時枝誠記「言語における主体的なもの」

はしがき

 誰でも経験することであるが、疲れたやうな場合、「ここにお掛け下さい。」と人が云つてくれた言葉に対して、この言葉の伝達する勧誘の意味以外に、その人の好意に対して、感謝の気持ちを感ずることがある。たとへ、その言葉が単なるお世辞に過ぎないと分つてゐる時でも、そのやうな言葉をかけられることに、喜びを感ずるものである。このやうな伝達の事実、ある意味においては、伝達以上の人間的交渉の事実を、言語学的には、どのやうに説明したならばよいかといふことが、本稿の主要な題目である。私は、そのやうな相手の好意、そしてこのやうな言葉を受取つて感ずる感謝の気持ちを、この言葉における主体的なものとして把握したのである。
 一般に、言語は話手の思想感情を表現するものであると云はれてゐるが、その時の話手の思想感情とは、話手において表現の内容とされる客体的なものを云つてゐるのであつて、言語における主体的なものとは、そのやうな客体的な思想感情を云ふのではなく、このやうな思想感情の表現を支へ、これを規制するやうな話手の意識を云ふのである。例へば、画家がある風景を描いた場合、その風景は、描かれる客体であるが、このやうな絵の成立する根底には、このやうな風景を描かうとする画家自身の表現意欲を想定することが必要である。この表現意欲の如きは、描かれた絵に対して、画家の主体的なものであると云ふことが出来るであらう。そしてこの表現意欲の強弱は、描かれた絵に何等かの形でそれ自身を表現するに違ひないのである。その絵について、迫力があるかどうかを問題にするやうな場合で、画家と鑑賞者が相交渉するのは、描かれた題材よりも、その画面に漂ふ作者の主体的なものを媒介とするのである。画面を通して、このやうな事実を問題にすることは、絵における主体的なものを問題にすることに他ならないのである。
 右のやうな事実と、その探求とは、言語の場合にも、また、云はれることである。それは、言語の伝達と、その社会的機能を考へる場合に、極めて重要な問題になつて来る。
 言語を、話手の思想感情を、音声、文字を媒介として外部に表出し、伝達する主体的な表現行為として見る言語過程説の立場においては、その表現行為の中、話手の思想感情を客体化し、概念化して表現するものを詞とし、話手の思想感情を、直接的に表現するものを辞として区別する。「まあ、うれしい。」といふ表現において、「まあ」も「うれしい」も、話手の感情を表現したものには違ひないが、「うれしい」は、その感情を、一つの客体として表現するのに対して、「まあ」は、その感情を主体的なるままに表現することにおいて、両者、全くその表現性を異にしてゐる。従つて、言語は、話手の思想感情を表現するものであるといふ説明のしかたは不精密であつて、重要な点は、思想感情の表現方法に二つの異なつた形式があるといふことである。辞は主体的なものの直接的表現として、最も純粋に主体的なものであるが、客体的表現である詞といへども、それが表現主体の所産であるかぎり、辞とは異なつた意味において主体的なものを表現してゐると見なければならない。詞と辞の区別は、文法学的見地から、語の範囲において、主体的なものの表現形式の相違を問題にしたのであるが、もし文法学的見地を離れて、言語全体について、その主体的なものが、どのやうに表現せられてゐるかといふことを問題にするならば、そこには、なほ、重要な問題が未解決のままに残されてゐるのではないかと考へられるのである。例へば、ある事柄を、率直に云ふか、婉曲に云ふかの選択は、ある種の主体的立場或は主体的態度の表現として成立するものと考へなくては、説明出来ないことである。
 言語は、常にある事柄を伝達する手段として行為されるものであるから、言語の表現する意味が、表現者にとつても、また、理解者にとつても重要であることは云ふまでもないことであるが、言語は、同時に話手の主体的立場を表現するものとして、それが、対人関係を構成する紐帯となるものであることは、日常の言語生活において屡々経験する著しい事実である。言語は、従つて、二重の機能を持つといふことが云へるのである。言語がある事柄を相手に伝へるといふ伝達機能の面は、従来でも注意されたことであるが、言語を通してする主体的なものの伝達、換言すれば、話手と聞手との人間的交渉が、事柄の伝達以上に言語において重要な機能であることは、ややもすれば、見失はれがちであつた。私はこれを言語における主体的なものの表現として把捉したのである。
 本稿は、主体的表現行為である言語において、その主体的なものが言語において如何に表現せられるか、また、そのやうな主体的なものの表現が、言語において、どのやうな役割を果してゐるかを追求しようとしたものである。
