時枝誠記「作文(教育内容の分析と教育の方法)」

時枝誠記『改稿/国語教育の方法』有精堂 1963

第六章 教育内容の分析と教育の方法
 一 言語形態の分類─「話す」「聞く」「書く」「読む」─
 二 言語生活の実態
 三 標準語教育と方言生活
 四 経験主義の教育と基礎学力の問題
 五 話し方と聞き方
 六 読み方
  読み手(読者)の立場
  言語教育と文学教育
   附、鑑賞の問題
○七 作文(綴り方)
 八 文法


         七 作文
 読み方教育が、表現の媒材を手懸りとして、作者なり筆者なりの思想を理解しようとする態度、方法、技術の教育であるのに対して、作文教育は、表現することによって、自己を相手に分らせようとする態度、方法、技術の教育であって、この両者を画然と区別することによって、それぞれの教育の系統性、計画性を明かにすることが出来るわけである。
 作文教育の不振といふことが、いはれてゐるが、その原因の半ばは、それを実施する方法即ち作文教育の方法に困難があることにもよるが、半ばは、読解作業とは異なる表現といふこと自身に存する大きな困難さに基づくものと考へられる。そこで作文教育について考へるには、作文教育の方法に関する面と、文章を作る実践に関する面との、両面から考察することが必要である。その問題に入る前に、それに先立って、今日、作文教育を課する意義目的はどのやうなところにあるかを、考へて置かうと思ふ。
 作文教育の意義目的の一つは、社会生活における実用に応ずるところにある。記録や報告を作成し、意見や論文を書くといふことは、社会生活における言語の実用的機能を達成するためである。それとは別に、作文教育には、人間が自己をどのやうにして表現するかの態度、技術を教育するといふ任務がある。この二つは、根本的に云って別のものではないが、実用的意義目的を離れても、自己表現の態度、技能の教育といふものの意義を過少評価してはならない。
 今日、表現されたものを受容する機会とか量といふものは、新聞、ラジオ、テレビ、その他の出版物によって無限といってもよいほどである。また、その受容の方法に関する教育も、それに即応して進歩発展してゐる。ところが、自己を表現する機会といふものは、それに比較して極めて少ない。少ないわけではなく、社会は、自己を表現することを要求することが、従前に比して多くなったにも拘はらず、適切な表現の方法の教育が普及してゐないために、表現に対して臆病になったり、消極的になったりするか、あるいは無軌道的になったり無責任になったりするからである。これは社会生活上、一つの大きな問題である。
 我々の日常生活における行為には、常に一定の制約と基準とがあるやうに、言語行為の一つである表現行為にも、一定の制約と基準があるのは当然であって、望ましい表現といふのは、決して思想感情の奔放な爆発的表出を意味するのでもなければ、内部にこれを抑圧して最小限度に表出することを意味するのでもないはずである。言語の受容に属する読解については、その方法がやかましく論ぜられてゐるにも拘はらず、表現である作文に、方法が論ぜられることが少なく、むしろ、方法を云々することが、自由な表現の流露を抑圧するものであるかのやうな考へ方が一般にあつて、思ったままを書けば、望ましい文章が成立するかのやうに考へられてゐるのである。方法が、表現を抑圧するのではなく、方法が与へられないために、却って表現が萎縮してしまふ面も考へられるのである。読解においては、読者は、当の読み物に対して、気が向かなければ、いい加減に読み流すことも許されるし、興味があるところだけを拾ひ読みしても済まされる。表現においては、読書の場合と異なり、表現者の能動的、積極的な活動なくしては成就しないために、方法技能の要求される度合といふものは、読解の場合以上に大きいと見るべきであり、またそのことが、表現を億劫がらせる理由ともなつてゐると見るべきであらう。作文教育といふのは、要するに、文章の作り方、思想を文章に纏め上げる仕方の教育を意味するものと考へたい。児童生徒に、文章を作る経験の機会を与へることだけを、作文教育とは考へたくないのである。世に非行少年と呼ばれる子どもたちが問題にされることがある。非行に導く原因は、種々あるであらうが、これらの子どもたちは。