第一編 音韻觀念
一
現今,音韻學説として世上に最も有力なものは,N. Trubetzkoyを中心とするPrag派の説である。その説く所に據れば,音韻論(Phonologie)と音聲學(Phonetik)(註1)とは共に音現象を扱ふ學問であるが,前者は之を言語に於ける機能の立場から考察し,後者は之を機能の問題と無關係に扱ふことを各特色とする。音聲學者は,譬へば機械の働きを研究する場合のやうに,發音器官に精通し,その働きを詳細に研究しようとする。之に反して,音韻論者は,一言語團體の言語意識に精通し,與へられた言語の語の能記を組成する示差的音觀念の内容を研究しようとする。抑,音韻體系(Phonologische System)は,一定の言語に固有の音韻論的諸對立(Phonologische Gegensatze)の總體である。音韻論的對立とは,すべてその言語に於て知的意義の分化に適用される所の音的差異を言ふ。音韻論的對立をなす各項を名付けて音韻論的單位(Phonologisehe Einheiten)と言ひ,もはやそれ以上小さい音韻論的單位に分つことの出來ない最小の音韻論的單位を音韻(Phonem)と稱する・以上がその所説の根本概念である(註2)。
併しながら,私は,このTrubetzkoyの學詭については,若干の重要な點に關して疑問を懷かざるを得ない。第一,同氏の見解に從へば,音韻論的對立とは,その言語に於て知的意義の分化に適用される所の音的差異をいふ。從つて知的意義の分化に役立たない音的差異は,音韻を相互に區別する性質とは認められない,といふことになる。ところが,よく考へて見ると,實はこれ理想と現實とを混同してゐるものである。勿論,私は,「音韻體系は知的意義の相違を區別して表すために存するものである。」大ざつぱに言へば「音韻體系は一の語を他の語から區別して表すことをその使命とする。」といふことに對しては,何ら疑を挿むものではない。併しながら,それは音韻體系の使命(理想)を言ひ表したものに過ぎない。現實の社會制度たる各言語の音韻體系が,すべてこの使命にしつくり適ふやうに出來てゐるとは,何人も斷言し得ない所である。一般に,現實の社會制度は,その使命を實現する機關としては,概して不完全なものである。即ち,無用なる繁文褥禮な制度が,現實にはいくらも存在するのである。さらば,音韻制度に於ても,知的意義の相違を區別して表すために何ら役立たない所の音韻的區別が現實に存在し得ないとは,誰か言ひ得よう。
理想と現實とは,そもそも別物である。現實の社會制度たる音韻體系は,我々が何を欲しようとも,それとは無關係に,儼として我等の外に存在してゐる。但し,勿論,音韻制度は歴史的産物であるから,その中には過去に於けるその社會の欲望が幾分なりとも客體化されて存する。併しながら,そこに實現されてゐるものは,現在の我々自身の欲望ではなくて,我々の租先の欲望である。現在の音韻制度を作り出したものは,我々とは異なる環境の中に在つた所の我々の租先である。我々は,既に出來上つた音韻制度を親たちから受けついだのである。Trubetzkoyは,現實の音韻制度を,あたかも我々の現在の欲望から生れ出たもののやうに誤解してゐる(註3)。私は,それとは反對に,現實の音韻制度を,我々の欲望とは無關係に我々の外に儼存する所の客體として觀ずる。この點に於て,私はTrubetzkoyとは正に對蹠的の地位に立つものである。
言ふまでもなく,音韻體系は我々の生活と無關係なものではない。無關係どころか,音韻體系は我々の生活のためにこそ存在するのである、併しながら,音韻體系の現實に於ける存在それ自體は客觀的な事件であつて,我々の欲望とは無關係と言はなければならない。それは,あたかも私に食物として與へられたお菓子のやうなものである。お菓子は私の目前に置かれてゐる。私はそれを食べたくてたまらない。即ち,私の欲望は方にお菓子に向つて働きかけつゝある。併し,それにも拘らず,お菓子の存在それ自體は,私の欲望とは無關係なものである。お菓子がそこに存在することは,お菓子自身の勝手である。そのお菓子が黒いお菓子であることも,お菓子自身の勝手である。