 このやうな問題は、言語を、表現主体と切離して、意味と音声との結合において見ようとする在来の言語学では、問題にならない事柄であるが、表現主体を、言語の必須の成立条件とする言語過程説では、最も基本的な問題となつて来るのである。

一 言語における客体的なものと主体的なもの

 在来の言語学の通念に従へば、言語は、音声(文字を含む)と意味との二つの要索より成り、意味は言語の内容であり、音声・文字は言語の外形であると考へられてゐる。一切の語は、右の二つの要素から成立つてゐることにおいて、皆一様であるとするのである。「山」「犬」「花」「流れる」「赤い」などの語と、「は」「が」「を」などの文法上助詞と云はれてゐる語との間には、本質的な区別は考へられない。ただ、前者の語の意味は具体的で、思ひ浮べやすいが、後者の語の意味は、抽象的で、思ひ浮べにくいといふ相違があるに過ぎないとするのである。
 ソシュール学説に従へば、これらの語は、すべて聴覚映像と概念との結合体であり、個人を超越した存在と考へるのであるから、語について、表現者を問題にする必要もなければ、また、従つて、客体的表現とか主体的表現といふ区別を考へることも出来ないわけである。しかるに、「はしがき」にも述べて置いたやうに、言語過程説においては、語を話手が自己の思想感情を外部に表出し、相手に伝達する表現行為と見るところから、語において、詞と辞の二を区別した。これを表示すれば、次のやうになる。
 言語・主体的表現行為 客体的概念的表現(詞)
            主体的直接的表現(辞)
右の表は、語は、その根本において、言語主体即ち話手の所産であることを示すと同時に、表現の内容について見れば、詞は、客体的なものを表現する語であるのに対して、辞は、主体的なものの直接表現であるとしたのである。我我は、辞或はてにをはと呼ばれるものが、純粋に主体的なものの表現であることを理解することは比較的容易である。しかしながら、詞について、そこに主体的なものが表現せられると見ることは、必ずしも容易ではない。何となれば、詞が表現するものは、第一に客体界である。それは、話手に対立する何かを指し表はしてゐるのである。詞が主体的なものを表現するといふことは、詞が客体的なものを表現すると同一次元において、主体的なものを表現してゐると見ることは出来ないのである。それは、あたかも、画家が画面に自画像を描いたが故に、主体的なものを表現してゐるとは云へないやうに、また、小説家が、小説の主人公を自己の分身として行動させてゐるが故に、主体的であると云へないと同じである。詞が主体的なものを表現する仕方は、詞において客体的なものを表現する、その表現の仕方において、主体的なものが滲透するのを云ふのである。例へば、同じ一つの事柄を、甲は「名誉」と考へ、乙はこれを「恥辱」と考へるのは、同一事柄に対する主体的立場の相違することを示すのであつて、それぞれの語は、異つた概念を示すと同時にそれぞれの主体的立場の相違することを示すのであつて、それぞれの語は、異つた概念を示すと同時に、それぞれの主体的立場を表現してゐるのである。聞手は、これらの語から、異なつた概念的知識を獲得すると同時に、甲乙に対して、あるいは厳粛感を、あるいは親近感を感じ取るのである。
 以上述べたことを、次のやうに概括してみようと思ふ。話手の表現しようとする思想感情を、客体的に表現されるものと主体的に表現されるものとに区別すれば、
 (一)客体的に表現されるもの
  イ 事柄自体が、本来客体的存在であるもの。例へば、「山」「梅」「走る」「高い」等
  ロ 第二人称、第三人称の思想感情は、客体的に表現される。例へば、「よろこび」 「たのしさ」「悲しむ」「さびしい」等
  ハ 話手の思想感情は、客体的に表現される場合もあり、主体的に表現される場合もある。前者の場合は(ロ)に同じ。例へば、
    私は、うれしい。
   後者の場合は、次の項の(イ)を参照。例へば、
    まあ、私はうれしい。
 (二) 主体的に表現されるもの
  イ 話手の感情、情緒、判断等。例へば、
    まあ、驚いた。
    明日は、きつと天気になるだらう。
   話手以外の者の感情情緒判断等は、必ず客体的に表現される(前項「ロ」を参照)。
    彼は驚いた。
    あなたは、それを否定した。
  ロ 話手の主観に属するものでも、それは必ずしも、語の形式を以つて表現されないで、零記号の形式で表現される。例へば、「私は行く」の「行く」には、肯定的陳述が想定されるが、それが語としては表現されてはゐない。また、用言の活用形の変化、あるいは抑揚によつて、表現されることがある。
