時枝誠記『日本文法口語篇』第一章 總論 四 言語の本質と言語に於ける單位的なもの(二)

 言語構成觀に對立する言語過程觀の概略は、以上述べたやうなものであるが、本書に於いては、日本文法を專ら右に述べた言語過程觀の立場に於いて概説しようと思ふ。從つて、言語の究極的單位として單語を考へ、單語を基本とし、出發點として、その結合に於いて言語を考へて行かうとする構成的な考方をとらないで、分析以前の統一體としての言語的事實を捉へ、それを記述することから出發しようとするのである。このやうな研究對象としての統一體としての言語的事實を、言語に於ける單位と名付けるならば、言語に於いて單位と認められるものはどのやうなものであらうか。言語に於ける單位的なものとして、私は次の三つのものを擧げようと思ふ。
  一 語
  二 文
  三 文章
 ここにいふ語及び文は、從來の文法研究に於いて取扱はれたものであるが、文章は、從來、語及び文の集積或は運用として扱はれたもので、例へば、芭蕉の『奥の細道』や漱石の『行人』のやうな一篇の言語的作品をいふのである。これらの文章が、それ自身一の統一體であることに於いて語や文と異なるものでないことは明かである。
 今、この三つのものを文法研究の單位と稱する時、ここに用ゐられた單位の概念を明かにして置くことは、右の對象設定の推論を明かにする上に有效であらうと思ふので、以下そのことについて述べようと思ふ。
 一般に、語が言語に於ける單位であると云はれる場合と、私が右に語を單位とするといふ場合の單位の概念には、相當の距離があるのである。一般の用法では、言語の分析の窮極に於いて見出せる分析不可能なものとして、これを言語の單位といふのであつて、それは原子論的單位としての單位の意味である。そこには全體に對する部分の意味が存在するのであつて、それは構成的言語觀の當然の蹄結である。釈がここに云ふ單位といふのは、質的統一體としての全體概念である。人を數へる場合に單位として用ゐられる三人、五人の「人」は、長さや重さを計量する場合に用ゐられる尺や瓦が、量を分割するための基本量を意味するのと異なり、また全體を分析して得られる究極體を意味するのとも異なり、全く質的統一體を意味するところの單位である。言語の單位として擧げた右の三者は、音聲または文字による思想の表現としての言語であることに於いて、根本的性質を同じくし、かつそれぞれに完全な統一體であることによつてこれを言語研究の單位といふことが出來るのである。このやうな單位の概念は、例へば、書籍に於いて、單行本、全集、叢書を、それぞれに書籍の單位として取扱ふのと同様に考へることが出來るのである。
 語と文とを言語研究の對象とすることは、從來の文法學に於いて行はれたことで、既に相當の業績を收めたことであるが、ここに云ふ文章については、從來、專ら修辭論に於いて取扱はれて來たことであつて、それが果して、文法學上の對象となり得るかどうかについて疑ふものが多いのではないかと思ふ。文章が國語學の對象となり得るかどうかについて疑はれるといふことは、それが專ら個別的な技術に屬することで、そこから一般的な法則を抽象することが不可能ではないかといふ考へに基づくのである。もちろん文章成立の條件は、個々の場合によつて異なり、そこには一般的法則が定立しないやうに考へられるが、文章が文章として成立するには、それが繪畫とも異なり、音樂とも異なる言語の一般的原則の上に立つて成立するものであることは明かであるから、そこから一般的法則を抽象し得ないとは云ふことが出來ない譯である。文章の構造或は文章の法則は、語や文の研究から歸納し得るものでなく、文章を一の言語的單位として、これを正面の對象に据ゑることから始めなければならないのである。
 文章が、今日専ら修辭法の問題として取上げられてゐることは、語や文が嘗ては修辭法の立場から論ぜられたのと同じである。規範を論ずるには、その根底に、事實の科學的な研究や分析が必要であるところから、語や文の修辭論の前提として、科學的な語研究や文研究が成立するやうになつた事情を思へば、規範的文章論が成立するためには、當然科學的な文章研究が起こらなければならないことが分かるのである。文章のことは、修辭論に屬することで、科學的な言語研究の對象とするに値しないもののやうに考へることは正しいことではない。
 文章を對象として研究することは、一個の教材をそれ自身一の統一體として取扱はねばならない國語教育の方面から、現實の問題として強く要請されてゐることである。それは、國語教育の當面の問題は、語でもなく、また文でもなく、實に統一體としての文章(音聲言語の場合も含めて)であるからである。國語教育に於いては、問題は文章の理解と表現との實踐、訓練にあることは勿論であるが、そのやうな教育活動の根底に、文章學の確固たる裏付なくしては、その教育的指導を完全に果すことが出來ない譯である。
 ここで再び最初の文法學の對象は何であるかの問題に立返つて見るならば、「文法學は、言語に於ける單位である語、文、文章を對象として、その性質、構造、體系を研究し、その間に存する法則を明かにする學問であつて、同じく言語研究ではあるが、言語の構成要素である音聲、文字、意味等を研究する學問とは異なるのである。文法學は以上のやうなものであるから、古來、それが言語研究の中樞的な位遣を占め、時には言語學と同意語のやうに考へられたのも常然である。音聲、文字、意味の研究も、このやうな文法研究から派生し、その發展として分化して來たものであると見ることが出來る。これは國語學の歴史に於いても認め得ることであり、語法或は文法といふやうな名稱も、その間の事情を物語るものである。近代言語學は、言語の歴史的變邏や方言的分裂を主要な言語研究の課題にして來たために、文法研究は圏外に置かれたかのやうな觀があつたけれども、文法研究が、常に言語を言語としての統一體の姿に於いてこれを把握し研究する部門であることに於いて、言語學の基礎的で、かつ中樞的な領域であることは動かせないであらう。
 以上のやうな單位設定の方法に對して、著しい對照をなすものは、從來の文法研究に於ける單位の概念である。そこでは、單位は言語の分析に於いて到達する分析不可能な・究極的なものとして考へられた。そこには、自然科學に於ける物質構造の考方が反映して居ることを兒出すのである。文法は、これら單位である語の運用上の法則として考へられて來たのである。しかしながら、自然科學的な單位の概念を、言語の研究に適用することは、そもそも無理なことであつて、次第に、統一體としての單位概念に移行するのは自然であつた。そのことは、文法研究の歴史を見れば、明かであつて、語を文法研究の單位として
設定することに既にそれが現れて居る。山田孝雄博士が、語を言語に於ける單位と考へ、その單位の意味を述べて、
 單位とは分解を施すことを前提としたる觀念にしてその分解の極限の地位をさすものなり。(一)
といはれる時、その單位の意味は、正に原子論的單位の意味であるが、
單語とは語として分解の極に逹したる單位にして(二)
といはれる時は、既に「語として」といふ質的統一體としての單位の概念が混入してゐるのである。語を質的統一體として見るならば、ここに當然起こらなければならない疑問は、文もまた語と同樣に言語に於ける單位ではないかといふことである。この疑問に對して山田博士は、
 語といふは思想の發表の材料として見ての名目にして、文といふは思想その事としての名目なり(三)
といふやうに説明して居られるのであるが、文の中の語が、思想發表の材料として考へられるべきものであるかといふことには、疑問が殘るのである。文法研究に、質的統一體としての單位概念を導入するならば、文及び文章も、語に劣らず、言語に於ける嚴然たる單
位として認められなければならないのである。
(一) 『日本文法學概論』二九頁
(二) 『改訂版日本文法講義』九頁
(三) 『日本文法學概論』二〇頁

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最終更新:2020年01月27日 15:59