此の懐徳堂のお催しとして、大阪出身の勝れた人々に就て講演をするといふことでございます。それで、私は妙な縁故からして、山片蟠桃に就て調べたといふ程に調べて居りませぬが、少し關係がありますところから、私に蟠桃のお話を致せといふことでありました。丁度十日程前に風を引きまして、聲が低くてお聽取りにくからうと存じますが、どうか惡しからず御承知を願ひます。
今申しました通り、山片蟠桃のことに就きましては、私は一向詳しく調べて居らぬので分らぬのであります。しかし此人に就て注意をし、又その著書を讀んだことは隨分古い方であると思ひます。此人の著書の有名な「夢の代」といふのは、「日本經濟叢書」に載つて居りますから、多數の方は御覽になつて居られると存じます。その中に無鬼といふ篇がありますが、明治二十五年に内藤恥叟といふ先生——私と同姓でありますが、私の親戚でもなんでもない方であります、水戸の學者で東京の内務省に出られた、その方が編纂された「日本文庫」といふ叢書の中に、この無鬼といふ分だけが出ました。しかしその時分は勿論私の少壯の頃で、ろくに注意をして讀んで居りませんでしたが、その翌年かと思ひます、内藤先生にお目にかゝつた時に「夢の代」はえらい本だといふことを承はつた。内藤先生が曰はれるには、徳川時代には隨分澤山儒者の著述もあるが、大方は人の燒直しが多かつたので、自分の創見を書いたものは至つて少いものである。しかしその中に富永仲基——やはり大阪の人でありますが富永仲基といふ人の「出定後語」と、三浦梅園の「三語」——これは「玄語」「贅語」「敢語」と三つありますが、その「三語」といふものと.それからこの山片蟠桃の「夢の代」この三つの本は、どこまでも自分の見識で、自分の考で書いたものであつて、少しも人の考を頼らずに書いたえらいものだといふことを話された。そのお話を承はつたのは、丁度私が富永仲基の「出定後語」を頻りに感心して讀んで居つた時分であります、その年と思ひますが、私は富永仲基の「出定後語」のことを書きたいと思ひまして、今の「日本及日本人」といふ雜誌の先代の雜誌で、その頃「亞細亞」というて居りましたが、それに「出定後語」のことを書く時に、内藤先生のお話をその儘書きました。それがまあ私と「夢の代」といふ本の關係の初めであります。その後、私は朝日新聞杜に居ります頃、明治二十九年に「關西文運論」といふものを書いたことがありますが、その時にも同じ事をその儘一寸書き入れて置きました。隨分この「夢の代」といふ本に關しては古くから注意をして居ります。内藤先生から承はつてから間もなしに、鹿田君の家からその本を買ひまして、さうして讀みました。それが明治二十六年頃であつたと思ひます。その本を一遍火災に遭つて燒きまして、今日私の持つてゐる本はそれから後買ひました本でありますが、この本はたまにしかない本で、餘程得難かつた。今日は「經濟叢書」に出ましたから、誰でも見られるやうになつて居ります。しかし私はその後餘り山片蟠桃の傳記などに就て研究しませんで居つたところが、この「大阪市史」の編纂といふものが始まつて、私の友人の幸田成友君がそれに關係することになりましてから、成友君は本好きでありますから、蟠桃に就て餘程詮索をせられて、明治四十三年の正月の十三日、十四日の朝日新聞に書かれたのが、山片蟠桃の傳記が世の中に現はれた初めであらうと思ひます。近年「經濟叢書」が出來るやうになつても、その「夢の代」の解題の中の蟠桃の傳記に關することの大部分は、やはり幸田成友君の書かれたのに據つて居る。それを御覽になると蟠桃の傳記は分るのでありますが、今其處に色々蟠桃に關する書籍などが展覽されて居るのを見ると、一昨年あたりに、故郷の方で蟠桃に關する傳記を出版された方があるので、それには大分詳しく出てゐるやうであります。さういふことは、私は此處に來て始めて拜見して分つた位であります。
