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時枝誠記『日本文法口語篇』第一章 總論 三 言語の本質と言語に於ける單位的なもの(一)

 言語の本質が何であるかといふ言語本質觀には、今日、全く異なつた二の考方が對立してゐる。その一は、言語は思想と音聲或は文字が結合して出來上つた一の構成體であると見る考方である。これを構成的言語觀、或は言語構成觀と名づけることが出來る。言語の研究にあたつて、對象の觀察、分析に先立つて、このやうな本質觀が問題にされるのは、何故であるかといふならば、言語は我々にとつて極めて親近なものであるにも拘はらず、それは、我々の周圍にある動物や植物などのやうに直接に手に觸れ、目に訴へて觀察することの出來るものと異なり、その正體を捉へることが困難なものであるからである。そこで言語の現象的な事實から、言語はこれこれのものであらうといふ臆測のもとに、一の假説を立てて理論を構威して行かなければならないのである。この假論が、言語のあらゆる現象を殘すところなく論明しおほせるならば、その時、この假説は一の言語理論として定立され、更に種々な言語現象を説明する根本理論となることが出來るのである。右に述べた言語構成觀は、言語は種々な要素の結合體と見るのであるから、言語研究はこれらの要素を抽出して、それが如何に結合されてゐるかを研究することになるのである。言語に對するこのやうな見方及び研究方法は、物質を原子に分析し、その結合の歌態を研究する自然科學の物質觀とその方法とに類似してゐると見ることが出來るのである。このやうにして言語から、音聲と思想との二要素が抽出される。音聲を更に分解すれば、音節が抽出され、音節は更に單音に分解されることになる。しかしながら、このやうに分解を推し進めて行けば、それは結局言語の一面しか明かにすることが出來ないと考へられるところから、思想と音聲との結合したものを單位として分解を施して行く時、句、或は橋本進吉博士のいふところの文節なる單位が得られ、更に之れを思想と音聲との相關關係を破壊することなく分解して行く時、單語に到達する。單語の性質と、單語相互の關係の法則を文法といふならば、文法は、單語を究極の單位として、それが結合される場合の法則をいふものであると見ることが出來るのである。文法の概念は、一般に右のやうに考へられてゐるのであるが、右のやうな考方の特質は、言語の音聲に於いて、究極の單位として單音を分析し、單音の結合に於いて音聲を論明し、理解して行かうとする考方と全く同樣で、言語に於いて、究極の單位として單語を抽出し、單語の結合に於いて言語を説明し、その結合法に於いて文法なる言語事實を認めようとするのである。從來の文法學が、單語論、品詞論を基礎とし、或は中心として、その上に、文章論、或は措辭論が組織されたのは、右のやうな理由に基づくのであつて、根本は、言語を要素或は單位の結合から構成されてゐると見る言語構成觀の當然の結論であると見ることが出來るのである。
 言語構成觀は、既に述べたやうに、自然科學的物質構成觀から類推された言語觀であつて、それがはたして、人間的事實に屬する言語のあらゆる現象を論明し蠱すことが出來るかどうかといふ疑問から次の別個の言語觀が成立するのである。
 次に擧げるところの言語観は、言語を人間が自己の思想を外部に表現する精神・生理的活動そのものと見る考方である。これは、言語を要素の結合としてでなく、表現過程そのものに於いて言語を見ようとするのであるから、これを過程的言語觀、或は言語過程觀と名付けることが出來るであらう。
 言語過程觀は、日本の古い國語研究の中に培はれた言語本質觀であつて、それはヨーロッパに發達した言語構成觀に對立する全く異なつた言語に對する思想である。この言語觀の由來とその理論體系、また言語構成觀との相違については、私の『國語學史』(岩波書店、昭和十五年十二月刊)及び『國語學原論』(同、昭和十六年十二月刊)に詳論したので、委細はそれに讓つて、ここでは極めて簡單にその概要を述べることとする。
 一 言語は思想の表現であり、また理解である。思想の表現過程及び理解過程そのものが言語であると考へるのである。
 ニ 思想の表現がすべて言語であるとはいふことが出來ない。思想の表現は、繪畫、音樂、舞踊等によつても行はれるが、言語は、音聲(發音行爲)或は文字(記載行爲)によつて行はれる表現行爲である。同時に、音聲(聽取行爲)或は文字(讀書行爲)によつて行はれる理解行爲である。
 三 言語は、從つて人間行爲の一に屬する。言語を行爲する主體を言語主體と名付けるならば、言語は、言語主體の行爲、實踐としてのみ成立する。そして、それは常に時間の上に展開する。時間的事實であるといふことは、言語の根本的性格である。繪畫や彫刻も
行爲としてまた實踐として成立するが、それは平面或は空間の上に展開する事實である。
 四 言語が人間的行爲であり、思想傳達の形式であるといふことは、表現の主體(話手)、理解の主體(聞手)を豫想することであり、話手、聞手は、言語成立の不可缺の條件である。
 五 構成的言語觀で、言語の構成要素の一と考へられてゐる思想は、言語過程觀に於いては、表現される内容として、言語の成立にはこれもまた不可缺の條件ではあるが、言語そのものに屬するものではない。
 六 構成的言語觀で、言語の構成要素と考へられてゐる音聲及び文字は、言語過程觀に於いては、表現の一の段階と考へられる。
 七 言語は、常に言語主體の目的意識に基づく實踐的行爲であり、從つて、表現を調整する技術を拌ふものである。
 八 言語を實踐する言語主體の立場を主體的立場といび、言語を觀察し研究する立場を觀察的立場といひ、この兩者の立場を混同することが許されないと同時に、この兩者の立場の關係を明かにして置くことは重要である。
 九 言語の觀察者が、他の言語主體によつて生産された言語を觀察する場合でも、これを觀察者自身の主體的活動に移行して、内省觀察する以外に、言語研究の方法は考へられない。他人の言語をそのままに觀察するといふことは出來ないことである。奈良時代の言語を觀察するといふことは、奈良時代の言語主體の言語的行爲を、觀察者の主體的活動として再現することによって觀察が可能とされるのである。これを別の言葉でいふならば、「觀察的立場は、常に主體的立場を前提とすることによつてのみ可能とされる。」(一)といふことになる。
 一〇 言語研究者の觀察の對象となるのは、常に特定個人の個々の言語である。その中から特殊的現象と普遍的現象とをよりわけ、原理的なもの、法則的なものを歸納するのは、言語研究者の任務である。このやうな普遍化的認識と同時に、特定個人の言語の特殊相を明かにする個別化的認識も言語研究者の重要な任務である。この二つの方向は、相寄り相助けて完全な言語研究の體系を構成する。
 以上は、言語過程觀の最も根本的な言語に對する考方であつて、本書の論述の基調をなすものである。
(一) 『國語學原論』三九頁

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最終更新:2020年01月27日 15:56