そのお菓子が甘いお菓子であることも,お菓子自身の勝手である。私の欲望とお菓子の存立との間には,何ら必然的な關係が無い。私がそのお菓子を食べる時,それは私の氣に入るかも知れない。たとひ氣に入つたとしても,それはお菓子の味が偶然私の欲望と合致したに過ぎない。兩者の關係は全く偶然的である。何故なら,お菓子は勝手にそこに存在するものであつて,私の欲望がお菓子を産み出したものではない(註4)からである。假にそれが私自身の手製のお菓子であるとしても,食べて見て果して私の氣に入るかどうかは分らない。何故なら,たとひそのお菓子の成立に對し,過去に於ける私の欲望が關係してゐるとしても,既に外的な材料の中に客體化されてゐる以上,それは認識の主體たる現在の私の欲望とは別物である。故に,お菓子の存在は,依然私の欲望とは無關係なものであり,私の欲望とお菓子の存在との關係は,畢竟偶然的なものである。それと同じ意味に於て,客體たる音韻體系は我々とは無關係に存在する。我々の欲望と音韻體系との聞には,何ら必然的な關係は存在しないのである。言ふまでもなく,お菓子が私の食欲を充すことを使命としてゐるのと同樣に,音韻體系は知的意義の相違を區別して表すことを使命としてゐる。併しながら,現實の音韻體系は,必ずしもこの使命にぴつたり適合するやうな體系ではない。何故なら,それは我々の現在の要求から生れ出たものではなく,過去の歴史的事情によつて成立したものだからである。
さて,既にF. de Saussureも,Trubetzkoyと同じく,音韻の示差的性質(le caractere differentiel)を大いに強調(註5)してゐる。又,音韻の使命が語と語とを區別することに存する事實をも,勿論認めてゐる。併しながら,氏が音韻の示差的性質として述べてゐるものは,直接には,一の意義を他の意義から區別して表す性質ではなくて,寧ろ一の音韻を他の音韻から區別する性質なのである。そこに存するものは,「聽覺印象の心的對立」(註6)(l' opposition psychique de ces impressions acoustiques)である。聽覺印象自身の對立に基いて,音韻體系は成立してゐるのである。音韻體系は意義の相違を區別して表すための手段として存在するが,その存在自體は何ら意義關係に依存するものではない。音韻は音韻として獨立に存在し,意義とは無關係にそれ自身で體系を作つてゐるのである。この點に於て,Saussureの見解は,私自身の見解と全く一致する。
但し,目的と手段との調和は,固より望ましいことである。さればこそ,歴史は,機會ある毎に,意義の相違を區別して表すに重要ならざる音韻上の區別を廢棄し來つたのである(補註)。併しながら,手段の目的に對する完全な適應は,未だ到逹されてはゐない。現實の音韻體系は,意義の相違を區別して表すための手段として,未だ必要且充分なものとはなつてゐないのである。目的と手段との完全な調和は,望ましいことではあるが,それは畢竟一の理想であつて,未だ現實にはなつてゐない。然るに,その點を思ひ誤り,完全な調和の現存を前提してかゝる所に,Trubetzkoy音韻論の根本的誤謬が存するのである。
之を要するに,音韻の示差的機能とは,直接には,一の音韻を他の音韻から區別する機能を指すものでなければならない。言ふまでもなく,示差的機能は,音韻にとつては本質的なものである。音韻は,實にこの示差的機能に基いて體系を構成してゐるのである。
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私は以上の事實を確認する。併しながら,音韻觀の根本的な點に於て,私はSaussureとも見解を異にするものである。即ち, Saussureは日く
「資料的要素なる音がそれ自身言語に屬すると云ふ事はあり得ない。音は言語に對しては二次的のもの,言語が働かす所の資料に過ぎない。總じて制約的價値なるものは,その支物たる觸れ得べき要素と混同される事がないといふ特質を有してゐる。貨幤の價値を定めるものは金属ではない。名目上五フランに當る一エキュも銀の値としてはその半値しかない。銀は表の像の如何に依り,政治上の境界の彼方此方に依り,値を異にする。此の事は言語の能記に至つては愈眞なるものがある。能記の本質は決して音的なものではない。資料的實質によらず,專らその聽覺映像を他の凡ての聽覺映像と分つ所の差異と合體し,差異によつて成立するものである。」(註7)と。