まあ兎も角長く蟠桃には注意を致して居つたのでありますが、こゝに興味のあることの出來ましたのは、偶然蟠桃の遺稿であるところの詩文集を手に入れることが出來たのであります。これも鹿田君の家から出たのでありますが、この本は三册ありますが、これが最初一遍に出て來たんでない、最初第一册だけが出て來ました。それからつい近頃、先月初めであつたが、鹿田君から他の二冊も出たからといふので持つて來ました。初めの一册が出ましたのは大正五年でありまして、私は何時でも何か鹿田君の目録が出れば、てくてく行つて本を探すのでありますが、その時に朝日新聞の中尾國太郎君といふ人が居られまして、私と並んで本を見て居られたが、この本を見て居られた。「何んです」と云ふと「こんな本です」と云ふ。山片蟠桃らしいので、見ると中に蟠桃軒圖書といふ印がある。どうもそれらしい。中尾君が「貴方要るか」と云ふから「要る」といふ譯で、私が手に入れた譯であります。ところが之を見ますと、目録には六卷になつて居る、さうして此の本は一冊の中には僅かに三卷までしかない。これは後があるものに相違ないといふことで、その後が出まいものでもないから氣を付けて貰ひたいといふことを鹿田君に言つて置きました。それから五年も經ちましたのですが、鹿田君が偶然、しかもそれを御自分の庫の中から發見されたんです。何か庫を普請をなさるんで、庫を浚へに掛つて、段々色んなものを出された。ところがその中から本が二册出て來た。その二册で四卷五卷六卷あります。さういふことで偶然にもこの本が完備したものになりました。その初めて出た時には、どういふ人が寫したものか分りませんでしたが、後になつて、それを今、永田有翠君の持つて居られる「夢の代」の最初の稿本「宰我の償《つぐのひ》」と引合はせる機會に遭つた時に見ると、どうしても同じ人が書いたものである。「宰我の償」は「夢の代」の今日のやうにならない前の、まだ完備しない稿本でありまして、蟠桃の自筆であるらしいといふことになつて居ります。元は幸田君が持つて居つたのを永田君に讓られた。それで私の此の本も自筆で書いたのであるまいかと思ひます。私は蟠桃の筆蹟を鑑定するに就ては、格別の能力を有つて居りませぬが、先づさういふ風なお話に從つて置く方が何やら勿體が付いてよさゝうであるから、その説に從つて居る。さういふ縁故で偶然にも私の手に遺稿が這入る、隨分二十六七年も注意して敬服して居つた人の遺稿が這入つたから、私に取つては今年の正月の中の最も嬉しいことの一つであります。何か機會があれば此人を表彰したいと話して居つたが、偶然にも懐徳堂の方で大阪の先哲の事を表彰されるお企てがあるといふことで、喜んで進んでお受けをした次第であります。
實は前に申しました富永仲基の事なども、一遍はどうかして之を表彰したいといふ考をもつて居るのであります。幸田君が朝日新聞に山片蟠桃の事を書かれた際にも、その頃富永の事を朝日新聞に書いたのを引いて居られますが、その新聞は今何處にやつたか持つて居りませぬが、久し振りに見ると私が書いて居つたやうであります。それで此の際富永の事も、もう少し調べて、その學問の偉いことを表彰したいと思ひます。しかし之に就ては、私に一つの志願があつて、その志願の成し途げられるのを待つて居る。富永の著述の中に「翁の文」といふ本があるといふことは一般に知られて居ります。その序交は大阪の國學者萩原廣道といふ人の「近世名家遺文集覽」といふ本に載つて居ります。此の「翁の文」といふ本ももうないものと久しく斷念して居つたところが、近年になつてそれがどうやら有り得る見込が出て來た。それでそれの出るのを待ちたいと思つて居るのであります。實は富永仲基のことは、「出定後語」だけでお話をしても、若しそれを噛み碎いて色々お話をすると、十日や二十日講釋が出來る。唯だ二卷であるが、内容の充實した本でありまして、噛み碎いてお話をすると非常に立派な講演が出來る位である、「翁の文」がなくてもよいのでありますが、さういふ引つかゝりがあるので、今しばらく志願の立つ時期を待つて見たいと思つて居ります。此の二人は大阪の學者で、私は最も久しく敬服して居つたのでありますが、近年「日本經濟叢書」が出て見ると、丁度山片蟠桃と同時に草間直方といふ學者があって、山片より五つ位年下であつた。鴻池の丁稚から別家になつた人で、鴻池の伊助と云ふ。例の「三貨圖彙」といふ、日本の貨幤史として非常に立派な著述がある。その人の事などを見ると、蟠桃などゝ同じ徑路を取つて居つて、その履歴も似て居れば、又着眼なども類して居る、えらい人でありますが、これは誰かその方の專門の方にお願ひした方が宜しからうと思つて居ります。
