時枝誠記「文学に於ける言語の諸問題」

 本稿は昭和二十二年六月七日、東大国語国文学会で行つた講演の草稿に基いて、これを雑誌に掲載するにふさはしい体裁に改めたものである。この講演は、次のやうなまへおきを以て始められてゐる。
 「ここに掲げたやうな題目につきましては、恐らく哲学上の問題としましても、或は美学上の問題としましても、更に高遠な理論や、更に興味ある内容が述べられることでありませうが、私は今日そのやうなことをお話するつもりではありません。また私はそれだけの素養を持ち合はせてをりません。仮に私にさういふ高尚なお話が出来るとしましても、我々国文学や国語学の研究にたづさはる者として、第一にしなければならない事は、そのやうな人様の立派な理論を拝借して、我が店を飾ることではなくして、先づ私達の学問に横はつてゐる極めて卑近な、又極めて身近かな問題から整理してかゝることでなければならないと思ひます。そして我々の力に余つたことを哲学者なり、美学者なりに考へていただくといふことでなければならないと思ひます。従つて今日お話しようと思ひますことは、或は一般の方々には既に扱ひ古されたか、或は自明の事柄であるかも分らないのでありますが、私は先づその辺から出発したいと考へてをります。」
 今日我々の国文学(日本文学を対象とする学問)については、再建を要するといふ声や、従来の方向を是正して行かなければならないといふ声や、全然新しく礎石から建設して行かなければならないといふ声等が起つてゐるやうであり、既にそれらの設計図のいくつかが、先見の明ある人々によつて発表されてゐるやうであるが、それらの改築、増築、再建等々の案の何れが正しいかは、正直のところ私にはよく分らない。それを明かにするには、我々の学問が、一体崩壊してしまつたのやら、歪んでをるのやら、又は朽ち果ててしまつたのやら、そして又そのやうになつたのは何処に原因があり、弱点があつたかがはつきりさせられなければならないのであるが、それはさておき、我々の学問の根柢に何等かの疑問が投ぜられてゐるといふことだけは否定することが出来ないことであらうと思ふ。このやうな疑問は、時代が大きく回転する時には、いつも起り得ることであつて、必しも今日に限つた特別の現象でないことは明かなことである。ただかういふ機会を捉へて、物事を根本に遡つて考へ直して行くこと、自明のことと考へられて来たことをもう一度改めて確認して行くといふ態度が極めて大切であり、それによつて我々の学問が混沌を脱して、更に大きく発展して行くよい機会とすることも出来るのであらうと思ふ。今日我々が考へねばならない国文学上の根本間題はいろいろあると思ふのであるが、私はまへおきの趣旨に従つて、先づ極めて卑近な問題から整理して見ようと思ふのである。


 第一に問題にしたいことは、今日我々は常識的にではあるかも知れないが、国語学(日本語学)と国文学(日本文芸学)とを並べて考へ、又そのやうに呼びならはしてゐる。我々の研究室は国語国文学の研究室であり、我々の学界の機関誌は「国語と国文学」或は「国語・国文」と呼ばれてゐる。国文学が、国史学や日本美術史などと結合されてゐないで、国語学と結合されてゐることに何か深い意味か必然性があるのであらうか。人によつては、このやうな結合は、明治以来の便宜的な制度に基くものであるから、もつと合理的には、国文学はフランス文学、英文学等と共に、文芸学に所属させ、国語学はフランス語学、英語学等と共に言語学に所属させるのがよいと考へてゐるやうである。さうすることによつて、国文学、国語学はもつと独自の発展を期することが出来るのではないかと考へられてゐる。
 処で今日国語学と国文学とが、制度的にも、又研究の実際に於いても、密接な関係があると考へられてゐることは、必しも制度や組織の上からだけ出たものと考へられない点がある。もつと実際的な具体的な事情があることも忘れてはならないことである。それはこの両者の学問が、ともに近世国学の中に胚胎しそして成長して来たといふことである。ただしこの両者の関係は並列の関係ではなく、国語学は国文学の研究対象である文芸作品の解釈に役立ち、又文芸的創作に必要な国語の基礎的知識を供給するといふ意味で、国語学は、国文学にとつて、いはば温良貞淑な妻としての役割を果して来た。このことは、近世の国語学者自身がそのやうに自覚してゐたことなのであつて、私の勝手な臆測ではないのである。
