芳賀矢一・杉谷代水『作文講話及び文範』 第四講 国文の諸体

第四講 国文の諸体

文体の不統一を極めた時代、雅文式、漢文直訳式、折衷体、口語体の文章、洋文直訳式、速記式、折衷式

 どこの国にも文体は種々あって、決して一様一式を以てあらゆる場合に応用して行くといふ事はないが、また我が日本ほど文体沢山の国も無い。とりわけ明治は最も文体の不統一を極めた時代である。一枚の新聞紙を開けて見ても、論説欄には漢文直訳風な堅くるしい文体があり、三面雑報には気の利いた西洋風の言文一致や、ひねった戯作風の俗文体が雑居してをり、又二面の処には平明直実な普通文があるといった風。そこで今日の文章を学ぶ者はあるだけの文体に一通り通じておかねばならぬとは、骨の折れた事である。併し将来は文体も追々統一されて、大概一種か二種位になって了ふのは明らかで、今日でもその傾向は歴然と見えてをる。つまり今日の修業は就中《なかんづく》将来まで残るべき文体を主として習学し、其他の諸体は心得の為に読味ひ、若くは折々試作する位に止めて十分なのである。
 如何なる文体が将来の文体になるかといふ事を説く前に、今日の諸文体を一通り挙げねばならぬ。
 今日の文体を大別すると【文章体】と【口語体】との二つになるが、両者の中に亦種々の文体がある。文章体の方で第一、
 雅文式といふのは、純粋に古代の国文を模した体式(擬古文)及びこれを少しく平易にした体式で、一局部の国学者や歌学者や其門中の婦人などの綴る体式である。明治二十年前後国学復興の当時は一時盛んに行はれて、著名な文学者も大分影響を受けたが、爾後新国文学の発達と共に追々一局部に引っ込み、今日では旧派の歌学雑誌以外には餘り見受けぬやうである。この一派の文章は厳重に中古文(或は徳川時代の国学者の綴った擬古文)を範として筆を執るので、文法に統一があって格が正しいといふ一点は他の諸文体の遠く及ばざる所であるが、擬古の習として兔角《とかく》思想までが過去に傾き、取材構想の上にも束縛を免れぬ。又文字語句皆典拠を貴ぶところから頗《すこぶ》る自由を欠き、言語の為に思想を左右せられる事があり勝である。要するに乱雑な明治の文法をやゝ匡正した外には功績がなく、雅文それ自身は一向発達もせずに了った。随《したがっ》て頭抜けた文章家も出ず、誰も〳〵皆同じやうな紋切り型な文を綴ったものである。其の中では故落合直文等は文材であったが、それも和漢折衷の新体で無ければ佳い文章も無いやうである。小中村義象氏との合著「家庭歴史読本」の中から文例を引く。
「夜もふけぬ。兄弟出で立ちぬ。十郎炬火ふりあげて五郎よこなたへ向きね。あかぬ顔見んといふ。五郎も兄と見んは今夜ばかりとおもひしかば、しばしうちまもる。互の目にはたゞ涙あるのみ。あまたの館《やかた》を通《とほ》りぬ。館ごとに咎《とが》められぬ。されどいづこもよきさまにつくろひて過ぎぬ。さて祐経《すけつね》が館へちかづきぬ。こゝぞといへば五郎うなづく、うちへ入りしに、人々皆ひるの狩場《かりば》にうちつかれ、酒など飲みてゑひふしたれば、たえてとがむるものなし。猶《な》ほ奥《おく》のかたざまへと行きけるに、祐経あらず。いかゞしたらんとたづねまどふ。かれ、さとりて館《やかた》やかへたらんと、くちをしう思ひてありしに、たま〳〵本多親経《ほんだちかつね》にあひぬ。親経《ちかつね》は畠山重忠《はたけやましげたゞ》の家士《かし》にて、もとより兄弟の志《こゝろざし》を知るものなりければ、ひそかに祐経のありかを示す。兄弟うれしく思ひて、やがて、そこにいたりけるに、まことに敵《かたき》ありけり。酒にゑひてうちふしてありけり。はやきり給へ、斬らんとて互《たがひ》にいさむ。五郎、この年月のうらみたゞ一太刀にと思ひしに十郎、寝いりたるものをきるは死人をきるにひとし、起してこそとて枕を蹴《け》る。祐経おどろきさめて、枕もとなる太刀をとらんとす。十郎、起しもたてず斬りつく。五郎もえたりとつゞきて斬りつく。祐経遂に斃《たふ》る。この物音《ものおと》に人々たちさわぐ。いそぎとゞめをさして、さて前庭《ぜんてい》に出づ。をりしも五月の廿八日なり。さみだれごろの空なれば、夜のくらきこと墨の如し。狼藉《らうぜき》ものとどよめく声に、こは大事こそおこりたれと、人々、炬火ともしてはせあつまる。」(落合直文、小中村義象「裾野の嵐」)
