内藤湖南「履軒學の影響」

 私は此の懐徳堂の記念會に於て講演をすることの御依頼に興かりましたのは甚だ光榮に存じます。光榮には存じますが、昨日も私の同僚の狩野教授も申されましたが、實に私どもは若輩で後進のものでございます。殊に今日は皆どうも非常な老先輩の中に私が最も後進で交はり、光榮に感じますると同時に、ひどく肩身が狹いやうな感じも致します。それで私どもの申上げることは、詰り大したことでもありませぬから、段々時間も差迫つて居りまするで、成るべく簡單に申上げるつもりであります。隨分この演説といふものは、やる方も餘り樂なものではありませぬが、聽く方は筒ほ樂でないものである。もう時間も三時間以上になつて居るから、お樂でなからうと思ひます。そこらも考へて大いに端折らうと思ひます。
 私の申上げますのは履軒學の影響といふので、そこは如才なく考へて戴きたい、一寸これを三段ぐらゐに考へて居りまして、時間の都合にょつて好い加減に切れるやうにして、さうして伸縮自在にやるといふやうな仕掛けにしてあります。それで先づ御斷りを致しますのは、これを三段程に考へて居りますから、その中の第一段を省く積りであります。その三段と申しますのは、履軒先生の學問が此の世の中にどういふ影響を及ぼしたかといふことを、大體三つに考へる。一つは地勢上に關係した影響といふやうなことに考へる、一つは時代の上に關係した影響といふやうに考へる、一つは履軒先生の一個人の性格、性質、それ等に關係のあること、さういふやうにお話を申上げる積りで居ります。それで先づ第一の地勢上に關係するといふやうなことはこゝで省く積りであります。尤も私は自分で考へましたことの中の、粗末なことだけは省いて、さうして都合の好ささうなことをお話をするといふずるい考でもございませぬ。先づ兎に角初めの方ですから第一段を切落して置いて、それでお話をして見て、又少し長過ぎるやうであつたら、第三段を切落して、眞中だけを殘さうといふのであります。手つ取り早く時代の上の影響といふことに取掛ります。
 昨日も同僚の狩野教授が、履軒先生の經學に就て大分詳しく講演を致されました。狩野君のは主に履軒先生の經學の内容に就ての議論でありました。それから履軒先生の經學に樹して、それ以前の學問がどういふ影響を與へて居ったかといふやうな方面から考へられたのであります。私のは詰り其の以外のことになる次第で、私のは履軒先生の學問といふものが有るところからして、其處を出發點として、それが世の中に如何なる影響を及ぼしたかといふことゝ、それから履軒先生の學問の内容でなしに外側のことだけを主にお話をする積りであります。しかしやはり履軒先生が、履軒先生以後の學問に影響したことに就ては、多少前の事にも少しばかりは溯ることもあらうと思ひます。それはどうぞそのお積りでお聽取りを願ひます。
 昨日から今日にかけてお話のございました通り、日本の徳川時代の經學者として主なる人を、伊藤仁齋先生・荻生徂徠先生・中井履軒先生と、この三人を舉げられましたやうです。これは殆ど日本の定論と謂つてもよい位でありまして、これは動かないことであらうと思ひます。それで先づ第一に、履軒先生以外の二人の大家先生と履軒先生とを比較する所からして少しばかりお話をしたいと思ひます。
 そこで比較すべき點は色々ありますが、その一つはこの仁齋先生・徂徠先生の學問の筋立てと、それから履軒先生の學問の立場と、多少相違があるといふことであります。仁齋先生・徂徠先生などは、兎に角初めからして自分の一個の見識を立てゝ、それに依つて自分の門戸を一つ造って、さうしてその一家の説を立てゝ居る次第であります。ところが履軒先生のはそれと少し違ひまして、これは初めからさういふ一家の説を立てる積りかどうかといふことは、どうも頗る疑問であつて、詰り唯だ自分が段々本を讀むについて考へ出されたことを段々書き溜められたのが、それが一つの立派な發明になつて、それで自然にあゝいふ立派な成績を得られたかのやうに考へられます。それから第一、目的に於て少し相違して居ります。それは勿論時代も關係いたしますがギやはりそのことに就きましては、昨日狩野君の言はれたことゝ幾らか關係のあることを申さねばなりませぬが、狩野君は支那の經學といふものが日本に影響して居るといふことに就て、これを漢唐注疏の時代と、宋明の學問の時代即ち理氣心性の時代と、それから清朝の考證學の三つに分けられました。これも動かぬ議論でありまして、これも世間の定論であります。ところでその影響をどういふやうに履軒先生が受けられたかといふと、やはり宋學の影響を受けたと言はれました。それは勿論のことで、自分も尤もと思ひます。ところでその他の仁齋先生・徂徠先生はそれではどういふ風に支那の經學の影響を受けましたかといふと、それは一つの考へ所であつて、その順序を追うて履軒先生に來るのが順序だらうと思ひます。