  ハ 話手の主体的なものに属して、客体的表現を規制するものとして働く場合がある。語の選択、発音に対する注意、表現の論理的厳密さ等に現れるものである。例へば、一語一語、正確に蓑現するのは、聞手の理解といふことに対する顧慮の表現と見ることが出来る。
 以上は、主として、主体的なものが、語に表現される場合を考察したのであるが、その表現され方は、上に述べて来たやうに、必ずしも単一ではない。更に、これを、文或は文章について見るならば、問題は一層複雑である。例へば、一編の小説について見る場合、小説の題材となる人物の行動や、事件の推移は、作者から見れば、客体的なものの表現である。それに対する作者の批評は、客体的な表現に対する関係から云へば、作者の主体的なものの表現であつて、その次元を異にするものである。このやうな作者の主体的なものは、明瞭に言語の形をとつて表現されることもあるが、多くの場合に、事件の取扱方や登場人物の行動において表現されることがある。以上のやうな関係は、これを次のやうな公式に要約することが出来る。
  まあ、驚いた。甲は乙を裏切者と罵つてゐた。
右の表現において、「甲は乙を裏切者と罵つてゐた。」といふ叙述は、作者の感慨の対象となつた事実で、客体的なものの表現である。「まあ、驚いた。」は、そのやうな客体的な事実に対する作者の感慨の表現であつて、客体的な事実に対する関係から云へば、作者の主体的なものの表現である。しかしながら、この主体的なものの表現も、子細に見ると、「まあ」は、主体的なものを、そのまま直接に表現したものであるが、「驚いた。」は、そのやうな感慨を、客体的に表現したもので、その根源について云へば、「まあ」と同じく、作者の感慨なのである。小説の作者は、多くの場合に、彼が扱はうとする事件に対する主体的な感慨そのものを、直接的にも、また客体的にも表現することは稀である。専ら、その感慨の対象となつた事件を描写しようとする。描写することによつて、読者に同じ感慨を起こさせようと企図するのである。そのやうな場合には、作者の主体的なものは、事件の客体的描写そのものにおいて表現されてゐると云ひ得るのである。例へば、平家物語の冒頭に述べられてゐる「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす云々」の文は、この作者が、この作品に盛つた平家の盛衰といふ事実に対して捧げた感慨の表現であつて、平家物語全篇の記述は、この感慨の対象となつた事実の客体的表現である。従つて、この冒頭の文は、全篇に対しては、全く次元を異にした主体的なものの表現であると云ひ得るのであ
る。仮に、このやうな主体的なものの表現が省略されたとしても、全篇の構成がよくこの主体的なものによつて規制されてゐるならば、読者は、全篇を味読することによつて、作者の主体的なものに触れて、そこに共感を持つことが出来る筈である。事実、平家物語は、そのやうな目的を充分に果し得た作品であると云ひ得るのである。言語において、話手の主体的なものの表現が、話手と聞手との人間的交渉を成立させる主要な媒介となつたと同様に、文学作品においても、作者の主体的なものの表現が、作者と読者とを結ぶ主要な契機となるのであるが、一般に文学作品における主体的なものの発見が、普通の言語におけるよりも困難であるといふことが、文学作品の鑑賞を、区々にする原因にもなるのであらうと思ふ。

二 言語における主体的なものの表現
  ──附、文学における主体的なもの

 言語において、客体的表現に対して、主体的なものが、どのやうに表現されるかといふことを明かにするために、少しく他の事例について、主体的なものの表現形式を観察してみようと思ふ。
 第一の例。金若干を紙に包んで、これに「寸志」とか、「御祝」などと書いて人に贈る場合を考へてみる。金若干といふこの紙包の内容は、贈主が相手に受取つて貰ふ対象であつて、贈主の立場から云へば、主体的感情である相手に対する好意を、客体化したところの表現であるといふことが出来る。それに対して、「寸志」とか「御祝」などと書かれた包紙は、これは相手に受取つて貰ふ対象として、金若干に同列に並べられたものではなく、金若干に対する贈主の意味を表現したものとして、これを主体的表現といふことが出来るのである。この場合は、客体的なものに対して、主体的なものが、一定の形式を以て表現されてゐるのである。同様な例は、商品に附けられた定価を表示するレッテル、重要書類に貼られた「非常持出」の赤紙等においても見られる。それらは、それぞれ、商品、書類に対する主体的立場の表現として意味があるのである。