 このやうな事情があつたがために、明治になつて、国文学と国語学とは、二つの学科でありながら一つの単位として取扱はれ、研究の分野に於いても切離せない密接な関係があるものと考へられて今日に至つたものである。しかしながら、国文学と国語学とが、それぞれ独自の学問的使命と目標とを自覚するにつれて、この両者は全く別の方向を目指して進むやうになつて来た。これは必しも悪い意味での割拠主義に基いたものと考へるべきことではなく、相互の学問的自覚から必然的に起つて来たことと考へてよいことであらうと思ふ。これを国語学について云へば、例へば国語の系図を明かにしようとする国語系統論や国語の歴史的研究の如きに見ても明かなやうに、それはもはや日本文芸の研究とは何のゆかりもないものとなつて来た。国語学は昔のやうに国文学の貞淑な妻として或は忠実な家僕としてのみは止ることが出来なくなつて来た。勿論その間に、故橋本博士の上代特殊仮名遺の研究が、古事記や万葉集等の解釈や本文批判に大きな貢献をしたことや、多くの文法研究家の業績が、日本文芸の研究に寄与したことは忘れてならないことではあるが、さりとてそれを以て明治以後の国語学の正統であるとは云ふことが出来ないのである。次にこれを国文学の側から見ても、文芸の研究への国語学的研究の関与を、ことさらに拒否しないまでも、文芸の本格的研究は、言語研究のうかがひ知らざるところに存するものと考へ、言語研究は、古語の知識を必要とする古典的作品に於いてはいざ知らず、少くとも現代文学の研究に於いては一応これを括弧に入れて置いて差支へないと考へるやうになつて来たと見てもさして間違ひはないと思ふのである。


 このやうな学問的自覚を肯定する限りに於いて、今日のこの学問の結合は、全く便宜的なものと考へられるであらう。事実国学的意味に於ける国語学の国文学に対する関係は、ただこの二つの学問相互の間ばかりでなく、今日凡そ日本の古文献を資料とする国史学、日本社会学、日本倫理学、日本法制史、日本経済学等の基礎学として、それらに必要な文献の解釈のために、国語学は寄与しなければならない義務が生ずるのである。して見れば、国語学は国文学と結合されるばかりでなく、右に挙げたやうな諸学科とも結び付かなければならない筈である。このことは又国文学の側に於いても、国語学との結び付きを斥けて、それとは別に、美学や心理学と、或は国史学や社会学と結びつくことの方に合理性があるとも考へられるであらう。   '
 以上私は長々と国文学と国語学との関係を述べてここに至つたのであるが、私の最初の目的は、何も学問分野の合理的な廃合を目指してゐるのではなく、むしろ学問の分野組織を通して、それらの学問の対象とする事柄──ここでは日本語と日本文芸──について両者の関係がどのやうになつてゐるかを明かにしたかつたのである。我々の学問の結合に若し何か必然性があるとするならば、それは両者の対象相互の関係に於いて必然性が認められなければならないのである。そこから再び学問の体系について考へて行くことがむしろ正しい順序であるかも知れない。私が今まで述べて来たことは、どちらかと云へば、研究の手続きの点からのみ考察されて来たことなのであつた。


 近世の国学的意味に於ける国文学と国語学との関係が、今日殆どその意義の半ばを失つたことは既に述べた。このことは、現代文が、国語教育の主要な教材として、取入れられるやうになつた時、古典的教材に対すると同様な国語学的操作をここに持込まうとして、その無力と無意義とが痛感せられたことによつて明かである。更に進んで、そのやうな訓詁註釈的方法は、古典に対する場合でも、必しも正しい方法でないといふことが云はれるやうになり、いはゆるセンテンス・メソッドはこのやうにして主張されるやうになつて来た。国文学への国語学の関与には、自ら限界があつたのである。かういふところから、国文学は自然国語学を疎んずるやうになつたのであるが、一方又そこは国語学が国文学に対する自己の立場を認識しなかつたことから来る国語学の無力、貧困にもよることであつたのである。しかしながらこのやうな結果は、既に述べたやうに、この両者の方法論上の関係から見たことである。若し問題を、方法論から対象相互の関係へ移した場合、即ち問題を日本語と日本文芸との関係に移した時、そこにはどのやうな問題が見出せるであらうか。