 それで仁齋先生の學問と申しますのは、仁齋先生自ら古學と申して居ります。近頃でも仁齋先生の學問は、その學問のことを書いた本が出來ると「古學派の哲學」と謂つて居ります。これは支那人などの使ふ言葉と趣を異にして居ります。近來の支那人の使ふ言葉では、古學と申しますのは宋明理氣心性の學問でなくして、その以前の漢唐注疏の學問を指したのであります。ところで仁齋先生のは漢唐注疏の學問ではないのであります。仁齋先生は自分で刻苦をされて、一派の學問を發明されて居ります。けれども其の學問の筋道は宋學の一派と謂つてよいのであります。それで宋學、程子朱子の學問と申しますものは、理氣心性と申しまして、理と氣とを二つに分けてやる學問であります。仁齋先生の學問は、その中の氣といふものに重きを置きまして、さうして天地は一元氣といふやうなことを言つて居られますが、しかし兎に角元氣とか何とかいふやうな形而上の事柄を主題として議論をする、即ち主觀的に學問を觀察しますといふことは、これはやはり宋明學の學風でありまして、宋明以前の漢唐注疏の學風ではありませぬ。支那人の所謂古學と申しますのは、仁齋先生が自ら古學と謂はれますのと差別があります。それで若し仁齋先生の自ら言はれる所に依つて日本の學問を分類しますならば、仁齋先生の學問を古學と云ふのも一向差支ないが、若し學問の性質の上から之を分類いたします時には、仁齋先生を古學の範圍に入れるのは、少し違つて居るかも知れぬと思ひます。
 それからして其の次は徂徠先生です。徂徠先生の學問と申しますのは、これは自分で古文辭の學問と申して居ります。これは餘程妙なのです。支那人などにも此の様子が分らないものと見えて、支那人が徂徠先生の本を見て批評したのを見ると、餘程見當違ひの批評を下して居る。一體徂徠先生は天の寵靈によつて古文辭の教を奉じて自分の學問をやつたと云ふ、天の惠みに依つて明の李攀龍・王世貞といふ二人の人の古文辭の教を奉じたと言つてあります。ところで支那の李王といふものゝ古文辭の教といふものは、教ではなくして、それは全く詩や文を作る爲に古い言葉を使ふ詩文の一派であります。ところで徂徠先生はそれを擴張して、詩や文を作るに古い言葉を使ふのを、それを經學に應用した。古い經書を讀むのには古い言葉を知らなければいけない。例へば日本で日本書紀とか古事記とかを讀むには古い言葉を知らなければならぬといふので、眞淵翁などは萬葉集の研究から始めたといふ次第であります。詰り徂徠先生のは、あちらの人が詩文だけに使つたのを經學に應用してある。それで以て徂徠先生の本にはさういふことを書いてあるので、徂徠先生の本があちらへ行つて、あちらの人が見て分らない。それは近年の人で僅か七八年前に亡くなつた譚獻といふ人があつて、この人が「復堂日記」といふものゝ中で日本の學者を批評して居る。それで李王古文辭といふものは分らないが、多分日本の昔の學者であらうと思つた。しかし先づ學問の筋立てといふものは、さういふやうに初めから企てた所とは折曲り折曲りして行くものである。何か近頃學校の生徒などに、或る一つのものを見て、物を寫して變つて行くことの試驗に、一の字を書かして行くといふことである。一人に一の字を書かして、その次の者にそれに似たやうに一の字を書かせる。それから第三の者に第一のものを見せずに、第二のものを見せて書かせる。段々それを重ねて行くと、終ひには一の字がまるで違つた形になると云ふ。さういふやうに學問は幾年もする間には、段々曲って行く。徂徠先生が李王古文辭の教を經學に曲げたのは大變な曲り方である。その曲げた所は徂徠先生の力でありませう。兎に角徂徠先生の學問といふものは、どういふ所から來たかといふと、向ふの根本に立てた筋とは違つて居るが、李王古文辭の數から來て居ります。それは一體誰に似て居るかと云へば、別に似た人もありますが、兎に角さういふ風に出來て來て居ります.