 圏点は作者自身に打ったもの。
 萩野由之氏も多作はしなかったが擬古文派の中では錚々《さう〳〵》たる人であった。
 この雅文派の中で異彩を放ったのは森鴎外氏の訳文である。まはりくどい優長な大まかな雅文で、どれだけ微《こま》かな思想が書き写し得らるゝかを研究するには氏の翻訳「水沫集《みなわしふ》」を繙《ひもと》くが一番早い。こゝに挙げたのはまだ円熟しないうちの例であるが、それでも雅語の言廻しのいかにも巧みな点だけは十分わかる。
「中ひと日おきて十三日の午後《ごゞ》、マラアは例《れい》の如く人を遠《とほ》ざけて一|間《ま》に籠《こも》り、あすの新聞《しんぶん》の社説《しゃせつ》をぞ書いたりける。この日|郵便《いうびん》の書状《しょじゃう》幾《いく》つか届《とゞ》きぬ。取り継《つ》ぎたるシモンヌは、そが中に女の手して書いたるが一つまじれるを早《はや》くも見出して、一たびは焼《や》き棄《す》つべきかとおもひぬ。されど日ごろ夫《をっと》と勢《いきほひ》を争《あらそ》ふと聞《きこ》えしダントン、ロペスピエヽルなんどがあしき計較《たくみ》をなすことあらむに、そを窃《ひそか》に告《つ》げむとするふみを、過《あやま》ちて失《うしな》ふやうなる事あらば、あしかりなむと思ひかへして、そが儘《まゝ》に夫《をっと》の机《つくゑ》の上におきて出でしが、猶《なほ》心ならねば彼《かの》文《ふみ》を読《よ》むらん折《をり》の夫の様子《やうす》を覗《うかゞ》はゞやと、錠《ぢゃう》の孔《あな》よりのぞき居たり。日ごろマラアが許《もと》に来るふみの数はいと多かりき。私《わたくし》の仇《あだ》を報《むく》いむとする人も国《くに》の賊《ぞく》を亡《ほろぼ》さむとおもふものも、むかしエネチヤにありきといふ獅子《しゝ》のあぎとに投《とう》ずる如く、ひそかに文に認《したゝ》めてマラアにのみぞ訴《うった》へける。けふ来しふみも珍《めづ》らしからぬ事のみなりと覚《おぼ》しくマラアが色は一たびも動《うご》かざりしが、最後《さいご》におぽえある少女《をとめ》が「ビリエツト」の封《ふう》を披《ひら》きて読《よ》みしとき、おもてに喜《よろこび》をあらはして、二たび三たび繰返《くりかへ》し見るやうなりき。窺《うかゞ》ひ居たるシモンヌはいよ〳〵安からぬことにおもひて、かの少女をば何事ありてもわが夫に逢《あ》はせじと心に誓《ちか》ひぬ。(森鴎外氏訳「女丈夫」)
 又雅文式のどこまでも和《やは》らかで、優長で、苦労を知らぬ上流婦人のやうな文体と相対して、ごつ〳〵した、誇大的な、覇気を貴ぶ漢文直訳式といふ一体がある。漢学が旧時代に於て、すべての学問の最上位にあった余習で、明治になっても初年の間は漢文及び漢文直訳式が先進の間に行はれ、政府の法令《はふれい》、告諭《こくゆ》から新聞紙の雑報まで尽《こと〴〵》く漢文直訳式であった。その後新小説が起り国文学が勃興《ぼっかう》して以来一般の文章は非常に変化し、漢文直訳式も大影響を受けたが、それでも宮中や府中から出る荘重な儀式的な文章には今日までも漢文直訳式が用ゐられてゐる。新聞紙の政論などには、尤も久しくこの式の文章が残った。小説の著訳にすらも矢野龍渓、柴東海、森田思軒などは漢文直訳式を用ゐた。この派の文章は長短功過共に雅文派の正反対といってよい。左に有名な二三の文例を示す。