 第二の例。「貧者の一灯」といふことがある。貧者の捧げる一灯は、神仏に対する信仰心を、客体的に表現したもので、前の例の金若干に相当する。しかし、この一灯は、第三者から見れば、極めて些細なものである。しかも、神仏が特にこれを喜び受納し給ふといふのは、客体化された一灯そのものではなくて、奉納者である貧者の主体的な立場、即ち全信仰を一灯に客体化したその心持に感じ給ふことを意味するのである。この場合、奉納者の誠心は、客体的な灯明以外に、別の形をとつて表現されてゐるわけではない。従つて凡人の目から見れば、貧者の一灯も、しわんぼうの一灯も、外に現れたところでは、異ならないのである。神仏は、その主体的なものを、客体化の形式の中に認めて、これを受納し給ふといふのである。
 第三の例。私が、甲といふ人を訪ねて、その客間に案内され、そこに置かれた調度や書画の類を見て、ある感銘を受けたとする。私の受けた感銘は、これを分析すると、次の二つの異なつたものを含んでゐることが考へられる。その一は、調度や書画が、優れた芸術品であることから受ける感銘であり、その二は、このやうなものを愛玩する主人の教養や人格に対する尊敬の念である。この主人の客間に置かれた調度や書画は、主人の愛玩の対象であるが故に、主人の立場から云へば、主人の嗜好の客体的表現と同様の意味を持つものである。私の受けた感銘の第一は、このやうな客体的表現から受ける感銘である。それは宛も、花を見て、美しいと感ずるのと同じである。その第二は、そのやうなものに愛着を持つ、主人の好みに対する愛敬の念である。換言すれば、調度や書画の選択、配置などに現れた主人の主体的なものから受ける感銘である。物そのものから受ける感銘であるならば、それらの品物が、骨董店の店頭に陳列されてゐる場合でも、同様な印象を受けるであらうが、そのやうな場合は、物を通して、特に店の主人に心ひかれるといふことは無い筈である。なぜならば、そこでは、物は主人にとつて、売るべき客体としての意味しか持たないからである。ところが、一度それが客間の中に配置された時は、たとへそれが主人や客の鑑賞の対象として置かれたものであるにしても、既にそれは主人の趣味によつて選ばれたものであり、主人の愛着の気持ちによつて愛蔵されているものである。物それ自身において何等の変化は無いにしても、それにまつはる主体的なものにおいて異なり、それがまた、その物の配置や保存の仕方を規定して来ることになるのである。我々が、対人関係において、相手と深い交渉に入るのは、相手の右のやうな主体的なものの表現を媒介とするものであるといふことが出来るのである。
 以上によつて、私は主体的表現といふことが如何なることを意味するかを、具体的に示して来たつもりである。次に焦点を言語の世界に移してみよう。
 人は、他人の病気や災難に際して、履々次のやうな質問を発する。
  「御病気の工合は如何がですか。」
  「御家族にお怪我はありませんでしたか。」
  「御不自由なものがありましたら、遠慮なくおつしやつて下さい。」
などと。この場合の質問や希望の表現は、ただ、それに対して適当な返答が要求されてゐるといふだけのものではなく、即ち被質問者が、「病気の状況はこれこれです。」「家族のものは皆無事でした。」「ただ今のところ、別に不自由を感じてゐません。」といふ答だけが、この質問によつて要求されてゐることであるかと考へてみるのに、第一に、質問者は、ただ状況の報告を得ることを目的として質問をしてゐるのではなく、そのやうな質問を発することが相手に対する礼儀であり、また、相手に対する親愛感を示す所以であると考へてゐるのであり、被質問者も正確な回答を与へることが、自己の義務であると考へるだけでなく、そのやうに質問してくれることに、相手の好意を感じて喜ぶのである。このやうに見てくれば、このやうな質問を発すること自体に、質問者の相手に対する主体的なものの表現があるとみなければならないのである。もし、質問者の主体的立場に、純粋の同情とか、好意以外の何等かの夾雑物が混入するならば、質問それ自体の形式もその制約を受けて、相手に不快の感を与へることすらあるのである。被害者に対して、マイクロホンをつきつけて、その感想の発表を強制するやうなことが起こるのは、質問者が、無意識のうちに、そのやうな場合には不適当な「職業的」といふ主体的立場に立たされてしまふからである。根掘り葉掘りものを尋ねられることに、不愉快を感じさせられるのは、相手が好意的立場においてでなく、専ら自己のためにする功利的立場に立つてゐることが、感じ取られるからである。以上のやうな主体的立揚と、それに基づく人間交渉は、言語生活の実際を観察すれば、直に気のつく事実であるが、従来の言語学の通念では、これを分析する根拠を持たなかつたのである。言語過程説は、言語表現の成立条件として、主体的立場を導入することによつて、言語の伝達過程に新しい説明を加へようとするのである。言語過程説においては、主体的立場といふものを次のやうに分類しようとする。