で先づ大體蟠桃と私との因縁はそんなやうなものであります。そこで一寸お斷りをして置きたいのは、幸田君の書かれた蟠桃の傳記であります。これは大變詳しくよく調べてあります。蟠桃の本家と稱する、言はゞ主人の御家の末孫で、今日もお見えになつて居る山片平右衞門さんといふ方から色々の材料を拜借して書かれたんで、餘程詳しく書いてあるやうであります。たゞ極く微細な點に於て僅か間違ひがありますやうですが、その主なることは蟠桃の生れ年であります。幸田君の書かれた傳記には延享三年に生れたとしてありますが、その中には又文政二年に七十二であつたといふ事を書いてあるんで、文政二年七十二といふと、延享三年は生れる前二年に當る。その點が喰ひ合はない、何か間違ひがあらうと思つて居つたんであります。別に大した事でありませぬけれども、一寸氣になつて居ったところが、そんなのは今の詩文集の草稿によつてどちらが正しいか分ります。詩文集の詩の中に庚子元日の詩があります、その題の下に、自分は今年三十三になると書いてある。それで勘定すると、文政二年七十二といふことは確かであるが、延享三年に生れたといふのは間違ひである。生れたのは寛延元年で二年後であります。さういふ事は一寸したことでありますが、遺稿が出た爲めに明かになりました。その外活字の間違ひであらうと思ふ處が一箇所ありますが、それは大したことでありませぬ。實は「大阪市史」の中にも蟠桃の傳がありますので、それによつて幾らかさういふ事の訂正が出來るかと思ひましたところが、それには訂正の出來るやうなものがありませぬ。「大阪市史」に載つて居りますところの傳記も、今此處で拜見しますと、私が前に舉げました學者の創見發明のものは富永仲基・三浦梅園・山片蟠桃の三人であるといふことを引用されて書いてあるやうです。さういふ譯で、詰り傳記の方は、まあ朝日新聞を御覽になるのは大變でありますから、大體「經濟叢書」の解題を御覽下さつて、今私が申したやうな誤を正せば分らうと思ひます。
それで、此人は傳記に載つてあります通り、播州で生れた人でありまして、さうして大阪に來たのは丁稚奉公に來た。子供の時から本が好きであつて、丁稚奉公をして居る間でも時々主人の用事を缺くことがあつた。それでその最初の主人は少々持て餘して居る所へ、今の山片平右衞門さんの家の二代目の人が、其奴は面白い男だから俺が引取つてやらうといふので引取つた。山片平右衞門といふ方は懐徳堂に縁故のあつた人で、懐徳堂で學ばれた人であるさうです。つまり學問好きの旦那衆であつたのであります。そこでさういふ丁稚は面白からうと引取つて世話をせられたのが、到頭こんなえらい人を出かしたんであります。
此の「夢の代」といふのは、その自敍や跋文などにもあります通り、最初享和年間に筆を起したやうでありますが、それは詰り著者の五十臺のことで、それで段々忙がしい事があつてその儘に捨てゝ置いたが、晩年になつて隱居されてから書き直された。書き加へた處は、既に盲目になつて居つたので、子供に筆記させたやうであります。でこの著述は十二卷になつて居りますが、これは假名まじりに書いてありますけれども、之を支那の書籍の體裁で論ずると、やはり諸子の體裁であります、「荀子」とか「墨子」とかいふ諸子の體裁でありまして、殊に漢から以後六朝頃の諸子の體裁であります。例へば儒家の經論とか何とかいふやうな色々の部類を分けて、部類によつて自分の考へた事を類別して書いた著述であります。假名まじりであるが、その中に含まれて居る見識といふものは、決して支那の漢から六朝頃の諸子類に劣る筈のものでないのであつて、殊に支那でも唐宋以後はさういふ諸子の體裁のものは餘り著述に這入らないが、此人のが諸子に似て居るのはえらい。漢から六朝頃の著述は、大方自分の創見があつて、その創見を書く爲めに著述をして居るので、單に普通の人が詩文集を遺すやうな意味でない、單に偶然に出來た著述でなしに、初めから部類を分けて見識を書いて行くものである。それが漢から以後六朝頃の體裁でありますが、「夢の代」の自然に之に適って居るのは、此人が何彼につけて創見の事を書く見識があつて、色々の標題を設けて、それに關する見識を表明する爲めに書いたものと思ひます。その點が自然餘程此人の頭のえらいことを表はして居ります。標題といふのは如何なるものかと云ふと、天文・地理・神代・歴代・制度・經濟・經論・雜書・異端・無鬼上下・雜論、この十二篇に分けられて居る。