「新聞《しんぶん》先生|有《あ》り、天朝《てんてう》を以て親玉《おやだま》と為し、万民《ばんみん》を友達《ともだち》と為し、士族《しぞく》を厄介《やくかい》と為し、華族《くゎぞく》を間抜《まぬけ》と為す。着《き》るに衣服《いふく》無く、食《くら》ふに皿鉢《さらはち》無し、社《しゃ》を家《いへ》とし飯《めし》を貰《もら》って命《いのち》の活《いき》て有るを楽《たのし》む。聴《き》けば則ち本《もと》を糺《たゞ》し、末《すゑ》を抉《ゑぐ》り、書《か》けば則ち肝《きも》を潰《つぶ》させ、沫《あわ》を吹《ふ》かせ、唯《たゞ》訳《わけ》を是れ諭《さと》す。焉《いづく》んぞ其|跋《ばつ》を知らん。貴介《きかい》公子|縉紳処士《しんしんしょし》有り、吾が新聞を読《よ》んで之を彼是と言ひ、頻《しき》りに穴《あな》を捜《さが》し、疵《きず》を求《もと》め、目《め》を怒《いか》らし、歯《は》を喰《くひ》しばり、法律《はふりつ》を担《かつ》ぎ出し、議論蜂起《ぎろんほうき》す、先生是に於て、忽《たちま》ち硯《すゞり》を破《わ》り毫《ふで》を擲《なげう》ち頭《かしら》を隠《か》くし尻《しり》を抱《かゝ》へ、脚《あし》に任せて脱走《だっそう》し、袗《かたびら》を殺《ころ》して醪《さけ》を飲む。苦《く》も無《な》く憂《うれひ》も無く、其|鼾《いびき》嗷々たり。忽然《こつぜん》として醒《さ》め莞爾《くゎんじ》として笑《わら》ふ。深《ふか》く考《かnが》へても圧制《あっせい》の益《えき》あるを知らず、善《よ》く思《おも》へば必らず自由《じゆう》の妙《めう》を悟《さと》らん。月給の身《み》を縛《しば》ると権妻《ごんさい》の竅《あな》に陥《おち》いるとを覚《おぼ》えざるなり。窃《ひそ》かに世間を視《み》れば蠢々焉《しゅん〳〵えん》たる糞中《ふんちう》の蛆虫《うじむし》の如し。先生の新聞《しんぶん》に於けるは胡瓜《きうり》と河童《かっぱ》との如し。(成島柳北「新聞の頌」)
 成島柳北は明治の初年の新聞界に最も盛名のあった記者で論説でも記事でも記游でも雑報でも、皆この通りの軽妙なる漢文直訳式で読ませた。
(上略)「既ニシテー妃《 ぴ》軽裾《けいきょ》ヲ提《ひっさ》ゲ除歩《じょほ》シテ散士ガ傍ニ近ヅク、年二十三四|緑眸皓歯《りょくぼうかうし》黄金ノ髪《はつ》ヲ垂レ(西人緑眸ニシテ毛髪ノ金光アルヲ称シテ美人トナス)細腰《さいえう》氷肌《へうき》遊散ノ文履ヲ踏《ふ》ミ繊手《せんしゅ》ヲ揚《あ》ゲテ楊柳《やうりう》一枝ヲ折ル、其|態度《たいど》風采《ふうさい》梨花ノ露ヲ含《ふみ》ミ紅蓮《こうれん》ノ緑池《りょくち》ニ浴《よく》スルガ如シ、顧《かへり》ミテ散士ヲ揖《いう》シテ曰ク郎君《らうくん》ハ先ニ河上相見ヘシ君子ニアラズヤ、此|幽谷《いうこく》ハ牧童《ぼくどう》漁父《ぎょふ》猶ホ来ル稀《まれ》ナリ、況ヤ紳縉《しんしん》貴公子ニ於テオヤ、想《おも》フニ郎君|頭髪《とうはつ》黒ク眼光|鋭《するど》シ、西班牙《スペイン》ノ士人ニ非サル無キヲ得ンヤト、散士答ヘテ曰ク否《いな》僕ハ東海ノ遊士|笈《きふ》ヲ負《おう》テ茲土《このど》ニ進学スル者ナリ、今百花盛ニ開キ春草野ニ満《み》チ羣鶯《ぐんあう》乱飛《らんひ》ス、偶々《たま〳〵》感ズル所アリ、間《かん》ヲ偸《ぬすん》デ舟ニ棹《さほさ》シ自由ノ戦場ヲ弔ヒ興ニ乗シテ流連シ俯仰《ふぎゃう》吟咏《ぎんえい》帰ルヲ忘ル、幸ニ疑盧ヲ釈《と》ケト、姫驚キテ曰ク郎君ハ扶桑《ふさう》日出ノ帝都ヨリ来ルカ、山海三万里又故郷ヲ懐《おも》フノ情ナカランヤ、散士曰ク嬋妍《せんけん》タル仙姿|箏《こと》ヲ撫《ぶ》シテ低吟《ていぎん》シ雲夢|洛川《らくせん》ノ神女モ顔色ナク、妃蓮《ヘーレン》(希臘ノ美人)蘇皇《クエンスコット》(蘇蘭ノ女王当時才美ヲ以テ一世ニ冠タリ)モ舎ヲ避クルノ人ニシテ冠ヲ南嶽ニ振ヒ足ヲ滄浪《さうらう》ニ濯ヒ塵土ヲ遁レテ隠逸《いんいつ》ス、誰力其高表|卓操《たくさう》ヲ欽《きん》シ其風度|瀟洒《しゃうしゃ》ヲ慕ハザランヤ、今僕卒然|相逢《あひあ》フヲ得、諺ニ曰ク一樹ノ蔭《かげ》一|河《が》ノ流、偶然袖ヲ交ユル亦多少ノ縁因ナリト、詩ニ曰ク有2美一人1清楊宛兮。邂逅《かいこ》相遇。