 その一は、表現される事柄、即ち客体的なものに即した主体的立場を表現する場合である。前に挙げた事例について云ふならば、人に対する贈物に、「寸志」とか、「御祝」などと害く場合に相当するので、言語の場合には、助詞、助動詞のあるものによつて、それが表現される。
  わがやどのいささむら竹吹く風の音のかそけきこの夕かも。
における「かも」は、客体的事実「わがやどのいささむら竹吹く風の音のかそけきこの夕」に即した作者の感動であつて、主体的なものが直接的に表現された場合である。また、
  明日は雨が降るだらう。
における「だらう」も同様に、客体的な事実「明日は雨が降る」に対する話手の推量判断の表現である。   、
 このやうな主体的なものは、特定の助詞、助動罰を伴はないで、云はば、零記号によつて表現されることがある。
  大きな月。
  明日は雨が降る。
前者の例は、客体的な事実「大きな月」に即した感動があるのであるが、それが「よ」によつても、「かな」によつても表現されてはゐない。しかし、主体的な感動が想定されることは事実である。後者の例は、単純な肯定判断であるが、否定が「ない」、推量が「だらう」という語によつて表現されるやうには、特定の語形式を伴はない。
 また、例へば、悲しい出来事、嬉しい体験などを語る場合、それらに即した感情情緒によつて、表現全体を包むやうな場合がある。沈んだ口調で悲しい出来事を語つたり、晴々とした調子で嬉しい体験を語るのはそれである。
 元来、客体的なものの表現と、主体的なものの表現とは、その表現の次元を異にし、後者が前者を包む関係になつてゐるものであるが、主体的なものを、語の形によつて表現する場合は、言語表現の特質に規定されて、主体的なものを、客体的なものの後に附加するといふ表現形式をとるのである。鈴木朖が言語四種論に、辞は詞につける心の声であると云つたのは、その意味である。
 その二は、話相手の身分、教養、学識などに対する尊敬、親愛の気持ちから、表現を規制する場合で、言語過程説は、これを言語における場面の制約として論じた。このやうな主体的立場は、ある場合には、陳述の敬語的表現として、指定の助動詞を以て表現される。例へば、
  雨が降る。
に対して、
  雨が降ります。
といふ云ひ方は、「ます」によつて、相手に対する主体的立場を表現したものである。また、ある場合には、特定の語によつて表現するのでなく、云ひ廻しによつて、そのやうな主体的立場を表現することがある。例へば、
  書け。
に対して、
  書いてくれますか。
  書いてくれませんか。
  書いてくれませんでせうか。
などと表現するのは、相手の意志を尊重し、相手の承諾を求めるやうな表現をとることによつて、相手に対する敬意を表はすのである。
 その三は、相手の理解を考慮して、表現を工夫し、調整する場合で、例へば、子供に対してはよく分るやうに、婦人に対しては、その感情を傷つけないやうに、老人に対しては、明瞭に聞きとれるやうに、その語彙を選択し、その発音に注意するのである。
 以上は、主体的なものが、言語においてどのやうに表現されるかを考察し、分類したのである。
 次に、文学における主体的なものと、その表現について考察してみようと思ふ。文学は、その本質において、言語表現であるから、言語に認められることは、また、当然文学においても適用されなければならないのである。
 文学作品中に描かれる自然や人物や事件の推移は、作者が読者に向つて伝達するものとして、作者にとつても、読者にとつても、客体的なものである。一般に読者はこのやうな客体的なものに対して、好悪と喜怒哀楽の感情を持つのである。あたかも、人に与へられた贈物に喜びを感ずるやうなものである。しかしながら、他の事例においても述ぺたやうに、人は贈物である物そのものに喜びを感ずると同時に、その物を通して、その贈主の好意を認めることによつて、前の場合とは別の喜びを感ずるのである。ここに始めて、贈る人と、贈られる人との人間的接触が生ずるのである。文学の場合も同様で、読者は、作中の人物の行動や事件の推移に、関心を持つと同時に、それらを通して作者の主体的なものに触れ、それによつて自己を高めようとするところに、文学の最も大きな機能があると見なければならないのである。そのやうな作者の主体的なものは、どのやうに表現されて、読者に結びつくのであらうか。一般によく知られてゐる芥川龍之介の「蜘蛛の糸」をとつて考へてみよう。