 日本語と日本文芸との関係、これを一般的に云つて、言語と文芸との関係については、既に多くの学説や見解が発表せられてゐるのであるが、この両者の関係についての考方に従つて、文芸の本質に関する見解も種々に分れて来る。概括して云ふならば、それらの見解は、言語は文芸を媒介するものであるといふ点に於いて一致してゐる。しかしその媒介の意義に於いて幾分相違するところがあるのであるが、その僅かの相違点が文芸の本質を考へる上に極めて大切なことのやうである。元来言語が文芸の媒材であるといふ時、媒材といふ概念そのものが比喩として用ゐられて居るのであつて、もし問題をここに止めて置くならば、実は事実は少しも説明せられたことにはならないのである。そこで以下その媒材としての言語と文芸との関係についての見解を検討して見ようと思ふ。
 その一──絵画や彫刻に於ける素材としての絵具や木材、石材、ブロンズ等と同様な意味で、言語を文芸に於ける素材としてこれを媒材と呼ぶのである。これら素材或は媒材は、ともに作者の芸術的形象を享受者に媒介する可視的可聴的なものとして考へられ、同時に絵画や彫刻に於ける索材が、絵画や彫刻とは別の世界のものであると同様に、言語も文芸の外の世界のものと考へるのである。ここでは、言語は文芸に於いて、いはば借物である。あたかも人に於ける衣裳のやうなものであつて、重要な点は、それらの衣裳が、その人の身分や品位を決定するやうに、日本語の特質は自ら日本文芸に特殊なトーンを附与するといふことである。英詩は英語の特質に制約され、漢詩は支那語の特質によつて規定され、言語の特質に制約されない文芸は、ただ抽象的にしか考へることが出来ないのである。しかしながら、もともと文芸にとつて言語は借物であるとするのであるから、言語を文芸の本質的領域のものとすることは出来ないのである。「詩人は最も多くの語彙の所有者でなければならない」などと云はれるのは、この見地に於いてである。このやうな見地に於いては、文芸の学と言語の学とは全く別個の存在として、相互に他を顧みる必要はないのである。言語が文芸に於いて問題になるのは、言語が文芸の中に持込まれた時だけである。問題は言語の持込み方であり、運用法である。
 その二──文芸を媒介する言語を、文芸の外にあるものとは考へず、文芸の重要な構成要素と見る考方である。あたかも汽車の車輌に取付けてある、そしてそれは車輛の一要素と考へられる連結機によつて、二つの車が結合されるやうに、文芸の構成要素である言語によつて、それが表現せられ、又享受せられるとするのである。この考方に於いては、言語は、文芸に於ける思想とか、精神とか、題材とかいふものと同列に文芸の構成要素の一と考へられてゐる。又久松博士のやうに、文芸に於ける言語を、文芸に於ける文学性、民族性、歴史性、風土性などと共に、言語性として文芸の一の性格のやうに見る立場もある(国文学通論)。これらの考方に於いては、いかに言語が文芸を媒介する重要な要素であるにしても、結局それは文芸の一構成要素に過ぎないものであり、又文芸の理解鑑賞の契機としか考へられないものである。文芸研究の主題が、作家の題材に対する詩的感動や観点に向けられたり、更に作家の文芸活動以前の人生観、社会観、自然観、恋愛観等に向けられ勝ちになるのは、このやうな文芸を構成体と見る考方の必然的な結論である。最近数年間に於ける我が国文学界の一の傾向として、日本文芸を通して、日本精神を把握することが、国文学の重要な目的であるといふ風に主張されて、一般から国学的国文学或は国学的文芸学──この名称は全く矛盾した概念の結合なのであるが──と呼ばれるやうになつたが、国文学のこのやうな偏向も、基くところは、文芸を右述べたやうに構成的に見るところから来るのであらうと思ふ。このやうな考方に従ふならば、文芸研究は必然的にその内容とする要素要素の学に分裂し、国語学も亦従つて国文学の一領域を占めることとなるのであるが、このやうにしては、文芸学独自の領域といふものは求めることが出来ないこととなるのである。この場合の国語学の国文学に対する関係は、これを国学に於ける両者の関係に比較するならば、明かになるのであつて、国学に於ける国語学は、あくまでも文献解釈のための基礎的研究であり、方法論的階梯の役割を占めてゐたのであるが、この場合には、国語学は国文学の一翼を荷ふものとしての位置を占めることとなるのである。
