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時枝誠記『日本文法口語篇』はしがき

 日本語は非常にむづかしい言語のやうに思はれ、また云はれてゐる。特に外國語を學習した人たちには、外國語との比較の上から、さう思はれることが多い。これには色々な理由が考へられるが、第一に、日本語では、漢字と假名といふ、全く異質な文字が併用され、かつ一語一語の表記法が浮動して固定してゐないといふこと、次に、同類の思想を表現したり、それの派生的觀念を表現するのに、固有日本語と漢語とが複雜に交錯してゐて、簡明な一の體系によつて貫かれてゐないこと、敬語の使用が複雜であること等々が擧げられるであらうが、日本語には、文法的法則が確立されてゐないのではないかといふ感じも、國語に對して不安の念を抱かせる一の重要な理由になるのではないかと思はれる。日本語に、はたして文法があるのだらうかといふ疑問は、明治初年にヨーロッパの諸國語を學んだ人たちのひとしく抱いた不安であつた。その後多くの文法學者が出て、日本文法に關する研究が盛んになつては來たが、今日まだ標準的日本文法が確立されてゐないことは、右のやうな不安を裏書きすることにもならないとは限らない。しかしながら、今日、日本文法に關して、決定的な結論が出てゐないといふことは、日本文法學がまだ建設の途上にあるためであつて、日本語に文法が存在しないためでないことは明かである。
 日本語について、結論的な文法書が出てゐないといふことは、一面、國語學の未熟なことを思はせるのであるが、ヨーロッパの文法學が、ギリシア以來の傳統の重壓のために、革新的な科學的文法學説の出て來る道が妨げられてゐるのに較べて、日本文法學の前途には、これを阻むやうな固定した傳統も標準もないといふことは、この道に携る學者に明るい氣持ちをさへ與へてゐるのではないかと思はれる。ただ私たちは、日本文法に關心を持たれる人たちに、次のやうなことを期待したいのである。
 今日、文法學の基礎知識は、日本語についてよりも、むしろ英、佛、獨等のヨーロッパの諸國語について與へられる方が多い。そこで、日本語の文法についても、ヨーロッパの諸言語の文法を基準にして考へたがる。その結果、割切れない多くの現象に行き當るのであるが、言語は傳統的なものであり、歴史的なものであつて、思考の法則が普遍的であるやうには、言語の法則は一般的な原理で律することが出來ないものを持つてゐる。日本語の文法は、日本語そのものに即して觀察されないかぎり、正しい結論を得ることは困難なのである。ヨーロッパの言語の法則が、一般文法の原理であるかのやうな錯覺を打破することが何よりも大切である。
 右のやうな考へは、また次に述べる日本語は變則的、例外的な言語であるとい、ふ偏見につらなつてゐる。變則的、例外的であるから、ヨーロッパの言語の原理的法則に照らして割切れないところがあるのも當然であるといふやうな考へに安住してしまふのである。確かに、今日文化的言語として世界を支配するものは、英、佛、獨等の印歐語系の言語である。日本語と同系統、同語族の言語で、これに拮抗し得るのは、ただ日本語だけである。群がる鞦類の中の一羽の鳥のやうなもので、數の上から云へば、たしかに例外的、變則的存在に違ひない。日本語の文法現象の一々が破格であり、奇異であると感ぜられるのも當然である。しかし、そこに眞理を見出し得ないかぎり、日本語の文法は完全に記述することは困難であらうし、更に世界諸言語の文法現象の奥にぴそむ、より高次な言語的眞理を把握することは不可能となるであらう。世界諸言語の文法的眞理の探求といふことは、日本文法學のヨーロッパ文法學への近寄せといふやうな安易なことで達成出來るとは思へないのである。明治以後の文法研究者の惱みはそこにあつた。最初は、ヨーロッパ文法の理論に忠實に從ふことによつて、日本文法を完全に記述することが出來ると豫想したのであるが、やがてそれが不可能であることが分つて見ると、原理は結局日本語そのものの中に求めなければならないこととなつたのである。これは誰にも頼ることの出來ない、また既成の學論や理論にすがることの出來ない、日本の學徒が、日本語と眞正面から取組んで始めて出來ることなのである。しかし、ここで日本文法學が始めて正しい意味の科學として出發することになつたと云ふことが出來るのである。ただここで考へ得られる一の足揚は、古い日本語研究に現れた學説と理論とである。鎌倉時代(西紀第十二世紀)或はそれ以前から、日本學者が日本語について考察し、思索して來た理論や學説は、まさに日本語そのものの一の投影として、私たちの行手を照らす燈であるに違ぴない。本書は、右のやうな研究方法に立脚して、日本語の理論を遠い過去の先學の研究に求め、それを理論的に展開して日本文法學を組織しようとしたものである。その意味で、本書は、拙著國語學史(昭和十五年岩波書店刊)の研究を前挑とするものであることを附加へて畳きたい。
 私の見るところでは、その基礎的構造の理論をつかみ得るならば、日本語は、印歐語に比して、比較的簡明な文法を持つた言語であると云ふことが出來るのではないかと考へてゐる。ただし、ここに云ふ日本語の基礎的構造を、理論的に把握するためには、問題を言語そのものの本質的究明にまで掘下げて考へる必要があるのである。本書は、それらの點について詳論する暇が無かつたので、大體の記述に止めて、詳しくは拙著『國語學原論』(昭和十六年岩波書店刊)に讓ることとした。
 今日の日本文法學は、その組織の末節にある異同を改めたり、言語學の最高水準に照して理論をより確實にしたりすることによつては、もほやどうにもならない、もつと基本的な問題にぶつかつてゐるのである。それは、言語そのものをどのやうに考へるかの問題である。本書は、そのやうな根本問題を出發點としてゐるので、日本文法の大體の輪廓を知らうとする人たちにとつては、煩はしいまでに、理論のために頁を割いてゐるが、日本文法を日本語の性格に郎して勸察されようとする人たちにとつて、或は言語と人間精禪、言語と人間文化の交渉の祕奥を探らうとする人たちにとつては、何ほどかの手がかりを示すことが出來ると信ずるのである。
 ちなみに、本書に用ゐた學術用語は、殆ど古來の使用と現在の慣用のものを用ゐ、その概念内容を改めて行くことに力を注いで、努めて薪造語を避ける方針をとつた。しかし、現在の用語がすべて適切であると考へてゐる譯ではなく、それに對する試案は、本論、文法用語の項目の中にも述べて置いた。
 以上のやうな理由に基づいて、本書では、日本文法の組織の骨組を作ることに追はれて、充分な記述にまで手がのびなかつたことを、諒承されたい。
 また、本書に用ゐた「かなづかひ」については、私は「現代かなづかい」の根本方針に疑ひを持つてゐるので(一)新かなづかひ法が、確實な理論の上に制定されるまでは、暫く舊來の方式に從ふこととした。私一己の試案(二)もあるけれども、かりそめに、そのやうなものを實行することは、徒に混亂の種を増すことであると考へて見合はせることにした。
 (一) 國語審議會答申の「現代かなづかい」について(國語と國文學 第二十四卷第二號、『國語問題と國語教育』に收む)
 (二) 國語假名つかひ改訂私案(國語と國文學 第二十五卷第三號、『國語問題と國語教育』に收む)

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最終更新:2020年01月27日 01:49