 この作は、その冒頭と結尾を見れば、明かなやうに、極楽の朝から昼の間におけるお釈迦様の見聞を物語るところの童話である。先づこの題材の切取方において、作者の主体的立場を見なければならない。作者は、お釈迦様を問題にしようとしてゐるので、作中に出て来るカンダタについて物語るのでないことは明かである。次に、仕手役であるお釈迦様をどのやうに行動させてゐるかといふところに、この作者の独自の立場を見出さなければならないのである。前近代的通念に従へば、お釈迦様は絶対的信仰の対象として、全知全能でなければならない。もし、お釈迦様がお思召すならば、カンダタの僅かばかりの善行の故に、これを極楽に引上げることは易々たることでなければならない筈である。ところが作者は、お釈迦様の力を以てしても不可能なことの存在することを主張しようとしたのである。換言すれば、それは絶対者の否定であり、人間絶対主義の主張であつたのである。カンダタは、その醜い我慾の為に、再び地獄に転落した。お釈迦様はそれに対して、ただ「悲しさうなお顔をなさる」より外にいたしかたがなかつたのである。同じく童話でありながら、神仏の取扱ひかたにおいて、本書とお伽草子との問には全く異なつたものがあり、それが、また、それぞれの作者の主体的立場の表現に他ならないのである。(註)
註 片岡良一氏は、「近代日本の作家と作品」の中で、この作品について、全く別の解釈を与へて居られる。カンダタを以て、人間生活の一断面を提示したものとして、それに対する作者の絶望的な嘆息を漏らしたものとするのである。あるところで、氏はまた、この作品を、芥川の古めかしい勧善懲悪主義に過ぎないとされてゐるが、共に本編の主題をカンダタの行動としたことから来る解釈である。お釈迦様は、作者と共に、醜い人間生活に対する批判者の位置に立つものとしたのである。
 以上のやうに見て来れば、作者の主体的なものが、作中人物の行動や、思索の中に托されてゐると見たり、また、托されてゐなければならないと見ることは誤りであつて、むしろ、作者は、作者とは別個の人間の行動や思索を自然に克明に描写することによつて、作者の問題にしようとした点を読者に提示して行くものと考へなければならないのである。例へば、鴎外の「高瀬舟」をとつて考へてみよう。作者は、本編の主人公ー平凡愚直な喜助の行動と述懐を記述することによつて、ユゥタナジイの問題を読者に提示しようとしてゐるので、決してこの主人公を作者の代弁者たらしめようと意図したものでないことは明かである。素材を、在来の道徳や法律の枠によつて解釈せず、人間的行動において見、またそのやうに見ることを読者に勧めようとするところに、人間絶対主義的な作者の主体的立場の表現があると見なければならない。従つて、この主人公が、自己の行為を、在来の道徳観に照して、「飛んだ心得達ひ」であつたと考へてゐたとしても、それは作者の人間絶対主義の立場と矛盾するものではないのである。(註)
  註 「高瀬舟」についても、便宜、片岡良一氏の前掲書「近代日本の作家と作品」を参照した。しかしながら、氏は、作中人物の懐く興味や態度を、そのまま、作者鴎外の立場の投影であるとして、人間絶対観と諦観との矛盾的対立を指摘された (「雁」から「高瀬舟」へ)。

三 言語と相補ふ言語以外の主体的表現

 前項に述べて来たことは、語の形において表現される主体的なもの、或は語の云ひ廻しにおいて表現される主体的なもの、その他、すべて言語の中に溶け込んだ主体的なものについて述べて来たのである。これら主体的なものの表現は、それらが客体的表現とは、明かに区別せられるにしても、言語の領域に属するものであることについては、同じである。しかるに、次のやうな表現は、その伝達機能において、言語と類似なものが認められるにしても、明かに言語とは一線を画して考へなければならないものである。
 一、ある悲しみに出会つて、ただ声をあげて泣きくづれるといふやうな場合。これは、悲しみの表現ではあるが、「私は悲しい」といふ客体的表現ではなくして、感情の主体的な直接的な表現である。しかも、それは悲しみの身体的表出であつて、我々はこれを言語とは云はない。
 二、この悲しみを、主体的に表現する代りに、すべてを客体的な言語に置き代へて、悲しい所以を述べる場合。しかし、これを聞く人は、話手の実感を、我身において如実に体験することが出来るのである。これが言語表現の究極のねらひであつて、平家物語が読者に深い感銘を与へるのは、作者の感動を、直接的にではなく、ことごとく千言万言を費して、これを客体的表現に置き代へてゐるがためである。