 その三──は、もはや言語を文芸の媒材であるといふにはふさはしくない考方かも知れないのであるが、文芸を以て言語そのものであるとする考方が存在し得るのである。私の今日の講演も、率直にいへば、文芸をこのやうに規定することについて述べたいためであつたのである。文芸をこのやうに規定するためには、或いは多分の勇気を必要とするかも知れない。しかし最も素直な気持を以て文芸に対した場合、文芸は、我々の科学的論文や、新聞の記事や、商業上の通信や、若き男女の熱情を以てする恋文等と同様に、具体的な言語表現以外の何ものでもないことを知るのである。この考方は、文芸を枢軸として、そこに言語を考へて行かうとする立場をひつくりかへして、逆に言語を枢軸としてそこに文芸を考へて行かうとする立場をつくることである。この考方を明かにするために、文芸は言語を地盤とするといふ風に説明しても、このやうな云ひ表はし方は、なほ恐らく誤解を招くかも知れないのである。なぜならば、文芸は言語といふ地盤の上に建設せられる、言語とは別個のなにものかであるといふ風に受取られるからである。もし極めて比喩的な云ひ方が許されるならば、文芸は、「言語の匂ひゆく姿」であるとでも云ふべきではなからうか。文芸は言語にブラス或るものではなくして、言語の爆発する力であり、言語の流れる姿である。川の流れには、溝河もあり、渓流もあり、大河の流れもある。文芸はこのやうな川の流れの一つの姿である。このやうな文芸に対する考方は、今日文芸を意味するに用ゐられるLiteratureといふ語が、起源的には文字によつて書かれた文献を意味し、更にそのやうな文献の中の特殊な価値あるものを意味するやうになり、三転して文芸の意味に限定されるやうになつた歴史的事実によつてもこれを知ることが出来るのである。文芸とは、このやうな言語の中から、或る基準に従つて選び出された特殊な言語である。ここに言語の中から文芸的なものを選び出す或る基準といふものが問題になるのであらうが、このことこそ文芸について考へる場合の最初の、又最も根本的な問題でなければならないのである。しかし一般には、国文学の対象である文芸作品の範囲については極めて暢気に取扱はれ、それが文芸作品として選び出された理由についても、方法についても殆ど疑はれることなく過ぎてゐる。今日文芸作品に対して新しい価値批判の尺度を持ち、最も進歩的であると自任する研究者の側に於いてすら、右のやうな問題については不思議なほど無関心であるのは、結局最も平凡な事実を確認してかゝるといふ態度に、欠けるところがあるのであらうと思ふ。


 文芸に於ける言語の位置を以上のやうに考へ、文芸は畢竟するに言語であると規定することは、決して珍らしい考方ではないのである。しかも何故に私が事新しくこのやうな問題を取り上げたかと云ふならば、我々にとつて大切なことは、このやうな事実を確認することに意義があるのではなく、文芸研究をこの確認の上に発展させて行かなければならないところにあるのである。それ故にこそこの既定の事実を今改めて確認するといふ手数を踏んだのである。
 右の確認に基いて、第一に推論されることは、文芸の基本的な原理は、これを言語の原理に帰着させることが出来るであらうし又帰着させねばならないといふことである。文芸が、その素材を表現する時、換言すれば、素材を言語によつて文芸的に表現する時、その表現そのものは、一般の言語表現の原理に従はなければならない。又文芸が受容者によつて理解され、鑑賞されるについては、同様にその原理は言語の理解の原理に従はなければならないのは当然である。例へば、ここに雷雨の光景を言語に於いて表現しようといふ場合、この素材は、音響と色彩を以て構成されてゐる空間的現象であるにも拘はらず、これを線条的な概念的な言語によつて表現することはどうして可能であるのか、又その手続はどうすればよいのであらうかといふことが究明されなければならない。この問題は、文芸的表現ばかりでなく、他の言語的表現にも一般に通ずる問題である。勿論文芸研究者の問題は、このやうな言語的表現が芸術的性質を帯びて来る時に始めて問題になるのであつて、文芸研究者が、このやうな言語の一般原理までをも研究しなければならない義務も貴任もないことは明かである。それ故にこそ、文芸研究者は、このやうな基本的な問題に関する研究を言語学者の責任として求めるのである。
 又別の問題を提出して見るならば、文芸は言語であると云つても、それは自然科学の論文が自然現象に関する知識を与へたり、新閲の三面記事が、社会に起つた事件を知らせたり、悶々の情を告白して相手の同情を求めたりするやうな、他に別個の目的を持つて表現せられる場合と異り、表現それ自身を目的とするものであると云はれるならば、文芸研究者の問題は、表現そのものに於ける「楽しみ」「なぐさみ」の如何なるものであるかといふ点にかかつてゐる。この場合にでも、文芸研究者は、その基本的な問題として、言語による素材の伝達と、言語それ自身の享受といふ二つの全く異つた機能が言語に存することを原理的に研究することを言語学者に求めるであらう。もし、言語に手段的であることの機能と、表現それ自身を目的とするところの機能とが存在しない限り、文芸的表現を他の言語表現から区別する根拠を失ふからである。