適2我願1兮卜、僕ガ幸何ヲ以テカ能ク此ノゴトキヤ、妃柳枝ヲ以テ其ノ半面ヲ掩ヒ、微笑《びせう》シテ曰ク、郎君言フ所ノ者ハ彼ノ柳陰ニ立ツノ人ナリ、妾豈|敢《あへ》テ当ランヤ、伏シテ問フ前日|費《ひ》ノ独立閣上窓ニ倚《よ》ルノ士ハ郎君《らうくん》ニ非サルナキ歟、答テ曰ク然リ、妃ガ日ク、妾名ハ紅蓮《コーレン》、故有リテ阿嬢卜世ヲ此地ニ避クル者ナリ、先キニ郎君ヲ河上ニ見ルヤ、阿嬢妾ニ謂テ曰ク、奇哉《きなるかな》前日|費《ひ》ノ独立閣ニ相見、今亦竈谿ニ相遇フ、遊跡風流其帰ヲ同ウス、共ニ風流ノ韵事《いんじ》ヲ語ル事ヲ得バ、胸懐《きょうくゎい》無限ノ憂鬱《いううつ》ヲ散ズル事ヲ得ント、須臾《  しゆ》ニシテ又|駭《おどろい》テ曰ク、彼ノ士|眸髪《はうはつ》共ニ黒シ、或ハ恐ル西班牙ノ人ナランカト、妾ヲシテ郎君ノ蹤跡《しょうせき》ヲ探《さぐ》ラシム、妾其|媒介《ばいかい》ノ道ナキヲ苦ミ、折柳ニ托シテ敢テ郎君ヲ干《をか》シ試ム、幸ニ唐突《たうとつ》不敬ノ罪ヲ尤《とがむ》ル事勿レ、妾将ニ蹄水ニ鵲橋《じゃくけう》ヲ作リ、星客ヲシテ之ヲ渡ラシメント、微笑疾行シテ直ニ柳陰ニ至リ、一妃卜耳語シテ、乃チ共ニ臨水ノー家ニ人ル、暫クニシテ又来リ告ゲテ曰ク、阿嬢郎君ヲ待ツ、幸ニ光臨セヨト、散士頭ヲ挙ケテ遠ク之ヲ望メバ、一妃已ニ出デヽ門頭ニ待ツ(下略)-(東海散士「佳人之奇遇」)
 これも有名な政治小説であるが、今日から見ると思想も文体もまるで隔世の感がある。また欧文の翻訳では中村敬宇の「西国立志編」なども漢文直訳式で広く読まれたものであるが、文章の価値の上から雅文派の森鴎外氏に比すべきは森田思軒氏である。
「食事《しょくじ》の時に至《いたり》てもユーベルは食卓《しょくたく》に就《つ》くを欲《ほっ》せず、ブーワヰスの家には亡士《ぼうし》多く寓《ぐう》せるが、渠等《かれら》は皆な毎《まい》月三十五フランを払《はら》うて朝夕《てうせき》の食事をとゝなへしなり。
ユーベルは云へり「余《よ》は三十五スーをも有せず、余には何か少しの食物《しょくもつ》を給《たま》はれ、余は台所《だいどころ》の隅《すみ》を仮《か》りてそを喫《きっ》すべし」(註、スーはフランの廿分之一)
ブーワヰスは色然《しょくぜん》とせり、ブーワヰスは云へり「決《けっ》して御身《おんみ》は我々と共に食事すべし」。「シテ御身に払《はら》ふは。」「御身が払《はら》ひ得《う》る時。」「恐《おそら》く到底《たうてい》其時なからん。」「好《よ》し然《しか》らば到底《たうてい》払《はら》はざるべし。」
ブーワヰスはユーベルの為|府内《ふない》に於て若干《じゃくかん》の生徒《せいと》を世話《せわ》し、ユーベルは之に文典《ぶんてん》及び算術《さんじゅつ》を教《をし》へり。是等《これら》の授業《じゅげふ》の所得《しょとく》をもてブーワヰスはユーベルに勧《すゝ》め一領《  りゃう》の上衣《じゃうい》及び靴《くつ》を買《か》はしめり。ユーベルは云へり「余《よ》には靴《くつ》有り。」「然り御身《おんみ》には靴有り、去乍《さりなが》ら其靴には底《そこ》有らず。」諸亡士《しょばうし》はユーベルの有様を見て之を傷《いた》み、かねて妻子《さいし》なき人の生活《せいくゎつ》を扶助《ふじょ》するに定《さだ》めたる例額《れいがく》即ち毎週《まいしう》七フランの財《ざい》を給《きふ》せり。此の扶助《ふじょ》と其の授業《じゅげふ》の所得《しょとく》にてユーベルは生活《せいくゎつ》せり。ユーベルは此外に得る所なし。ガツフネー等の人々はユーベルに財《ざい》を贈《おく》れり、然れども渠《かれ》は曾《かつ》て之を受けず、渠《かれ》は常《つね》に云ふめり「否《い》な余よりも更《さ》らに不幸《ふかう》なる人もあり。」(森田思軒訳「探偵ユーベル」)
 現今この漢文直訳体の文章家を代表してゐるのは三宅雪嶺氏であらう。
 それから又俗文式とも名づくべき一種の文章がある。これは徳川時代の戯作家の流れを受けた文体で、新聞紙の軟派の雑報や、随筆小品或は小説を壇場として一時盛んであった。俗文式と名づけたのは強《あなが》ち思想や文体が卑俗だからといふ訳ではない、雅文のやうに上品ぶらず、漢文直訳のやうに四角張らず、平民的な近世的言語も用ゐて、自由な軽快な思想を抒べようとしたからである。雅文に対して俗文といふのは、雅楽に対して俗曲といふのと同様である。随《したがっ》て雅文式、漢文直訳式の窮屈な狭隘な点を補った大功があったが、一派の趣味がやゝもすれば徳川期の軟文学や江戸下町の通人社会等に偏して、明治の新時代に普遍共通する事の出来なかったのは已むを得ぬ事である。しかし此の式の文章は小説と最も深い関係を有し、明治二十年代三十年代の小説家にしてこの派の文章の影響を受けぬ者は、殆《ほと》んどないといってよい位《くらゐ》、尾崎紅葉の如きもこの体の長所を餘程《よほど》採ったものである。最も勝れた代表者は饗庭篁村、南新二、幸堂得知の三氏で、中にも篁村氏が今なほ独り勢力を有してをるのは、わざと通を隠して、なるべく新代語で新代の人々と語らうとする常識の力である。