 ところで前に申しました仁齋先生、これも宋學とは申しますが、宋學の中でも仁齋先生の考へたことは、支那で誰に似て居るかといふことになると、又宋學の中でも餘程近い所に似て居るのであります。これは仁齋先生の學問に就ては、種々議論もありましたが、仁齋先生の經學は自分で發明したやうに言つて居るが、實はさうでなく、支那人のものを盗んだのだといふことがありました。それは明の呉廷翰といふ人の「吉齋漫録」其他「甕記」・「〓記」といふ本がありまして、それが仁齋先生の説に似て居る。それは仁齋先生より前の人でありますから、仁齋先生はそれを知らぬ顔をして盗んだのであらうと云つて駁した人があります。ところが仁齋先生はそんなけちな料簡の人でないといふので、今では信ぜられませぬが、兎に角仁齋先生の考へたことはどういふ時代の人に似てゐるかといふと、明の中頃の人に似て居る。それから徂徠先生の方は李王古文辭の教を奉じてやつたのであるが、李・王といふ人は明の萬暦年間、丁度豐太閤の朝鮮征伐前後の人であります。ところで徂徠先生の學問がどういふ人に似て居るかといふと、李・王よりか少し前の人に似て居ります。李・王よりか三四十年前頃に、楊愼、號は升菴、楊升菴といふ人があります。その人の學問に大分似て居る。それでどちらにした所が、兎に角向ふの方の學問と日本の學問と相類似した所があるといふことを考へて、それをかう一つ並べて見るといふと、そこに面白い關係が出來て來ます。それば向ふの方では仁齋先生の似て居るのも、徂徠先生の似て居るのも、大抵明の中頃の人の學問に似て居る。その時代から仁齋先生と徂徠先生の時代までは、どの位間があるかといふと、百三四十年から百六七十年の問があります。それで兎に角日本と支那とに同じやうな思想があつて、それが兩國に行はれるには、百三四十年乃至百六七十年の時代の相違があるといふことは、これは面白い現象であります。これは必ずしもその當時ばかりのことでありませぬ。これをずっと前に持つて行きましても、多少さういふ關係があります。
 日本に宋學の始めて行はれましたことに就ては、友人の西村天囚君が極めて詳しい著述をして居ります。即ち「目本宋學史」といふ近來の名著を出して居られます。ところでそれに據つて見ますと、日本で宋學といふ朱子の學問が始めて行はれましたのは、南北朝の初めであるやうである。ところで若し此の學問を朱子を中心にして考へましたならば、それが丁度朱子の時代からしてやはり百五六十年の相違をもつて居ります。さうして見ますといふと、丁度宋學が始めて起つて、それが日本へ來る時分からして、仁齋先生・徂徠先生までの時代の間、向ふの思想と日本の思想と同じやうなものが行はれるについては、平均して百五六十年の相違があるものと見ることが出來ます。よく氣象學の本などで、七月なら七月に各地の温度の同じものを線に書くことがあります。さうしますと、この地球の緯度とは大變に違つたかういふ一種の波のやうな線が出來ます。それがやはりこの思想の上でもさういふやうな關係をもつて居りまして、支那で百五六十年前のことが、日本ではそれだけ後に來る。さうするとかう曲つた線が出來る譯である。その法則といふものが、後になつてどれだけ變つて行くかと申しますと、多少の變化はあります。それは徳川の初め以來、長崎に支那の船が屢〻着くやうになりましてから、自然向ふの書物などが早く來るやうになりました。又足利時代と違つて、それが全國に行はれることも頗る早くなりました。それでその百五六十年といふのが段々近くなつて居りますけれども、私の考では、徳川時代を終るまでは實際百三四十年の差は冤れないと思ひます。これは若し西洋の學問などが日本に行はれるやうなことであつて、飛行機が百三四十年も遲れて來るといふことでは大變な騒動でありますが、それ程支那の學問といふものは、今日戰さをして勝つか負けるかといふことに關係はありませぬから幸ひでありますが、兎に角さういふ差があるのです。