時枝誠記『日本文法口語篇』第一章 總論 五 文法用語

 今日文法學上用ゐられてゐる用語には、體言、用言、係《かかり》、結《むすび》、その他、用言の活用形に關する未然形、連用形等、或は、活用の種類に關する四段活用、下一段活用、上一段活用等の名稱のやうに、古い國語學上の用語を繼承したものもあるが、品詞名の大部分は、ヨーロッパ諸國語特にオランダ、イギリス文法の用語の飜譯に基づくものが多い。それら、外國文法の用語の飜譯については、大槻文彦博士に、『和蘭宇典文典の譯述起原』(一)の論文があつて、詳細に述べられてゐる。文法上の用語のやうなものは、その實用的見地から云つても、世界共通であることは、望ましいことであるが、言語は本來歴皮的傳統的のもので、言語によつて、その性格を著しく異にし、その體系も從つて相違するので、これを一律に統一してしまふことは、理論的に殆ど不可能のことである。同じく印歐語族に屬する言語の中でも、英語とオランダ語とはその性格を異にしてゐるので、例へば、英語のadjectiveに相當するものは、オランダ語では、By Voeglyke Naam Woordenとして、名詞に近いものとして取扱はれてゐるのは、それが名詞と同じやうな格變化をするためである。して見れば、印歐語とは著しく性格を異にする國語の文法用語にそれ獨特のものがあるのは、當然のことと云ふべきで、一端の類似から同一名稱を借用する時は、却つて誤解と混亂をひき起こす原因とならないとも限らない。ただし國語内部で、同一文法的事實に種々な用語が用ゐられることは、決して望ましいことではないから、適當にこれを整理統一することは必要であるばかりでなく、徒に奇を好んで新用語を創作することは、嚴に戒める必要があると思ふのである。ただここで注意したいことは、用語は便宜的なものに過ぎないとは云つても、名稱が事實を反映してゐることは、實用上極めて便宜であるから、用語の制定に當つては、文法理論、學説の嚴密な檢討の上に立つてなされなければならないことは云ふまでもない。
 今日の文法用語の大部分が、外國文典の飜譯に起原するものであることは既に述べたことであり、そしてその中のあるものは、習慣が固定して、確固として拔くことの出來ないものになつてゐるものがあるが、もともと、性格を異にしたヨーロッパ文法の用語をそのまま飜譯借用したために、今日、國語の正しい認識に妨げになつて居るもの、或は不便を感ずるやうなものが少くない。これらについては、再檢討をする必要を感ずるのであるが、習慣が久しいために、これを變改することは容易でないのであるから、國語の文法について考へようとするものは、さしあたり、用語にひきずられることなく、事實そのものについて深い洞察を怠らないやうにする必要がある。
 次に、現在の私の見解に基づいて、問題とすべき文法上の用語を列擧して見ようと思ふ。
 一 形容詞
 本來、adjective或はattributiveの譯語として出來たもので、それはこれらの語の持つ機能の上から、實質概念を表はす名詞に對して、屬性概念を表はす語として、名詞に附屬する語であると考へるところに成立した名稱である。從つて、この品詞名には、多分に文論に於ける文構成要素の考へを交へて居ることは明かである。これに反して、國語に於いて形容詞と呼ばれる語は、元來、用言中の一部として認められたもので、それは、語形の變らぬ體言に對して、語形の變る語として認められたものである。勿論、古く國語學上に於いても、これを形状の語といふやうに命名したものもあるが、(二)それが動詞と一類をなして、用言であると認められたことは同じである。國語に於いては、以上のやうに、語の機能的關係からではなく、全く語そのものの持つ性質上から分類されたものである。このやうに、adjectiveと形容詞とは全く異なつた性質を持つた語として理解されたものであるにも拘はらず、これに形容詞といふ屬性概念の表現を意味するやうな名稱が與へられた結果、國語の文法操作の上に、少からぬ混亂を招いたことは事實である。その一は、
  イ 美しい鳥
  ロ 飛ぶ鳥