「この叢竹《むらたけ》、鳳凰《ほうわう》の棲《す》にもあらず、又|七賢人《  けんじん》の倶楽部《くらぶ》にてもなし。いさゝ叢竹《むらたけ》むら〳〵と熱《ねつ》にうかれしよまひ言《ごと》、自分ばかりの伸勝手《のびかって》、皮《かは》を剥《は》がれて上草履《うはざうり》の御用《ごよう》ともなり、矢鱈《やたら》と踏《ふ》みつけられたらば来世《らいせ》は縁《えん》あるササ仏《ほとけ》、竹の中より光明《くゎうみゃう》の赫奕《かくやく》とすることもあらんと、此世《このよ》の事《こと》は思《おも》ひきりしに、雪中に筍《たけのこ》をもとむるほど慾《よく》には孝《かう》なる春陽堂《しゅんやうだう》の主人《しゅじん》、この竹なかなか面白《おもしろ》き節《ふし》ありと、取りて天台《てんだい》座主《ざす》に頼《たの》み瑜伽《ゆか》三密《  みつ》の壇《だん》に立《たっ》て、七日|加持《かぢ》して笛《ふえ》となし、異《こと》なる音《ね》をば世に知らせんとす。砂金《しゃきん》百両《   りゃう》はさて置《お》きて著者《ちょしゃ》にはねっから渡《わた》さねど、これを「あへばの笛《ふえ》」と名づけ優《ゆう》なる方々の珍重《ちんちゃう》し給《たま》ふ事あらばを空《そら》だのめにして、一もと二もと切《き》って出《だ》しぬ。幸《さいはひ》にして評判《ひゃうばん》悪《あ》しからずば、毎月《まひげつ》続《つゞ》いて一編《  ぺん》を出し、万竿《まんかん》矗立《しょくりつ》翠《みどり》の色《いろ》ます〳〵圃《ほ》を拡《ひろ》げ藪《やぶ》を続《つゞ》け、虎《とら》の放《はなて》し飼《かひ》をもなし申さん。画工《ぐゎこう》の倪雲《げいうん》林竹《りんちく》を愛《あい》し、手づから方竹《はうちく》数十竿《す  かん》を植《う》ゑて。一枝《 し》を切《き》ることも甚《はなは》だ惜《を》しむ。茉陽《らいやう》の薫推《くんすい》居士《こじ》プラリと遊《あそび》に来りしに、倪先生《げいせんせい》某人を高しとし、一枝を折《を》って之を贈《おく》る。時の人|名誉《めいよ》の話《はなし》とせしとか。著者《ちょしゃ》はそんな気《き》づまりは云はず。サア御持《おも》ちなさい上げませうと惜《を》しまず、幾枝《いくえだ》も御望《おのぞみ》に任《まか》せ、而して買人《かひて》を高しと称《しょう》せん。買人は価《あたひ》を低《ひく》しと称《しょう》して、莱陽《らうやう》の高士《かうし》と等《ひと》しき誉《ほまれ》を得《え》たまへかし。(饗庭篁村「小説むら竹」自序)
 以上に掲げた各種の文例を比べて見ても知れる通り、雅文式、漢文直訳式、俗文式にはそれ〴〵著しい特長があって、別天地のやうである。明治の代にこれだけ各種の文体《ぶんてい》の行はれたのは、畢竟|何《ど》の文体《ぶんたい》でも満足出来なかったからである。於是《こゝに於て》自然の必要上、この三種の長所を一つに聚合調和して完全な一新体を作らうといふ試みが生じた。この試みは時代の要求に叶ってゐたので、忽《たちま》ち成功して折衷の一体が出来た。今日最も広く行はれてゐる文章は即ちこの折衷体である。