ところで若し前申す通り、宋學が始まつて以來徂徠先生に至るまでの今の線の引き方でもって來て、履軒先生の所へ行つて、それは支那でどの位の所に當るかといふことは、これは面白いことゝ思ひます。それを先づ引いて見ますと、それは丁度明末清朝の初め、向ふで有名な大學者顧炎武並びに黄宗羲といふやうな人の出た時代に當るかのやうに思はれます。それで私は顧炎武・黄宗羲といふやうな人を履軒先生に較べて見るといふことは、餘程面白いことだらうと思ひます。ところがそれはやはり大分學問の内容の上に關係をしなければなりませぬけれども、今日は努めて内容は申しませぬので、唯だ外側だけを申します。
 それで主に顧炎武といふ人に就て申しますが、顧炎武といふ人は明の末に生れて清朝の初めまで生きて居りました。此人は清朝三百年來の學問には非常に影響を有つて居りまして、この顧炎武・黄宗羲、殊に顧炎武といふ人の學問は、清朝三百年來の學風の元祖となつて居るやうな姿になつて居ります。清朝になつてから、學問が其の前と違つて、色色の學問の分派と申しますか、色々の種類が漢學の中でも發逹して居ります。それで勿論顧炎武といふ人の考は、經學が主であつて、それから經世の思想、即ち世の中を經營する所の思想も有つて居りました。しかしその外に經學の枝葉の學問として、色々の學問の根柢を造りました。即ち近年西洋などでも古典の研究、例へば耶蘇教のバイブルの批評と炉ふやうなことになりますと、色々の事からしてやります、古代の歴史などになると、色々な事からやりますが、即ちこの古い言葉の研究、それはやはり徂徠先生にもある所でありますが、古い言葉の研究、それからして古くから遺つて居ります遺物の研究、例へば銅器、石碑の類、さういふやうなものゝ研究を致しました。さういふことは、やはり支那にも同じやうな姿になつて現はれて參りましたが、それに就て最も創立者として重き地位を占めて居りますのは郎ち顧炎武であります。顧炎武の著はした書物は多數ありますが、その分派を申しますと、經學の方では左傳が履軒先生の讀まれたもの、その外にも色々ありますが、古い言葉、支那では字の音が即ち言葉でありますから、即ち古い字の音の研究、顧炎武には「音學五書」といつて音の學問に關係した五つの書物があつて研究をして居ります。それから又「金石文字記」といふ本がありまして、それは即ち古い金石の研究であります。それ等のことをすべて經學の研究に應用して、古典研究の基礎を立てました。
 ところで然らば履軒先生はそれとどういふやうな點が類似して居るかといふことを見ますと、この經學に封して種種の新説を吐かれることは、少しその方法に於て相違がありますけれども、色々な經書を皆讃んで、それに對して新らしい意見を加へられたといふ點が類似して居ります。それから履軒先生には音韻の研究がありました。「諧韻瑚漣」・「履軒古韻」などゝいふ本がありまして、履軒先生の研究は一種の研究でありました。それが面白いことは、……古音の研究、言葉の研究と申しますものは、段々發逹して來て居ります。それも古くはやはり宋學の時代から起りまして、朱子の時代に呉才老といふ人が之を始めて居つて、段々明の中頃で前に申しました楊升菴などもやつて居る。それから陳第、字は季立といふ人がありまして、その人が大分やつて居り、それから顧炎武になるのであります。それで面白いことは、履軒先生はその呉才老の本や揚升菴などの本を見られたやうであります。陳季立までの本は見て居るが、顧炎武の本は見て居らぬ。それで陳季立の次に坐る地位としては、やはり顧炎武であります。日本へもつて來ると履軒先生であります。尤もさういふ事を研究した人は履軒先生ばかりでもありませぬ。その他駿河の庵原といふ處に山梨稻川といふ人があつて研究をされて居りました。これは履軒先生に限つた譯ではありませぬが、兎に角履軒先生の研究の順序が丁度顧炎武の場所に坐るやうになつて居る。