イの美しいが形容詞と呼ばれるならば、ロの飛ぶも當然形容詞と呼ばれなければならないのではないかと云ふ疑問である。事實英語に於いて、a flying birdの傍線の語は、participial adjectiveと呼ばれて、形容詞として取扱はれてゐるのである。國語に於いては、更に進んで以上のやうな形容詞、動詞の連體形を、形容詞的修飾語などと呼ばれることがあるが、かうなると、もはや用言の一類としての形容詞の名義を逸脱して、英語に於けるattributiveの概念そのままで用ゐたことになる。これは甚しい概念の混亂であつて、國語の形容詞の本質的性格を確認するためには、むしろ、形容詞の名稱を避けて、用言の名稱に立歸る必要があるのである。そして、この形容詞の名稱は、近時學者によつて指摘されるやうになつた特別の語、即ち連體修飾語にのみ用ゐられる「或る」「あらゆる」「件の」等の語のために保留して置くことが望ましいのではないかと思ふ。形容詞の原義は、文の成分としての意味を含めてゐるのであるから、このやうにして保留された形容詞の名義の中には、時に一切の連體修飾語として用ゐられた語を含めて云ふことが出來るのである。本書では、暫く從來の慣用に從ふこととしたので、英語等に於けるadjectiveの概念は、形容詞よりも、近頃使はれるやうになつた連體詞に相當するものと考へてほしいのである。
 二 助動詞
 この品詞名も今日廣く行はれてゐるものであるが、その起源はやはり英文法などのAuxiliary verbに發してゐるものである。大槻文彦博士の『廣日本文典』には次のやうに説明してある。
 助動詞ハ、動詞ノ活用ノ、其意ヲ盡サヾルヲ助ケムガ爲ニ、其下ニ付キテ、更ニ種々ノ意義ヲ添フル語ナリ。
 これは全く、英文法などの概念に從つて、動詞の意義を補助するものと考へたのであるが、今日、助動詞として取扱はれてゐる大部分の語は、古く、「てにをは」、「てには」、「辭」などの名稱によつて取扱はれて來たもので、それは、決して、動詞に種々の意義を添へるものとして、考へられたものではなかつた。むしろ今日の助詞と一括して、助詞が活用のないてにはであるのに對して、これらの語は、活用のあるてにはと考へられたので、近世の國語學者は助詞に對して語辭體言(東條義門『活語指南』)、靜辭(富樫廣蔭『詞の玉橋』)の名稱を用ゐ、いはゆる助動詞に對しては、語辭用言或は動辭の名稱を用ゐた。ところが明治以後になつて、辭の中の活用あるものを、助動詞と概念して、助詞とは全く別のカテゴリーに所屬させたために、これらの語の眞義が全く忘れ去られてしまつた。てには或は辭に屬する語は、國語に於ける重要な語として、國語研究の中樞をなして來たのであるが、これらの語の眞義が忘れ去られたといふことは、同時に、國語の眞の性格が理解出來なくなつたことを意味するのである。『廣日本文典』は既に述べたやうな見解であるから、助動詞を、動詞、形容詞の次に論じ、山田博士の『日本文法論』『日本文法學概論』は、助動詞といふ名稱は用ゐられなかつたが、むしろ積極的に動詞の語尾として、動詞内部の構成部分のやうに取扱はれて、これを複語尾と名付けられた。助動詞が助詞と全く異質なものとして考へられたことは同じである。橋本進吉博士は、その文節論の立場から、文節構成に於ける助詞と助動詞との機能が同一であることを認められて、これを古來の名稱である辭の名義に一括されたのであるが、それは專ら單獨で文節を構成し得るもの、常に他の語に件はれるものといふ語の分類原理に從つて、辭を附屬する語として考へられ、助動詞をその中に所屬させたので、古來の辭としての助動詞の眞義を復活されたのではなかつた。
 本書では、助動詞の眞義を古來のてには研究の中に求めて、これを辭の一類としたのであるから、助動詞の名稱そのものが、既に内容の實際を示さないことになる。そこで、もし適切な名稱を求めるとするならば、動辭、活用あるてには、動くてには等の名稱を選ぶのであるが、習慣を奪重して暫く助動詞の名稱を存置することとした。
 代名詞の名稱とその内容についても問題とすべきことが多いが、それについては、その項目の中で論ずる豫定である。
 文節の名稱も、橋本進吉博士の提唱以來、國定教科書などにも採用されるやうになつたが、このことについても問題があるので、文論中、「句と入子型構造」の中に附説することとした。
 (一) 明治三十一年三月、『復軒雜纂』に收む。
 (二) 富士谷成章の『|裝《よそひ》圖』に於いては|状《さま》といひ、鈴木朖の『言語四種論』に於いては形状の詞といふ。

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最終更新:2020年01月28日 00:49