者が、その結論の前提を見落して、筆者を、金銭の効用を無視した意見であると責めたとしたならば、その批評は全く当らないことになるか、故意にその人を中傷したことになる。
読むといふ作用の基本的形式は、読まれる対象である文章の基本的性質に規定されるものである。文章の基本的性質といふのは、それが時間的継起的に展開するものであるといふことである。それは同時的に全体を一望することが出来る絵画の場合と、全く対蹠的である。従って、読む、といふことは、文章の冒頭あるいは書出しから、順次、読み下し、読み進めて行くことである。これは、旅行の道程を、一歩一歩、歩いて行くのに似てゐる。このやうな読み方の形式を、私は、「たどる」と名づけた。読み方教育は、要するに文章のたどり方を教へることである。急坂は、どのやうにして越えるか、川があれば、どのやうにして渡るか、速度はどのやうに調節するか等、それと同じことが、文章をたどる場合に考へられる。のである。これが、我々が実際に書物を読み、論文を読む場合の実状であるとするならば、読み方教育もまた、これを離れるものであってはならないはずである。このやうに考へて来ると、従来の読み方教育の方法に、一つの疑問が涌いて来る。それは、垣内松三のセンテンス。メソッドに採られてゐる方法である(大正十一年刊『国語の力』)。垣内方式に従ふならば、教師は、児童に、先づ作品なり、教材なりの全体を通読させて、全体印象を捉へさせ、更に立返って、作品を分段に分けて、構想を理解させるといふ順序で、学習が展開するのである。この方式は、既に述べて来たところで明かなやうに、日常の読書の実際とはかけ離れたものである。全体の通読が可能なのは、教科書に取られた教材が、多くの場合に短篇であるか、長篇の一部分であるからであって、一般には、読書の第一段階に、通読の段階を設ける
といふことは、先づあり得ないことである。一般の読書の方法は、ただ一回切りのたどり読みである。ある部分を、再度読み返す場合でも、その部分のたどり読みである。して見れば、読み方教育の目標は、文章の重要な部分と、挿入的付属的部分とを、嗅き分けながら、読み進めて行く、たどり読みの方法を教へることになければならない。この方法は、文章そのものの性質から見て当然であると同時に、実際の読書の方式がそのやうになってゐることからも、妥当性を主張することが出来るのである。
ここで、垣内松三の通読↓分段の読書方式が主張されるに至った経緯を詮索してみることは、私が、ここに主張するたどり読みの意味を理解するのに、強ち無益なことではないであらう。最初に、文章全体の通読が要求される根拠は、垣内松三が、文章表現と絵画表現とを同一視したことにある。絵画の朧気な全体的直観に相当するものが、文章の通読によって得られた全体的印象であるとしたのである。ところが。ここには大きな錯誤があったのである。それは、文章と絵画とは、表現の性質から見て、全く対照的なものであって、前者が、時間的継起的線条的であるのに対して、後者は、空間的同時的なものであって、これを同一視することは出来ないものなのである。もし文章において、全体的印象に相当するものを求めるとすれば、それは、文章の冒頭、書出しの部分であり、文章は、この冒頭、書出しの展開において成立するものである。たどり読みといふことは、この冒頭、書出しの展開を、踏み締めて進むことに他ならないのである。
垣内方式の主張されたもう一つの理由は、作品研究の態度が、読みの態度に投影したことである。本来、教材なり、作品なりを読むといふ態度や立場といふものは、それらを研究する態度や立場とは、全然別のものでなければならないはずである。ところが、文章表現を、絵画と同一視したために、これを一つの対象として観察し研究する態度や立場が、濃厚に打出されることになった。読む態度や立場が、影を潜めたところに、垣内方式のセンテンス・メソッドが打立てられたものと見られるのである。総じて、大正時代の国文学、特に現代文学の研究と、国語教育との関係を見れば、その感を深くするのである。国語教育の根本は教材研究であり、教材研究は、文学研究であり、国文学研究であったのである。西尾実氏も、この時代を、「国語教育の問題史的展望」において、「文学教育期」と名づけ、
大正十一年に刊行された、垣内松三氏の『国語の力』は、その気運に形を与えた著述であったと認められている(『国語教育学の構想』十七頁)。
と述べてゐる。私のたどり読みは、文学研究的国語教育を脱却しようとする一の新しい方法である。
最終更新:2019年11月21日 22:21