かやうに,同氏は音韻を直ちに言語價値と見る。この見解は,そのまゝTrubetzkoyによつて採用せられ,その音韻觀のあらゆる長所と共にまた短所をも生み出す源泉となつた。私はこの見解には反對する。音韻が直ちに言語價値なのではない。音韻は言語價値を荷ふ所の實體である。音韻は一價値そのものではなく,評價される所の對象である。從つて,音聲現象は,.言語價値の直接なる質料的象徴とは見ることが出來ない。音聲現象は音韻:を象徴し,その音韻が言語價値を荷ふのである。私は,音韻そのものと,音韻の價値或は機能とを,あくまで峻別する。音韻は,價値には非ずして,現實の對象である。音韻の機能は正に示差的であり,音韻はその示差的性質に基いて體系を構成するといふことは事實であるが,現實の對象たる音韻は,かかる示差的機能と關係有る属性の外に,なほ,示差的機能と關係・無き屬性をも所有し得るのである。その明々白々なる事實は,なほ次篇以下に詳述する所によつていよいよ明かになるであらう。
さて,Saussureは音韻を貨幤價値に譬へたのであるが,私は,音韻は寧ろ貨幤そのものに譬へらるべきであると思ふ。もつとも,貨幤そのものと言つても,磨損した,緑青のわいた,手垢のついた箇々の貨幤の現物を指すのではない。政府によつて規定され,社會によつて公認された,貨幤の實體を指すのである。即ち,一定の成分から成り,一定の重量と大きさと形状とを持ち,一定の文字や耋像を鑄出した貨幤は,何錢に通用すべし,と規定されてゐる,その諸屬性の保持者たる(法規上の,觀念上の)實體を指すのである。この規定こそは,全く社會的な約束である。鑄潰したら半値にしかならない一エキュ銀貨が立派に五フランの價値に通用するのは,全くか丶る社會的約束によるものである。抑,一エキュ銀貨の地金は,無條件で五フランに通用し得るものではない。それが五フランに通用するため,には,一定の形状と文樣とを持ち,正當の手續によつて政府から發行されなければならない。その形状や文樣は,無論その貨幤の適用價値と内面的關係を持つものではなく,一片の法令によつて如何樣にも變更し得るものであるが,而も,一度定められた以上は,それは既に社會的約束であり,個人が自由に變更し得るものではない。之を變更し得るものは,ただ,社會的意志の實行者たる政府あるのみである。
もし日本語に於ける音韻(b)を一エキュ銀貨に譬へるならば,呼氣・聲帶振動・軟口蓋上昇・兩唇接觸等の所要の各属性は,一エキュ銀貨の所定の成分や質量や形状や文樣等に譬へられる。又,音韻(b)に則つて發音された箇々の音聲は,一定の法規に從つて作られた箇々の一エキュ銀貨の現物に譬へられる。現實の音聲は,その形はよしどれ程不完全であらうとも,それが音韻(b)を意圖して發せられたものであることが認められる限りは,音韻(b)として通用し得る。それは,あたかも,一ヱキュ銀貨の現物が,たとひどれ程磨損し,表裏の交字や耋像が不明瞭になつてゐようとも,それが本來正當な規則に從つて作られ正當な手續によつて政府から發行されたものであることが認められる限はエキュ銀貨として通用し得るのと,全く同じことである。
而して,音韻の機能が示差的であることは,補助貨暼の機能が示差的であることと同樣である。我々は,所定の成分・質量(これらは實際的には色や大きさや重さから到斷される)・形状・文様等によつて,五拾錢銀貨を他の銀貨や銅貨から區別する。それらの屬性は,結局はその貨幤の通用價値を區別して表すために役立つものであるが,それは窮極の使命である。直接の機能は')一の種類の補助貨幤を他の種類の補助貨幤から區別して示すことに存するのである。それと同樣に,例へば日本語に於ける音韻(b)の聲帶振動は,結局は言語の意義の相違を區別して表すために役立つものであるが,それはその窮極の使命である。その直接の機能は,一の音韻(b)を他の音韻(p)から甌別することに存在するのである。