あるいは、自己を表現する方法技能を心得ないために、またその方法技能を教育されてゐないために、外界の剌激に対して、無反省に爆発的に反応するところから出て来ることではないであらうか。非行少年に、自己表現の方法と技能とを教育することに、重要な意義があるやうに、作文教育には、人間形成の重要な任務が課せられてゐると見ることが出来るのである。文章制作において、方法を教育することを軽視したり、あるいはそれが欠如してゐることから、生徒も教師も、作文の題材を重視し、取上げられた異常体験や、異常興奮、霊感といふやうなものによって、作文の評価を下してしまふ惧れが生ずるのである。先年青森県下のいか(烏賊)釣の漁村生活の悲惨な状況を描いた作品が、入賞して話題をまいた話を聞いたが、もしこれが、題材の故に評価されたとしたならば、そしてそれが作文教育の基準を示したものとして受取られたとしたならば、それは、作文教育にとって、必ずしも幸福なこととは云へないのではないか。読解指導においては、読書の対象といふものは、決して児童生徒の自由や好惡にまかされてゐるのではない。何でも読めるやうにすることが、教育の目標として考へられてゐる。それならば、作文においても、子どもたちの好悪を離れて、どのやうな題材でも、これを文章に表現することが要求されて然るべきである。思ふまま、見たままを書くといっても、思ふまま、見たままといふ意識状態は、一般には混沌としたものであって、それがそのまま容易に文章に表現されるとは限らない。もつれた糸屑のやうな渾沌を糸巻にとるには、まづ最初に、いとぐち(緒)を見出す方法が教へられなければならない。代数や幾何が、頭脳の論理的訓練のために課せられるやうに、作文は、もつれた渾沌を整然とした表現にまで持ち来す表現訓練の学科として位置づけてよいのではないか。もし子どもたちが、渾沌から糸口を見出す方法が教へられて、どのやうに複雑で、入組んだ素材でも、文章に表現することが出来るといふ自信を獲得したとしたならば、それは、よい作文を制作し得たことよりも、子どもたちにとって、大きな喜びに違ひないのである。
 昭和三十年より三十五年に至る、小・中・高の学習指導要領の改訂によって、作文教育の必要性が、うたはれて、中学校においては、
書くことのうち、作文を主とする学習は、計画的に指導し、各学年とも、年間最低授業時数の1/10以上をこれに充てるようにする。
また、高等学校においては、「現代国語」の中で、
作文を主とする学習には、各学年とも年間授業時数の2/10以上を充てるものとし、
と、授業時数を明かに規定した。これに対する現場の教師の反応は、作文教育の必要性は認められるとしても、担当教師の負担の点から、恐らく有名無実に終るのではないかといふ危惧が述べられたことである。このやうな悲観論が出て来る根底には、作文教育の実施方法については、従前の方法即ち児童生徒に作品を提出させて、教師がこれに対して訂正を加へ批評をして返すといふ方法が考へられてゐりのであって、作文教育の、更に有効適切な方法はどのやうなものであるかについて、再検討を加へるべきであるといふ意見は、極めて稀であったのである。従来の方法に従ふならば、作文教育は、教師対生徒の一対一の関係で成立するのであるから、受持生徒数だけ教師の負担が倍加されるわけである。更にそれに加へて、経験主義の立場からは、
その場の必要に応じて、すぐ正しい文が作れるためには、創作活動をじゆうぶんにして、絶えず、文を書く習慣をつけておくことが有効であるが、実際書かなければならない場に立たせて、いくたびも実際的経験を与えることがいっそう効果がある(昭和二十六年改訂版「学習指導要領」第二章中学校の国語科の計画、四「書くこと」六十頁)
と多作を作文力向上の唯一の方法として勧め、
小学校のころと違って、読む相手、文を書く目的もはっきりしているはずであるから、その目あてに従って注意深く筆を進めていくうちに、右のような力が自然に伸びていく(同上書六十一頁)。