それで、この天文・地理に關係したことは、一體此人は學問の創見があるには違ひないが、しかしその當時皆自分が發明したかといふに決してさうでない。その當時の偉い學者について色々の事を研究せられたので、その中、天文・地理、殊に天文に關係した事は、やはり大阪で立派な學者であつた麻田剛立について稽古をした。又地理の事は當時此人は蘭學をせられたんで、蘭書から得た知識らしい。又中に時々醫術に關する事がありますが、醫術に關する事も蘭學から得た知識であるらしい。その外、支那の學問の事は中井竹山・履軒兩先生の説が多いやうであります。
それで何も彼も自分が發明した事ばかりといふ譯ではありませぬが、最後の剣斷は自分の見識で判斷してある處が偉いのであります。天文・地理の事を書いた處なども、今日から申せば、當時は思想の混雑した時代でありますから、色々の知識が載せてあるが、その中で最も新しい知識と申せぽ蘭學の知識で、此人がその方からして天文・地理をやつて居るのは當時新しい學問に相違ありませぬ、學問として一種の新しい創見の學者であつたに相違ないが、一方にはーこれも天文の處に載せて居るのでありますが——國學者が考へた天地のことなどは、途方もないことを言つてあつたんで、本居宣長の「古事記傳」の中に、本居の門人服部中庸といふ人の天地に關する考が載せてあるが、餘程變てこなものであります。その昔世界が混沌として居つたところから天、地、黄泉が分れて來る次第を圏に書いてある、それが「古事記傳」の十七巻に載せてあつて、當時の知識の發達の程度として、途轍もないをかしげな事が書いてありますが、さういふことも伊勢邊りでは、それを道理らしく説法すると、それを道理らしく聞いて居る人もあつたと見えて、兎も角程度の違つた知識が同じ時代に混雑して居つた。それは今日ではさうでないかといふと、今日でも實はあります。一方には非常に喧ましい新しい議論があるかと思ふと、一方には大本教などがあつて騒動を起したりするやうなことで、何時の時代でもありますが、随分この時代は混雜して居つた時代であります。さういふ事に對して此人は實に明快な常識を有つて居つた。勿論大阪の如き大都會に生れたから、常識が非常に發達して居つた爲めでもありませうが、しかし當時大阪に住居して居つた人でも、色んな信仰もありませうが、此人の常識は實に明快である、明快な頭を有つて居りました。天文・地理のやうな事も、その當時の最新の學設である蘭學を信じて居る。醫術に對してもその通り、漢方の説などは信じない、蘭方の説を信じて居るんで、そこらが此人の進歩した點であらうと思ひます。神代とか歴代とかいふやうなことの歴史上の判斷でも、常識的の判斷で以て、総て怪しい事は信じない。その最も著しい點が即ち無鬼論といふものに現はれたのでありまして、それを内藤先生が感心して、その集めた叢書の中にその事だけを採られた。兎に角此人は有らゆる怪しい事を一切信じない。その貼になると、——何時でも自分の考は儒教から來てゐることを断つて居るが、儒教の方に來て殆ど衝突しやすまいか、儒教の天道を祭る事と衝突しないかと思はれる程度にまで鬼神を信じない。絵程當時に於て明快な知識を有つて居つたやうであります。
私の若い時に讃んで大いに感心したのは、経書とか雑書とかいふ、書籍に封する判斷であります。兎に角これが非常に明快に出來て居る。尤も大部分は中井竹山・履軒雨先生の説によつてやつたことは明かなことであつて、勿論中井履軒先生の経學の考は、當時日本で最も進歩した考を持つて居られたんで、山片幡桃が感服したのは、當時の支那の學問として最も進歩した學者であると感服したのに間違ひない。その中でこゝに私の特別の恩恵を受けてゐる關係をお話し致しますと、第八卷の雜書といふ處に書いてあることでありますが、私はこの本を讀んだ當時、それに大變感服致しました、それは勿論山片蟠桃の發明の説でありませぬが、その中に「老子」に關係した事を書いてある。それは伊藤蘭嵎——京都の伊藤東涯の弟の蘭嵎の説を引いてある。伊藤蘭嵎は日本で老子の本に疑問を挾んだ第一番の人と云うてもよい。日本で老子に疑問を挾む人は色々ありましたんで、その中で、九州の帆足萬里といふ人も「老子」といふものは後から出來たんで、「莊子」の中から逆に引つこ拔いて「老子」を作つたとか、極端な説を出した。伊勢の齋藤拙堂は、孔子は老子の弟子でないといふ説を出したが、その元祖たる伊藤蘭嵎の文集といふものは、世の中に出版されてゐないので容易に見られるものでないが、どういふことで見られたのか、——この「夢の代」には引用書目を擧げてありますが、それにはどうも蘭嵎の老子の事を書いた文が載つてゐる本が有りさうに考へられないのですが、——ちやんと原文を大部分その儘引いて載せてあります。