そこが面白いのであつて、丁度向ふで顧炎武に當るべき人が履軒先生に當るのであります。それから金石文字の研究、これは其頃の目本では出來ぬことでありました。近頃では住友男爵などは銅器を澤山寄せられたりして居られますから、或はそれに就て日本でも直接に研究が出來るやうになりました。ところがその當時はさういふものは一つも日本には來ない。石碑の研究は搨物で出來ますが、當時は手習ひをするに都合の好いものが來て、歴史の參考になるとか、經書の參考になるとかいふものは餘り輸入されて居りませぬ。それで金石の方面には履軒先生の手は伸べられなかつた。
 その外にもう一つ申しますと、これは必ずしも顧炎武から始まつて居るのではありませぬが、清朝の學問としては校勘學といふものがある。同じ書物、例へば論語なら論語、これは何百年前に出來た論語とか、これは宋の時に出來た論語といふものを寄せて、字の違つて居る所を照らし合はせて校合をする學問である。校合といふと活版所の校正掛がするやうな話で、至つて詰らないやうでありますけれども、本文の研究即ち本文が正しいか正しくないかといふことを研究する爲めには、非常に重要なことゝして、清朝にあつては大變發達しました。これも履軒先生は手を着けて居られませぬが、日本では、江戸に於てはさういふ學問が始まつて居つたやうであります。兎に角それ等の類似せざる點がありますけれども、大體の筋道に於て、履軒先生の日本に於ける經學の地位といふものは、向ふに於てやはり顧炎武の地位に當る所である。
 それでは顧炎武といふ人の學問が清朝三百年の經學に大なる影響を及ぼして居るが如く、履軒先生の學問が影響したかどうかといふことであります。それは勿論影響して居ります。履軒先生以後の學問といふものは、段々經學が發逹しましたが、これは又徂徠先生・仁齋先生に比較することを要しますが、徂徠先生とか仁齋先生とかいふものゝ學問は、多くはその門弟によつて傳へられました。その門弟がその學問の筋道をその儘に通つて、徹頭徹尾その説に背かないやうにして傳へるのであります。ところが履軒先生の學間が其の外の學者に影響をする仕方といふものはさうではありませぬ。履軒先生にどんな偉い門弟がありましたか、私甚だ調べても居らないで存じませぬが、さういふ履軒先生の學設全體をその儘傳へる門人は無かつたやうに存じます。勿論その御宅には傳はつて居りませう。それにも拘はらず、履軒先生の著述といふものが一般の學者に讀まれることは非常なものであつて、有名な學者、京都に居つた猪飼敬所先生、九州の帆足愚亭先生、さういふ人が直接間接に履軒先生の影響を受けて居ります。又關東に於ても行はれて居ります。一般の人は調べて居りませぬが、東條一堂といふ人があります。これは支那の經説を詳しく讀んで居りますが、その人の左傳に關係したことは、殆ど牟ばは履軒先生の「左傳騅題略」に似て居ります。それから徳川時代の最後の學者安井息軒先生の「左傳輯釋」といふものがありますが、それ等もやはり履軒先生の説を探つて居る。さういふ次第で履軒先生のは直接門弟によつては傳へられずして、その時代以後に起つた有名な經學者に採用されて居るのであります。顧炎武の説の傳はり方もそれと能く似て居ります。顧炎武の風を聞いて起りました清朝三百年の學問の大多數は、顧炎武に直接に系統を引いて居る門人ではなくして、單に著述に依つて啓發されて、さうして段々擴まつた次第であります。それ等の點が非常によく類似して居りまして、さうして日本が若し御維新といふものがそこに無くして、餘り無くつては結構な話ではありませぬが、假りに若しそれが無くつて、支那風の經學がもつとその儘で傳はつて居るものでありましたならば、履軒先生の學問の影響はもつと日本に擴がつて、さうしてそこに清朝の考證學の基礎が立つた如く、一つの履軒風の影響に依つて、大きな日本風の經學が出來上つたかも知れませぬ。しかしその中に間もなく明治の維新になりまして、經學などは一時殆ど廢るやうな姿になりましたから、そこで中絶した次第であります。