のやうに、文章制作の技能は、児童生徒に、作文の実作の経験を与へることによって、自然に伸びて行くものであるとすることになると、そこでは、経験が方法に優先することになり、その結果、多くの教師は、成績の処理に窮して、作文を作らせることを回避するといふ全く矛盾した事態に立至るといふことも無理からぬことであったといはなければならない。ところが従来とられて来たこの方法は、個人指導に類するものであって、何百人かの患者を、個々に診察して処置することを義務づけられてゐる医師の立場と同じになる。医師の場合ならば、助手とか看護婦とかが、ある部分を分担して医師を助けることも可能であるが、教師の場合には、全部を自分で引受けねばならないのである。ここに作文教育上の大きな障壁が横たはってゐるのである。既に第三章第四項にも述べたやうに、近代学校教育における教室は、児童生徒の相互教育を立前とする集団教育の性格を持つものであるから、作文教育も、当然、この集団教育の線に乗せて行かなければ、その効果を発揮することが出来ない道理である。假人教育的であった作文教育を、集団教育に切替へるにはどうすればよいか。これが今後の作文教育に課せられた重要な課題の一つである。
 従来の個人教授的指導法である批評添削といふことが、作文といふものの性質上、止むを得ない方法であるとしても、それらはすべて事後の処理に属することであって、文章を生み出すことの教育は、それとは全く別のものであることに留意する必要がある。どのやうにして文章を制作するかについては、全く児童生徒にまかされてゐたのであるから、作品に批評添削を加へるといっても、それは正しい意味での評価とはいへないものである。評価といふことが成立するためには、その前提として、先づ教育が先行しなければならないのは当然である。要するに、文章を生み出す方法の教育を、集団教育の線に乗せるにはどのやうにしたならばよいかといふことになるのであるが、その前に、最初に課題として提出した第二の問題、文章表現そのものの性格、あるいは成立過程を明かにすることが作文教育の基礎である所以を明かにして置きたい。
 作文の方法を規定するものは、文章といふものの性質であって、文章の性質を離れて、文章の方法を考へることは出来ない。文章の性質を研究する学問は、「文章研究」とか「文章学」とかいはれるものであって、ここに作文の方法と、文章研究との交渉が生まれることになるのである(『文章研究序説』昭和三十五年九月、山田書院刊)。
 従来、作文といふものの、個性的な面を、過大視したために、方法といふものを振りかざすことは、児童生徒の自由な表現活動を抑圧し、それに干渉することになると考へられたのであらうが、それは、模範文例集の型をなぞることを、唯一の方法と考へてゐた旧式の作文教育法に対する反動的な作文観と見るべきで、方法を撤去するところに、個性的なものが生まれれて来るかといふのに、必ずしもさうは云へない。文章の方法は、文章表現の原理に従ふことであって、その原理が明かにされることによって、ここに、作文教育の計画性、系統性といふことも明かにされることになるのである。
 拙著『文章研究序説』に従ふならば、文章表現は、いついかなる場合においても、時間的継起の形において成立するものである(同上書第二篇各論第一章一「文章の表現形式の特異性」)。これは、絵画が、空間的に同時的存在として成立するのと対照的で、その形式は音楽に近く、文章は、時間的流動の形においてしか全体を把握することが出来ない。この文章の性格に対応する文章の把握の仕方が、「読む」といふ時間的な活動であって、絵画の全体を、一瞥して眼底に捉へる「見る」といふ活動が、瞬間的一時的であることに対立してゐる。作文は、この文章の根本的性格に従ふことによってのみ可能であると同時に、表現の素材・題材の性質も、この文章表現の根本的性格に対応するか否かによって、表現に難易が出て来る。表現の性質が、時間的継起的であるところから、時間的継起的である事件や作業の連続のやうなものは、文章表現に比較的乗せ易いのであるが、同時的存在である風景や建築物のやうなものになると、これをそのまま文章表現に乗せることが困難になり、何を最初に書くべきかといふことが、方法の問題として重要になって来る。換言すれば、素材・題材と表現とが、直接に結付かず、その中間に、題材や素材の改編、組替へといふ高度の作業を挿挾むことが必要になって来る(同上書第二篇第一章四「言語の素材と文章」)。例へば、「私の町」といふやうな題材を取上げて説明文を書く時のことを考へれば、容易にそれが理解されるであらう。「町」そのものが、同時的存在のものであるために、これを時間的継起的の文章に乗せる時に、何から先づ書くべきかが問題になり、それを改編し組替へるにも種々な方法や順序が可能とされるわけである。