 折衷体の由来を尋ねると中々長い。慶応から明治の初年へかけて盛んに著訳した福沢諭吉の文章の如きは正しく折衷体の始である。氏の様《やう》な説き振《ぶり》は心学道話の書物から系統を引いてゐると思ふが、大体《だいたい》は通俗に平明に書かうとした親切と、その常識ある頭脳とで、自然にあのやうな自由な癖のない文章が出来たのである。併し当時は勿論《もちろん》、それ以後十数年間も他の人々は相変はらず漢文直訳式を用ゐたが、明治十八年坪内逍遙氏が新小説を唱導した時の論文「小説神髄」に至って、再び和漢雅俗折衷調和の文章が意識的に試みられ、漢文直訳派の人々もまた少しづゝ語脈を国文に近づけたので、追々文章が読み易くなった。又恰《あたか》も其頃から国学も勃興して文法を八ケましく言ひ出したので、愈々《いよ〳〵》文体の調和折衷といふ事が文壇の輿論となり、論文でも小説でもこの折衷体のみが行はれた。折衷式の確立と共に純粋の雅文式や漢文直訳式は、文壇の表面から消滅して神葬の祭文とか歌集の序文とか、乃至《ないし》は儀典の文、祝賀の文などいふ特殊の場合にのみ稀れに見ることとなった。俗文式だけは比較的生命が長く、新聞紙の三面の一隅に今も尚《なほ》残っつてゐるが、これも日々雅俗折衷体の大きな胃の中で消化されつゝある。つまり今日の文章体では此の雅俗折衷式を専《もっぱ》ら学ぶべきで、純粋の雅文式や漢文直訳式や俗文式は、専門の文学志望者と雖《いへど》も学習する必要が無い位《くらゐ》である。併し余暇に読んでおけば、雅文式の中からは、正しい文法や、句尾の屈折や若干の雅言や、種々の詞の品などを覚え、漢文直訳式からは簡勁な句法や古い熟語を覚え、また俗文の中からは軽妙洒落な言廻しや江戸っ児流のキビ〳〵した機才を学ぶことが出来よう。
 雅俗折衷式の文例は、餘り沢山あるから、此処に挙げる必要も無い。後編の文範の処に出てゐる文章体の時文は大概それである。
 さて又、以上に説いた文章体と並んで口語体(言文一致体)といふ一体がある。この体の文章は明治二十一年頃山田美妙斎の公にしたのが始めであるが、爾来小説家の間に試みられて漸々に発達し、追々一般の論文や著述にも用ゐられ、新聞紙の雑報にも採用さるるに至った。今日では小説は尽《こと〴〵》く口語文となり、論文も著訳も新聞紙の雑報も停車場の掲示札も小学校の読本も大半は口語文で綴られてをる。兔《と》も角《かく》も口語文は将来益々《ます〳〵》発達し、日本の文章がこの一体で統一されて了ふのは遠くはあるまい。
 元来日本の文章が在来口語と非常にかけ離れたには種々《いろ〳〵》な原因があるが、昔を尋ねると古代は尽《こと〴〵》く言文一致であって、祝詞宣命の文章でも、「古事記」の文章でも不便な漢字を用ゐながら何《ど》うかかうか工夫して言語|通《どほ》りに記したものであった。片仮名平仮名が出来てからは尚更《なほさら》のことで、平安朝の物語や草紙、日記の類は皆悉《こと〴〵》く言文一致で書かれた。「源氏物語」や「枕草子」の如きも、今日読むと純然たる文章体のやうであるが、あれが即ち当時の女流の言語其儘《そのまゝ》、取りも直さず当時の口語文なのである。
 処が、其の中に一方には文明の先進国として精神界にも物質界にも大勢力のあった中国の文章、即ち漢文の直訳口調も段々《だん〴〵》と国文の中に入ったのと、一方には言語が年々変化して行くその変化の速度に随《つれ》て文章の方が変化し得なかったのと、この二つが原因で鎌倉時代の頃になると言語と文章との間に大きな差違が生ずるやうになったのである。年代を経るに随《したが》って、此の差違が段々《だん〴〵》はげしくなって、室町時代戦国時代に入り、徳川時代に至って全然|別々《べつ〳〵》のものとなって了った。ただ通俗を旨とした講義本(仏書、経書、漢詩などの)や、口述を直写した聞書や、写実を主とした狂言などには当時の言語そのまゝの文章が折々あった、これが当時の口語文なのである。徳川時代でも道話や軽口噺の類には、殆《ほと》んど口語文と区別し難いやうな文章が沢山ある。