 三、前の二つの場合の中間に位するものであつて、その半は、客体化されつつも、その主体的なあるものは、身体的な身振りや表情となつて表現される。例へば、演説の間に、拳をもつて卓を叩いたり、懇願の言葉の間に、腰を屈めたりする動作を交へるやうな場合である。
 以上三の段階の中で、第一の場合は、それが如何に強い感情的表現であつても、我々はこれを言語とは云はない。言語にそれと類似のものを求めるならば、それは感動詞に相当するのであるが、感動詞が、言語の前段階的なものと考へられてゐるやうに、このやうな感情的表現は、やはり前言語的と云はなければならない。もつと本質的に考へるならば、このやうな表現は、表現そのものとして見れば、極めて強烈なものであつても、それが相手に理解せられ、相手に共感を呼び起こす伝達機能といふものを殆ど持たない。といふことは、このやうな表現が、主体的であつて、客体的な面を殆ど持たないところに原因するのである。これと対蹠的な第二の揚合と比較すれば、極めて明瞭である。和歌、俳句、小説等、凡そ言語の完成段階の目指すところのものは、すべて主体的なものの余すところなき客体化の上に成立してゐると云つてよいのである。ここに第Ills段階が問題になるのであるが、第二の段階を以つて、言語の最も完成された段階であるとするならば、言語表現は、それが純粋に言語的であることにおいて表現が完成されると云ひ得るのである。例へば、演壇で卓を叩いたり、手を振つたりすることは、演説者の主体的なものの表現であるには違ひないが、それは必ずしも、聴衆に深い感銘を呼び起こす手段とは考へられない。話手はもつと主体的なものを言語として、あるいは言語に即して表現することによつて、効果を発揮することが出来るのである。これは、音楽は純粋に音楽的であり、絵画は純粋に絵画的であり、彫刻は純粋に彫刻的であることが要求されると同様で、絵画に彫刻的な手法を交へて、これを立体化することは邪道である。絵画における立体感は、絵画の本質の中に求められなければならない。同様に、言語に、言語ならざる要素を交へることは、補助手段として以外には許されないことである。演壇の上で殊更な身振や表情を交へることは、言語に舞踊的な、或は演戯的な要素を加へることになり、ある意味において、言語の最も本質的な機能を放棄したことになるのである。このことは文字言語の場合でも云ひ得ることで、文字の筆勢や字形の大小によつて、主体的なある感情を表現することは、試みとしては可能ではあるが、文字にそのやうな機能を托すことは、文字に絵画的な要素を加味することになるので、既に文字本来の機能を逸脱したことになるのである。今日の活字による文字言語の伝達は、以上のやうな意味において、文字の機能を減殺したものであるとは考へられないのである。
 以上のやうに考へて来る時、在来の言語の定義が、言語を音声と意味との結合と規定したり、或は言語を意味の音声、文字による表現過程であると規定して、言語として形象化されない感情の身体的表出のごときものを、言語以外のものとすることに理由があると考へられるのである。この結論は、必然的に、西尾実氏が屡々述べて居られる「ことばの実態」の考へに反するものとなるのである(擁「言語とその文化」その他)。西尾氏に従へば、「日常、われわれが話し聞いている言葉の現実態を、それのあるがままを反省してみると、それは、単なる音声現象ではなく、きわめて複雑な機構と過程をもつものであることに驚かされる」(「言語とその文化」」六頁)として、次のやうな具体例を挙げて居られる。
「友人に旅行をすゝめられて、「うむ、行こう。」と答えるにしても、見向きもしないで言う場合と、顔を向け、膝を乗り出して言う場合とでは、それが表わす意味は同じではない。もとより、その場合場合に、そこには、それに応じた、音調による、意味のちがいがあるにはある。けれども、また、そのほかに、顔つきや身振りや動作が、そのちがいを著しくしていることも明らかである。」
「こう見てくるとわれわれの言葉というものは、耳で聞かれる音声とともに、普通に考へられているよりもはるかに多く、また、有力に、目で見られる目つき・顔つぎが、また、手つき・身振りが、加わつたもので、一般的にいうと、あるいは後者が前者に代つてその任務を果し、あるいは、後者が前者を補つて、意味表現を完結し、あるいは、後者が前者を基礎づけて一体活動をする」