 方法が要求されるのは、そればかりではない。表現者の心の内に釀成される感動や情緒のやうなものは、これを表現したい意欲が強烈な割に、その意識の状態を具体的に捉へることは、表現者自身でも困難な場合が多い。漱石が『草枕』の中で。
何とも知れぬ四辺の風光にわが心を奪はれて、わが心を奪へるは那物ぞとも明瞭に意識せぬ場合がある。
といったり、
わが唐木の机に憑りてぽかんとした心裡の状態。
といってゐるやうな場合である。たとへ、これらの心境をいひ表はすに最も適当した語を見出し得たとしても、それによって、相手が、これらの情景と心境を具体的に想起して呉れるか否かは分らない。これらの場合には、一般には、「わが心を奪へるもの」を外界に追及して、
外界を描くことによって、間接的に、わが心裏の状態を伝達するといふ方法がとられるのであるが、もしこの場合、思ったままを文に綴れば、文章が出来ると突き放されたのでは、この表現者は全く救はれないことになるのである。
 文章は、時間的継起的な形式において、成立する表現であるから。それは、表現される素材や材料の組合はせや構成によって成立するものではなく、表現の出発点である「冒頭」や、「書出し」の展開において成立するものであることは、これを作文の方法として考へるならば、文章を生み出す根源として、冒頭をどのやうに置き、書出しをどのやうに始めるかといふことになる(同上書第二篇各論第一(二)(三)(四))。
 作文教育で、更に一の重要な点は、表現の相手をどのやうに意識させるかといふことである。言語過程説では、表現の相手を、「場面」といふ語で表はし、これを言語の成立条件の一に数へてゐる。表現には、必ずそれを受容する相手があるのであるが、表現者と相手との関係は、決して単純ではなく、その多様性から、文章の種類即ちジャンルが規定されて来る。相手が特定個人であるか、一般者であるかの相違によって、ジャンルが分れる。手紙を書く場合と、報告や記録や論文を書く場合の相違である。次に表現者と相手との間にどのやうな関係を作るか、その作られる関係の相違によって、ジャンルが分れる。表現者が、相手を、ただ自分の思想の同調者の位置に置かうとするか、被説得者の位置に立たせようとするか、相手を行動に駆立てようとするか、あるいは、相手を殆ど意識せず、表現者がただ表現の満足を求めて表現しようとするか等等によって、学習指導要領の中に示されてゐる通信文、記録文、説明文、報告文、論説文、感想文、感動文等の言語活動諸領域が分れる。前にも述べたことであるが。改訂指導要領では、これらを、ただ基礎技能を指導する場として、位置付けてゐるに過ぎないのであるが、実は、これらのものを、単に学習の場と見るべきでなく、作文教育の内容と見なければならないものである。即ち作文教育を具体化するならば、それは、通信文の書き方、論説文の書き方、感想文の書き方等のやうになるべきもので、その方法技術の根源は、児童生徒に相手をどのやうに意識させるか、相手との間にどのやうな関係を構成させるか、要するに表現における姿勢を教育することになるのである。
 以上は、文章表現の原理的性格の一端を挙げただけであるが、同時にそれは、文章制作の最も重要な方法と考へらるべきものである。文章を生み出すについての以上のやうな問題点は、教室における生徒相互の討議により、意見の持寄りによって、決定し、展開さすことが可能である。これが、真に文章を生み出す作文の教育であって、原稿用紙に作品を纏め上げるといふことは、それに比較して二の次の問題であるといってよい。方法のない習作は、目的を考へない旅立ちと同様に、結果を実り多いものにする所以でないと考へるのである。重ねていふならば、事後の処理に属する、作品の批評、添削、推考といふ教師の作業と、文章を生み出す作業とは別であって、作文教育で大切なことは、無より有に、渾沌より形成に児童生徒を導くことであり、児童生徒の実践的活動を教育することである。