日本国号の称呼について
近年オリンピック遊技で諸外国から渡来する人々に対して、統一した日本国号を公式に一定しようとする動機から、ニッポンとニホンとのどちらを正式に使用しようか、と論議が起り、すでに本誌上においても昨春、その精緻な史的考証が展開された(
https://dl.ndl.go.jp/pid/3365326/1/18)。私自身も明治四十年(一九〇七)春、それに対しての見解を発表して以来、講演や雑誌などで、所見を述べたことが二三回あつた。一々記憶にも存しないが、どちらかに統一すべきではなく、即ち一を捨てて他を取るべきものと画一的に定めずに、二者を共存共栄ならしめておき、国号として正式に、内外どちらでも、口頭に称呼する場合、又は仮名書きに記るす場合に当つては、自由に取捨し放任しておいても良いではないか、日本語の発音習慣に任せ、その折々の気分に任せておいても可なりと寛大に扱つておく方に放任しようではないかと、今でも尚そんな風に傾くのである。しかし、そんな自由放任に委ねるのは、国号の威信上すててはおけない、と厳粛な態度を取るならば、どちらかを正体、どちらかを副体とする様な具合にして、私自身としてならばニッポンを正と定め、ニホンを副と容るす様にきめて宜ろしいのではないかと、こんな寛大主義を取りたいのである。事柄にも由り、言葉の種類にも由るが、ヨツポドとヨホド、ヤツパリとヤハリ、心理作用や語感語調などにより、この種の二重性は、わが国語には、むつかしくして取捨できない場合が多い。この二重性は、国語国字の上に、今更統制できるものではないではないか。単純化よりも、むしろ此の上、屋上屋を架する如き厄介なことにならぬ、消極的な適度を保つことに自戒自警する方が、むしろ賢明ではあるまいか。之を大にしては、国語政策の立方についても考慮すべき方針は、その辺にありはしないか、こんな風に考察し又諒恕すべきではないだらうかと存ずる次第。
さて尚あらかじめ申さば、ニッポンとニホンとの両称呼を共存する、並用することに定めたいのが、元から自分の希望なのだが、歴史的から申すと、ニッポンの方が先きに起こり、ニホンの方は、ずつとおそく後世に、促音の方が段々和らげられ、軟化した結果ニホンとなつたのが、経過の道筋なのである。従来はニホンの呼びかたを促めてニッポンと発音する様になつたのだと信ぜられ来だのは、小生の推考によれば、それは逆なのである。パピプペポの如き発音は、古来わが国の上古、原始音として存在したに相違ない。原始的な、幼稚な発音ではあるが、音そのものは、決して卑俗な、いやしい音ではないのである。世界どこでも発生した自然な、ウブな音であつだ。それを、その自然性を段々下品なものと賎しむ様になつたのも、語感上の推移たるにすぎない。パン、ピン、ペン等々が、近代の外来語に、非常に頻出すると同時に、自然な擬声語ないし写音語としての形容に、ピンピン、プンプン、ペンペン、ポンポン等々と続出するものだから、外宋音らしく聞こえる音感ないし語感に因つて、先入主観が基礎になつたのであつた。自然、語の卑近性から遠ざけられたが、その実、粗野な固有な、申さばブシツケな連想から遠ざけられたにすぎない。日や火でも、彦や姫でも、人でも、最初の原音は、ピであつたに相違ない。日の本でも、最古にはピのもとと発音されたと信ずべきである。後世や近世の発音の感じを以て、いきなり太古や上世や中世にもつてゆくのは、大きな誤りではあるまいか。現に、井原西鶴の浮世本などを通覧しても、日本は、「につほん」と表現せられ、誰も知る如く、大阪でニッポン橋と口呼されるのでも類推されてわかるわけである。
国語の波行音の語が元来パピプペポと発音された事実は明治二十年代、乃至三十年(一八九七)の頃、私達の国語学の恩師たりし東大教授の上田万年先生の「P音考」なる論文によつて啓発せられ、琉球語や朝鮮語やの同系語、ないしアイヌ語やシナ語やの異系語との比較、さては遠西の印度ヨウロツパ語系のP音語の推移などに由つてもPF
関係は明白に判つて来た筈なのだが、今尚それを会得せず、往々反抗する向きもないではない。最も古くは、国語のハ行音が、漢代ないし六朝を経て隋唐等に至るまで、パピプペポの音の漢字によつて写された事実を反省して見ると直ちに理解できる。文献的にも多々存する異称日本語を回顧したり、葡西伊蘭の諸国語字によつて表現せられた幾多の文献は豊富であり、且つ又洋字アルファベットによる翻字はモれらの径路を、正確にしてくれる。
最後に附記しておきたい小事は、ニホンは平音の三音節、ニッポンは促音での四音節分であるから和歌などの場合に都合がよいことは、私一個人の経験上、両形並存の便利にかたむく。ヒノモトとニッポン、ヤマトとニホン、長短や硬軟の固存がのぞましい。
尚又、漢音からくるジポンやジャパンについても一言したいが、これは他日に譲つておく。
(昭和三十九年一月「国学院雑誌」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3365331/1/2
最終更新:2024年07月21日 22:18