今日に至つては、これは又別の時代になりまして、學問の仕方も頗る方法を變へなければならぬから、單に履軒先生の影響を以て、將來の學問が發逹するかどうかといふことは疑問であります。しかしながら、履軒先生が當時に盡された心血、即ち骨を折られたことは、これは決して湮減するものではないと思ひます。それで日本人にこの支那の經學といふものゝ研究の絶えない間は、履軒先生の學問の影響といふものは必ず傳はることだらうと思ひます。これが時勢の上から關係を有つて居ります所の履軒學の影響であります。もうこの邊で止めてもよいのでありますが、あとの分を極く短かく申しませう。
 次は即ち履軒先生の個人の性質が影響した所であります。それは履軒先生といふ人は餘程不思議な性質を有つて居ります。今度も何か朝日新聞を見ますと、「新學の先驅」といふものを書いて居られる方が、新學界の彗星といふことで佐藤信淵などを書いて居ります。履軒先生も漢學の方に於ては一種の彗星と云つてよい地位にある。さういふ性質を有つて居られた方である。御承知の通り、彗星といふものは、天體の中で一種不思議の軌道を通つて居る。地球とか水星とか金星とか土星とか木星とかいふものは、皆殆ど相類似した軌道を有つて、同じやうにぐる〳〵太陽の周圍を廻つて居りますが、彗星だけは特別な軌道を有って居ります。非常に長い年數を掛けて廻るかと思ふと、時としては一度來たつきりで、あとは來ないといふものがあるさうです。抛物線とかいふものであつて、一度地球に見えたきりでその彗星はもう來ないといふさういふ軌道を取るといふ、一寸さういふやうな形を有つた性質であります。ところでこの懐徳堂と申しますものは、これはやはり一種の性質を有つて居りまして、これは江戸の學問などゝは幾らか違つて居つて、江戸の學問は元來林家の學問とか或は木下順庵とかいふ學問、これは最初は徳川家の御用に立てる爲に出來た學問であつて、その中、林家が大學頭になつて、江戸に一つの學校が出來ましたが、これは最初は唯だ徳川家の祕書官に出來たものである。それからして徂徠先生などの學問は、これは又一派違つて居つて、これは自分の見識を見せる爲に出來た學問である。ところが懐徳堂の學問といふものは、それと大分趣が違つて居る。懐徳堂の學問はさういふことでなしに、兎に角土地に對して教育をするといふことが第一の目的で、學派の關係もなければ、何處の御用を勤めるといふ關係もなかつたやうです。それで最初に聘せられた三宅石庵先生などゝいふ方も、學問の筋といふものは、惡く云へば雑駁、善く云へば包容の廣い學問であつて、頭は朱子で尾が陽明で聲が仁齋に似て居るといふ鵺學問といふことを聞きました。何の學派といふことに限らず、それが大阪といふ土地の教育に效能があればよいといふので出來た學問である。其後になつて中井甃庵先生から竹山先生になつて、竹山先生の時代は朱子學の復興の時代で、關東では柴野栗山先生のやうな三博士一派の人が朱子學の復興に努めたが、それに力を合せて竹山先生は盡力されたのであります。竹山先生自身も、自分の朱子學は林家でもなければ山崎派でもないと言はれて居る、極めて包容の廣い學問の仕方である。それで兎に角懐徳堂といふもの蕊目的も分つて居り、その學派の工合も大體分つて居る。ところで同じ懐徳堂から出た方でありますが、履軒先生は餘程色彩を異にして居つて、これは門戸を立てるといふ考はありませぬ。自分の獨見で判斷をして行く人であつて、懐徳堂の一般の學問とは殆ど別種の見識を有つて居つた。それが一つの彗星的な所である。それから又これを懐徳堂のみならず、日本の各學派に比較して見ましても、最も大いなる學派即ち朱子學派には色々中心がありまして、林家中心もあり、山崎派中心もあり、又木下順庵中心もあり、色々ありますが、兎に角輪廓は定まつて居る。その外徂徠先生とか仁齋先生の學問も、これも大體定まつて居つて、さうしてその門人によつてその學派といふものが、その創立者が立てた如くやはり段々傳へられて居る。ところが履軒先生の學問のやり方といふものは、それとは違つて、詰り門戸を立てるといふことの考が初めからなかつたやうに見える次第であつて、唯だ詰り自分の天才でもつて發揮した一個の見識を書き現はしたやうな形になつて居つて、日本の各學派から見ても、これが一つの彗星のやうな形になつて居る。