 第一講にも述べた通り、文章は到底《たうてい》言語そっくり其儘《そのまゝ》とは行きかねるもので、多少の差違は古今東西どこにもあるが、又その距離があまり劇しくなるのは到底《たうてい》忍ばれない事と見えて、さういふ場合にはいつでも文体革新の運動が起って新国文が出来るのである。唐の韓退之が四六文を排斥して八代の衰を起したのも、英のヰックリッフが羅典《ラテン》文から独立してアングロサクソンの聖書訳を試みたのも、また独逸《ドイツ》のレッシングなどが同じく仏蘭西《フランス》文を排斥して独逸文学の新興に努力したのも皆その意味である。されば明治の初年の如く言文乖離の甚《はなはだ》しく、各種の文体が殆《ほと》んど割拠の状を呈した時代に於て、新国文の確定即ち文章統一の運動の起るのは当然の事で、さういふ場合には当時の言語に一致した文体が勝利を占めるのは古今の常例である。この理勢によって口語文がとう〳〵我が文章界の覇権を握ったわけである。併し今日の口語文は実はまだ試験時代の未成品で小説の文章を除くと、他に文範とすべきものは誠に少い。蓋《けだ》し学者の著論は内容を発表することを急ぐ為に文体に苦心する暇が無かったのでもあらう。随《したがっ》て、一口に口語文といっても名々勝手でいろ〳〵な文体がある。
 第一は洋文直訳式 これは今日ではあまり極端なのはないが、一時民友社の一派などは随分《ずゐぶん》思ひ切って用ゐたものであった。「云々した事のそれは云々なり」とか、「何した間に何々した」とか、「何々丸は彼の女の帆を上げた」とかいふやうな文が文章体にも口語体にも屡々見えた。「一層多く」とか「比較的多く」とかいふべき場合に「より多く」といったり、「読んでゐる」といふ所に「読みつゝある」といったり、「彼に取りては」といふべき所に「彼に向っては」といったりする。これ等は皆洋文の直訳から来た語脈で、一時甚《はなはだ》しく国文を混乱せしめた。こんな語句は鳥渡《ちょっと》読むと大層《たいそう》新しいやうだが排斥せねばならぬ。時代がどんなに変はらうと、口語がどんなに変化しやうと、国文はどこまでも正しい国語でなくてはならぬ(洋文直訳調の避くべき点は尚次の講に詳述する)。
 第二には談話演説の速記体 これは言文一致の極端で洋文直訳体に比すれば無論解しやすいが、冗漫で仕方がない。第一講にも述べた通り文章は言語とちがって第一に冗漫を嫌ふ。しかるに、速記体には、甚《はなはだ》しい無駄があって、感興を殺ぐ。勿論《もちろん》立派な演説にはさう無駄のあるものでないから、速記しても立派な文になる筈《はず》であるが、実際聞くと読むとは大違ひで、議会などでも傍聴の時に餘程《よほど》感心した大演説をもう一度速記録で読んで見ると、大概興味索然として了ふ。つまり無駄が多いからである。講談師の談を速記した講談物の如きも実際の速記を二分の一、若くは三分の一に節略して初めて読物となるのだといふ。速記体の口語文はずっと簡潔にせねばものにならぬといふ事がこれでわかる。左に一例を示す。
(上略)併《しか》しマア詩文《しぶん》は大師《だいし》敢《あへ》て第一番とは申されないが、今日|特《こと》に諸君《しんくん》にお話しなければ為《な》らぬのは修辞学──手習ひするのでは有ませんよ、辞《ことば》を修《をさ》むと書くのである、西洋《せいやう》の言葉《ことば》でレトリックと言ふが……日本に於ける漢文漢詩のレトリックに於ては誰が開祖であるかと云へば、又弘法大師であると云はなければならぬ。夫は何で言《い》ふかと申せば、之です。(本を示して)御承知《  しゃうち》のない人は或《あるひ》は御経文《  きゃうもん》だと思はれるでせうが、斯《こ》りゃお経文ではない、大師の著《あら》はされた『文鏡秘府論《ぶんきゃうひふろん》』と云ふのです。之れは六|巻《くゎん》に分れて居るのを合本《がっぽん》にして三冊にしてあります。で此の『文鏡秘府論《ぶんきゃうひふろん》』と云ふ六巻の書物《しょもつ》を見ました結果《けっくゎ》、私は日本に於て漢文漢詩《かんぶんかんし》には弘法大師《こうぼふだいし》がレトリックの元祖《ぐゎんそ》であるといふ事を断言《だんげん》するのでございます、此れは私の研究《けんきう》の結果《けっくゎ》として印《いん》を捺《お》してお話することが出来ます。所で此の『文鏡秘府論』は何を書いてあるかと申しますと、詩《し》と文《ぶん》の作り方を書《かい》てある。
                (谷本富氏「文明史上に於ける弘法大師」)