以上の説明によつて,補助貨幣や音韻に於ける示差的機能の眞意義は,既に明かになつたと思ふ。而して,補助貨幤や音韻は,かかる示差的機能を規準として評價され,各その示差的價値を決定されるのである。然るに,惜むべし,Saussureは此の點に於て大きな誤謬に陷つてゐる。斷ち,評i價の對象たる習韻を,あたかもG泙價の結果たる)價値そのものであるかの如く誤認してゐる點がそれである。抑,現實の社會制度は,斷じて價値そのものではない。それらは,各與へられた目的に奉仕する所の手段として, ;それぞれの價値を荷ふものである。それらは,評價せらるべき對象でこそあれ,斷じて價値そのものではない。例へば,國家の諸機關の各は.國家の使命途行のために協力し,その分擔する所の各政治的目的を實現するための手段として價値を有する。各磯關は,國家の機構の中に於て,各獨自の價値を荷ふものでこそあれ,斷じて價値そのものではない。現實の圃家に於ては,りかなる機關も,純粹にその本來の政治的使命のみからその組織を決定されてゐるものは決して無い。その成立に當つては,公私あらゆる方面の利害關係によつて掣肘される故,そこに出來する所の組織は,その機關本來の政治的使命から見れば,甚だしく歪められた不滿足なものとなるのが普通である。補助貨幤の使命は示差的機能に存するが,その屬性と定められた諸性質の中には,品質保存や贋造防止のために設けられたもかもあり,裝飾のために設けられたものもあり,或は單に慣習上存置されてゐるものもある。例へば,假に,裝飾上の目的から,すべての貨幤の表面に共通の模樣が鑄出されてゐたとしても,何ら差しつかへは無い。又,慣習上,すべての貨幤が皆tg-i形であつたとしても,何ら不都合は生じないのである。圓形といふ属性は,現に我が國に行はれてゐるすべての金屬貨幤に共通なものであるから,何ら示差的意味を持たない。併し,この屬性は,公に規定されてゐるものであつて,この屬性を具へないものは,一錢銅貨たることも五十錢銀貨たることも出來ない。故に,明かに,一錢銅貨なり五十錢銀貨なりの本質的屬性の一である。印ち,補助貨幤は示差的機能を有するが,その本質的屬性のすべてが示差的意味を持つわけではない。それと同樣に,音韻は示差的機能を有するが,その本質的屬性のすべてが示差的意味を持つわけではない。その本質的屬性と定められた諸性質の中には,例へば美的欲求或は勞力經濟上の欲求から生じて,現にそれらの欲求に應じつ」あるものも有らうし,又,過去に於て既にその存在意義を失ひながら,ただ慣習としてその殘骸の今に保存されてゐるものもあらう。くれぐれも忘るべからざることは,音韻は價値そのものに非ずして價値を荷ふ實體であり,評價の結果生ずるものに非ずして,評價に先立つて存在する所の對象である,といふ事實である。
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かやうなわけで,私は,Trubetzkoy一派の誤れる「普遍主義」「構造主義」(註8)を排撃し,理想から現實を演繹するやうな論理的誤謬を斥け,あくまで音韻を「與へられたる既存の對象」として觀察しようとする。私は,「知的意義の分化」といふ使命から現實の音韻状態を演鐸する手順を須ゐずして,直ちに現實の言語意識そのものにぶつかつて行く。何故なら,對象は,定義されるに先立つて,既に客觀世界に儼存してゐるからである。
註(1)Trubetzkoy-一派の人々は, Phonologie(phonologie)を音韻論の意に用ゐ,Phonetik(phonetique)を音聲學の意に用ゐる。併し, Saussure及びその系統に屬するMeillet, Vendryes, Grammont等は,逆に,前者を音聲學の意に胴ゐ,後者を音韻論の意に用ゐてゐる。
(2) Projet de terminologie phonologique standardisee(TraVaux du Cercle Linguistique de Prague 4,1931, pp.309-326.