 それから又履軒先生の學問の影響もやはり彗星的であります。それは彗星といふものは外の星と違ひます。外の星や地球が運行して居ますのは、一定の引力の法則か何かで動いて居る。勿論彗星も引力の法則には依りますが、それが始終引力の關係を有つて居る星といふものは同じ關係を有つて居る。ところが彗星のやうに非常に大きな軌道を有つたり、それから一度往つたらもう歸らないといふ星に至っては、それが何處へ往つてどういふ影響をするか分らない程偉大なる影響を及ぼします。履軒先生の學問は門人によつて傳へらるゝことではなしに、その本を讀んだ人に感化を與へた。その感化を受けた人は相當の立派な經學者になつて居る。それが頗る彗星に類似して居る。さうしてその人の性質は氣紛れであつて、その影響の仕方も氣紛れである。この履軒先生の氣紛れといふ根本は、大阪といふ土地にさういふ氣紛れといふことの根柢があって、履軒先生もその代表者の一人として氣紛れ者であつたのか、履軒先生が氣紛れの元祖であつて、それが大阪に影響したか、それは一寸分りませぬが、大鹽平八郎などは途方もない氣紛れである。これは履軒先生の學問に何も關係はありませぬが、兎に角日本一の氣紛れである。泰平無事の世の中に、一揆を驅り集めて、金持ちを燒打ちをして、城代と喧嘩をしようといふ、そんな途方もない氣紛れ者は世間にないものであります。しかしそれは履軒先生の影響ではないかも知れませぬが、兎に角さういふ氣紛れ者が大阪に實際居りました。先刻さういふ者が出ては困るといふお話がありましたが、私も困ると思ふのであります。しかしその氣紛れの應用の仕方によつては好いことがあります。この前の代議士の選擧の時、どうも隨分氣紛れ者の多いといふ證據は、大阪では一文も使はずに代議士などになる人が出て來る。これが東京にもあつたといふことです。けれども段々聞くと、東京のは使はないと云ふが、相應に金を使つて居つたと云ふ。兎に角これは一方から申せば、本當に大都會の性質を備へて居る所でなければ出來ぬことです。私は當時京都に住まつて居りますが、京都は形は千年來の帝都と申します。しかしあれは田舍が大きくなつたのである。東京も隨分大都會でありますけれども、小都會が幾つか寄り集まつて出來たやうな大都會であります。ところで大阪といふ所はさうでなくして、初めから根柢的に出來た大都會であります。さういふ所にかういふ氣紛れの根本といふものがあるものだらうと思ふ。それで政友會といふものがあらうが、國民黨といふものがあらうが、そんなものには關係なしに、自分の氣紛れで選擧するといふものが、兎に角この大阪に澤山ありまして、一人でも二人でも代議士を出すといふのは、誠に結構なことである。これは大鹽平八郎のやうな氣紛れとは違つて、將來大いに發逹させて戴きたいと思ひます。それでこれは履軒先生から始まつたか、それとも大阪に根柢があつたか、そこは存じませぬが、兎に角履軒先生も氣紛れの一つの代表者であるといふことは勿論でありますから、どうかこの影響だけは、これから成るべく盛んにして貰ひたいと思ふ。それが履軒先生の特別の性格から出來た所の影響とも申すものでありませう。餘り長くなりますから、先づこれで御免を蒙ることに致します。
                                (明治四十四年十月七日懐徳堂記念講演會講演)

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最終更新:2024年08月02日 21:28