 更に又一つの問題を提供してみよう。我が国には、いはゆる国文学史の中に系統づけられてゐる国語の文芸作品の外に、日本漢文と呼ばれてゐる別個の文芸作品の系譜が存在する。奈良時代の懐風藻を始めとして、平安初期の漢詩文、五山文学、江戸期の漢詩文等がそれであるが、これらの作品を、国文学史と同列に扱ふべきであるか、或は別個のものとして差別を設けるべきであるかは、考へるべき一つの大きな問題である。芳賀矢一博士は、漢詩文の作者の
性格・境遇・思想などより見て、これらは当然国文学史の中に入れるべきであると主張されてゐる(日本漢文学史二頁)。勿論、博士のこのやうに主張される根拠には、これらを除いては、日本国或は日本国民の思想について研究することが出来ないといふ国学的立場に立つてゐるのであるから、厳密に日本文芸の作品を規定する立揚として批判することは或は当を得てゐないかも知れない。ここでは、日本文芸の範囲を厳密に規定するにはどうすればよいかと云ふことが問題になつて来るのである。ここで再び最初の出発点に立返るならば、日本文芸は日本語で書かれたものでなくてはならないといふことにある。そこで日本人制作の漢詩文が日本語と云ひ得るかどうか。又それが日本語と云ひ得たとしても純粋な日本文芸の作品といかに区別されなければならないかの点が明かにされなければならない。これ亦国文学者は言語の問題として言語学者に呼びかけるであらう。
 右のやうな場合とは逆の例は、翻訳文芸である。翻訳文学の文学的価値は、原著の文芸的価値にあるのでなく、もし文芸的価値があるとするならば、それは翻訳語から生ずる新らたな価値でなければならない。又仮にそれらの翻訳に文芸的価値があつた場合にでも、これを固有の文芸の中に、同じ価値に於いて系譜を作り得るかどうかと云ふことは、常識的に見ても疑問である。この問題も、結局翻訳言語と固有言語との関係をどういふ風に見たならばよいかと云ふ言語上の問題に帰着させることが出来るであらう。一般に外国語の表現を国語の表現に改めるには、外国語に於けるものの考へ方、感じ方の根本を、国語のそれに改めるか、或は国語に於けるものの考へ方感じ方を外国語のそれに接近さすかいづれかの方法をとらない限り、外国言語の翻訳は不可能であらう。少くとも外国言語の芸術性を移植さすことは困難である。その点絵画や音楽の移植と根本的に異るところであらう。常に外国文化の摂取に、異常な傾倒を示す我が国畏性として、国語の歴史は、むしろ国語的表現を外国語的表現に接近させようとする努力の跡を著しく示してゐる。鎌倉時代に盛んになつた和漢混淆文、明治初期の通行文体であつた漢文訓読式の普通文、明治後半期の言文一致の運動を見てもこれを知ることが出来る。このやうな国語の地盤の整理なくしては、優れた外国語の翻訳は不可能と見られるのである。それは要するに、文芸作品に於いて、言語は単なる媒介物ではなく、文芸即ち言語であるといふ文芸の本質的性格の然らしめるところであると思ふ。
 文芸は言語であると規定するところから、文芸研究が言語研究に呼びかけ、又求めるところの問題は、恐らく右に尽きるものではないと思ふのであるが、今はただその一端を挙げたに過ぎない。そして私の講演は、次のやうな言葉を以て終るのである。
 「私は一国文学の学徒として、現代の国文学の反省に基いて、国文学をその正しい地盤の上に建設する一の方法として、国文学者は、何よりも先づ国語学者に呼びかけねばならないことを述べて参りました。そして、国文学の建設のために、国語学者の責任に於いて解決せねばならない問題のいくつかを、示して見たのであります。しかしながら、それは国文学者の希望であり、期待でありまして、このやうな要求に対して、国語学者が現代の水準を以てこれに応ずることが出来るかどうか、ここに国語学の側の深い反省と、批判と将来に対する努力が必要になつて来るのではないかと思ひます。国語学は国語学としての独自の問題を持つべきでせうが、このやうな他からの要求に応じて、自己の問題を再検討して行くといふことは、国語学の健全な発展成長のためにも極めて必要なことであらうと思ひます。」                             (昭和二十二年六月十九日)


『国語と国文学』24巻8号

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最終更新:2019年12月05日 18:49