N.Trubetzkoy:La phonologie actueUe(Psychologie du Langage numero 1-4 de 1933 du Journal de Psychologie.)pp.227-246.
(3) E・Durkheimは左のやうな意味のことを述べてゐる。これは, Trubetzkoyの説を批到する私自身の精神と,よく合致するものである。「かゝる場合 (種全醴が,未だ一の新形態の下に決定的に固定しないで進化の過渡期に在る場合)には,爾後實現せられ諸事實中に與へられる唯一の常態的類型は過去のそれであるけれども,最早それは新しき生存條件と關係なきものである。かくて一の事實は,最早その境遇の諸要求に全然應ずることなく,一の種の全領域に亙つて永績することがでさる。」(Les regles de la methode sociologique,7. 6d・,1919, pp・75-76・譯文は田邊壽利氏譯「社會學研究法」(昭和三年)159頁に據つた。)
(4) 「事物に對する我々の欲求は,その事物を自己の思ひ通りに存在せしめ得るものでなく,從つてこの欲求は.無からその事物を引出してそれに存在を附與し得るものではない。事物が自己の存在を維持するのは,他種の諸原因によるのである。事物が示す效用に對して我々の有つ感情は,我々を鼓舞してこれ等の原因を作用せしめ,而してその中に含まれてゐる諸結果を引出さしめ得る。然しながら,我々をしてこれ等の結果を無より現出せしむるものではない。この立言は,一點疑ひの餘地なきものであつて,物質的現象たると心理的現象たるとを問はず,適合するものである。たとへ社會的事實が,その極端なる非物質性のために,談つて外見上それ固有の實態を全然缺如せるかの如く見らるるとも・右の立言は祉會學に於いて最早爭ひ得ざるものである。」(Durkheim前掲書(註3)PP・111-112・譯文は田邊氏譯219-220頁に據る。)
(5)例一ば,「音の産出に於て働く要因は,呼氣・口腔分節,喉頭の振動汲び鼻腔の共鳴である。併し,かやうな音の産出の要因を列擧しても,音韻の示差的要素(les elements differentiels)は一向決定されない。其れを分類するには,要素が何から成立して居るかを知る事よりも,要素をお互に識別させる所のものを知る事が,遙かに重要である。」(Cours de linguistique generale, 2・ed・・1922・PP・68-69・譯文は小林英夫氏譯「言語学原論」(昭和三年)87頁に據る。)なほ,同書PP・164-165(小林氏譯241-242頁)など。
(6) Saussure前掲書(註5)P.56.小林氏譯68頁。
(7)Saussure前掲書(註5)P.164・譯文は小林氏譯240-24ユ頁に據る。
(8)La phonologie actuelle(註2)PP.233-234.我々は,現實の言語制度がその目的を實現せんがために如何に働くか,又その際現實の各音韻が音韻體系の中に在つてそれぞれ如何なる役割を演ずるかを,考察しようとする者である。決して,Trubetzkoyの如く,現實の言語制度そのものを理想の方から演釋しようとする者ではない。現實はあくまで現實である。現に與へられてゐるものであつて,決して他の原理から演譯せらるべきものではない。
(補註) 「音韻鱧系」編第一章參照。
最終更新:2015年01月31日 23:39