 第三は折衷式 折衷式といふのは現代の標準言語を基本とし、それに洋文脈の新しいところや、速記式のくだけたところをも加へ、尚在来の文章体の中からも種々な長所を取り込んで調和よく折衷しようとする一体。つまり将来の標準的口語文、即ち将来の国文はこの試みの中から出来上ることゝ思はれる。例《たと》へば今日の口語によく用ゐられる「云々である」といふ止めの如きは、紅葉山人が工夫し出したもので、それまでは言文一致の小説家は誰れもこの留めに苦しんだ。文章体ならば「何々なり」と楽に止められるが、口語文に「何々です」、「何々であります」といっては行儀過ぎて面白くない、又「云々だ」といっては無作法過ぎる。僅《わづ》か一語の事ではあるが、動詞の終止法には始終用ゐ、過去未来、其他の変化が多いだけに始終困ってゐたところへ、「云々である」「云々であった」「云々であらう」といふ使い方が工夫されたので忽《たちま》ち行はれた。泉鏡花氏の如きは「である」が出来てから言文一致体が真に確定した「である」の発見だけでも先師(紅葉)の事業は不朽であるといってをる。「である」は文章体のなりから工夫し出したもの、即ち文章体の長所を口語文に応用したものである。また、止めといへばいつでも「である」「である」と重ねる弊を救ふために名詞止を用ゐる人もある。これも文章体の長所を取ったもの。
 その外優れた口語文をよく見ると、一語々々の上にも文章体や洋文式から取った個処が非常に多い。「詳しく言へば」「言ひかえれば」などといふ語は、英語の"that is," ”in other words"の翻訳から来たものである。「個人には云々の利益あり団体には云々の便利あり」といふ語の調子を強めるために「個人に向っては云々、団体に向っては云々」といふのも英語の"as for ……"の直訳である。「ある意味に於て云々」「一方には云々」といふのも、英語の"in some sense,” ”on one hand"の直訳である。この他「名誉ある何誰《なんのたれ》」「無意味な事業」「注意を払ふ」「何々としての何某」「何々の立場」などいふ語は皆洋文の翻訳語または直訳語で、将来とても国文と調和の出来るだけは益々《ます〳〵》盛用される事であらう。
 文章語の口語文に取り込まれた例は一層多い。「かるが故に」「何となれば」「要するに」「されば」「頗《すこぶ》る」「あらん限りの」などといふ語句は皆文章体から来てゐる。かういふ語は必ずしも用ゐないで済まぬことはないが、場合に応じては用ゐた方が辞句が簡捷にもなり雅馴にもなる。また文章といへば必ず目に見るものであるによって、今日のやうに漢字を使用してゐる以上は、簡潔にして意味のこもった漢語を適当に用ゐるのは大利益である。耳で聞いて解るやうな漢語ならば必ず口語文と調和する、漢文直訳調の語句とてもその通りである。「苟も」「況んや」「是に於て」「曰く何、曰く何、…」などといふ程度のは、取り入れるだけ口語文に取り入れて構はぬ。雅言とても通じやすいのだけは取り入れてよからう。例えば「やんごとなき」「かしこきあたり」「みやび」「鄙《ひな》」「いと《最》」「そぞろに」「わびしき」など。況んや俗文調に至っては口語文と最も調和しやすいもの、これは例を挙げるまでも無い。かういふ風に洋文調であれ、漢文調であれ、雅語であれ俗語であれ、その語句がよく口語文と調和して、口語の欠点を補ふ事の出来るやうなのは尽《こと〴〵》く取り入れて、自由自在十分痒い処に手のとゞくやうな新たな一体を作り上げること、これが折衷体の理想であって、今日既に或種類の文章には十分成功した例が沢山ある。将来の口語文は洋文直訳式でなく演説談話の速記式でもなく、必ずこの折衷式の発達したものたること言ふまでも無い。折衷式の文例はこゝに掲げないが、文範編の中にある口語文は大概その好例である。
 要するに沢山な文体の中で今日最も学ぶべきは文章体、口語体ともに折衷式のみである。本書の文範編には文章体口語体とも折衷式を主として掲げ、其他は参考に止めた。両者の区別を注意されんことを切望する。

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最終更新:2020年03月13日 23:01