と述べられ、今日の国語学、言語学の言語に対する定義をとりあげて、「意味の音声に表われる働きだけを抽象して言葉としようとするならば、それは、切つて血を流し、切つて命を失わせるような無理を犯すことで、それでは、言葉の実態をも、また、言葉の歴史をも尽すことができないのではないだろうか」と論じて居られる。西尾氏の論ぜられるところは、言語をその具体的機構において捉へて、その本質を究明されようとしたところに、多くの傾聴すべき示唆を含み、具体的な言語活動を正面の対象としない今日の言語学の理論を以つてしては、答へることの出来ない重要な問題を提出されたことになるのであるが、なほ、そこに賛成することの出来ない点は、大要次のやうな点である。
 その一は、氏が、いはゆる言語における意味の表現と、表情や身振りによる表現との間に、表現性の相違を考へられなかつたこと。
 その二は、氏が、言語表現の特質を、思想感情の客体的表現にあり、それ故にこそ、言語が最も有効な思想伝達の手段となり得るものである点を無視されたことである。
 第一の理由は、音声によつて表現せられるものと、表情や身振りによつて表現せられるものとは、表現の素材として見れば、ひとしく話手の思想感情であるが、これを表現性の上から見れば、前者は、思想感情の客体的表現であるのに対して、後者はその主体的表現であることにおいて、全く性質の異なったものである。このことは第二の理由と密接に関連するので、言語が常に主体的なものを客体的表現に置き代へるところに、言語としての最も有効な機能が発揮されるといふことは、人間が思想交換の手段として言語を用ゐることのそもそもの根源において存在することで、それは、遠い将来において実現するであらうといふことではなく、今日現在において時々刻々に営まれてゐることであり、また、言語を他の表現から区別する重要な特質ともなるものである。西尾氏の挙げられた例に即して云ふならば、友人に旅行をすゝめられて、「うむ、行こう」と返事をした場合、気乗りしてゐるか、しないかは、その身体的動作に現れるとするのであるが、この応諾の気持ちは、主体的に表現されてゐるが故に、伝達手段としては極めて不完全なものである。勧める人が、相手の動作を見逃したり、見てもその意味を理解しなければ、何の効果も無い訳である。そこで、そのやうな気持ちを、出来るだけ的確に伝達するためには、それらの身体的動作を、音声的に、しかも客体的に表現することが必要になつて来る。「喜んで行くよ」とか、「あまり気が進まないが行かう」などと表現することが必要になつて来るのである。言語が思想伝達の有効な手段であり、それは、言語の客体的表現によつて達成されるといふことを考へるならば、言語表現に随伴する身体的表現は、言語の未完成を補ふ補助手段としての意味しか無いので、それらを含めて、「言葉の実態」であるとすることは出来ないのである。国語教育の理念もそこから導き出されるのであつて、身振りや表情によつて表現されるものを、出来るだけ言語の形式に置き代へて行く、また、どのやうにして置き代へるかと云ふところに、表現技術の訓練があるのであらうと思ふ。日常の言語表現、特に会話の場合では、言語表現の不完全さを、身振りや表情を以て、補ふことが出来る。しかし、それは、場面と話題が、特定の場合に限られるのであつて、予備的知識を持たない、一般の聞手を相手にし、しかも、面と向つて相対さない一般読者を相手にする文字言語の場合には、身振りや表情は勿論のこと、声の抑揚の助けを借りることすら出来ないのである。思想感悩の表現は、純粋に言語的であることが必要とされるのである。しかも、言語が、その伝達機能を発揮しなければならないのは、そのやうな言語においてである。論文や報告が、文章の構成において、周到な用意と技術が要求され、小説が描写を重んずるのは、正に以上のやうな理由に基づくと云ふことが出来るであらう。

結び

 言語における主体的なものが、どのやうなものであり、また、それがどのやうに言語に表現されるかといふことは、言語を主体的表現行為とする言語過程説の重要な課題であるが、本稿は、この問題を明かにするために、言語と言語ならざるものとにおける主体的表現の区別を論じて、言語の本質的領域を明かにしようとしたものである。この問題は、言語の伝達機能を明かにする上に、重要な課題であると同時に、国語教育の目標を明かにする為にも極めて重要である。ただ、問題が複雑であるために、本稿では、分析が必しも充分でなく、従つて、記述が前後したり、重複したりして、論旨の徹底を欠いたことは、全く私の力の不足から来たことである。
                                   昭和二十七(一九五二年)五月二日

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最終更新:2019年12月05日 20:39