それを見ますといふと、老子といふ人は無いといふ議論であつて、色々その證據を擧げて居る。さうして「老子」の中の文句からも、「老子」といふ本が存外新しい本だといふ事の證據を擧げて居ります。私は後に京都に行つてから、伊藤家の本によつて蘭嵎の文集を見ました、その全文を見ることは見たが、最初は伊藤蘭嵎の文を見たのは「夢の代」によつて見た。此の蘭嵎の説などは當時の漢學の考として非常に新しいもので、非常に鋭利な頭であつた。結論の善し悪しは姑らく別でありますが、——それは懐徳堂の武内君は非常に「老子」に就て詳しく調べられて居つて、日本でこれ程詳しく調べた人は居らんので、その結論は武内君に聞かんと分らぬが、しかし兎も角最も新しい善い頭の説である。それが此の「夢の代」といふ本に載つてある。面白いことだと思つて、當時私の頭を刺戟したのでありますが、さういふ事を兎も角採用するだけの頭のあることが非常に偉いと思ふ。それも此人が學問を商賣にして居るんであれば一向不思議はない、今の丁稚上りの、山片平右衞門の番頭さん、それが當時の學問の最上の位置にある所の理解をもつて居つた、その點が普通の人より偉いといふことを現はして居ります。
さて此人は學者の言ふことを感服する人かといふにさうでない、もつと鋭い頭を有つて居つた。學者といふものは役に立たないといふことを承知して居る。どうも今の世の中の學者で、諸侯の公卿大夫となつて實際の政治をやる人はないと書いて居る。その點は、學問がどれ位の値打のあるものかといふことを自分は知つて居る。さうして又一方學者の考へた事の最も新しい最も好い點を理解して、それを自分の著書に收める位の能力を持つて居つたんである。かういふことは餘程その人の頭のえらいことを證明するものだと思ひます。勿論此人は自分の商賣の方から云へば、經濟とか何んとかいふことが主な事でありませう、此の本の中にも經濟論があるから「經濟叢書」に採られたのでせうが、經濟といふ篇もあり、制度に關する篇もあります。此人の經濟に關する論は、なかく單に商賣人として、商賣の方から考へたんでない、やはり自分の學問を根柢にして、學問と實際と兩方から考へたのでありまして、商賣人の言ふやうな經濟論でない。その當時の大名の公卿大夫なり實際の政治家の考へるやうな事を餘程よく考へて居ります。さういふ見方でありまして、その當時では實に立派な頭を持つて居つた人だといふことが分ります。
此の本を讀みますといふと、實に色々な知識を得ますもので、私は若い頃愛讀したのでありますが、學問の方からの知識も得らるれば、實際の知識も得られる本であります。勿論今日の學問なり實際なりから考へては、必ずしも一「此の通り行けるものかどうか疑問であつて、さうは行かんと思ひますが、その當時として考へて見たならば、餘程偉い人だといふことが分ります。で隨分その時分からして色々の學者逹も此人に感服して居つたものでありませう、當時大阪で第一流の人物といふと、誰でも此人を指さしたといふことで、世の中に擢でゝ居つた人に違ひない。實はまだ此の本に就て私はもつと色々ゆつくりと研究して見たいと思つて居る。此の本の中に時々批評の文などが這入つて居りますが、誰が批評したか分らぬ點がある。その批評の文には此人と違つた意見を書いて居る點もありまして、それ等は餘程又研究に價する所もあります。今目は單に御紹介をするだけでありまして、さうして尚ほ研究は機會があつたら續けて見たいと思つて居るのであります。以上は大體「夢の代」の御紹介を申した次第であります。
それからこの詩文集に關しましては、これも餘程本式に學問を稽古したことを現はして居る。詩の出來榮えなどは、良く出來たのはその當時の作家と云うてよい位出來て居る。良い詩がざらにあるかといふとさうでない、十首の中に一首位しかないが、良く出來たのは學者並みには立派に作れたものと思ひます。それから色々詩の題などを見ますといふと、初めの間は眞面目に、漢學者が稽古するやうに稽古したのであります。先生が月々詩の題を出す、その題に就て一生懸命に作つて居る。漢文も先生の出された題によつて、色々な漢文を稽古して居つたらしい。兩替屋の番頭さんだから忙しいに違ひないが、その間に普通の書生さんが稽古をすると同じく、本氣になって稽古して居る。學問の根抵のしっかりした所以であらうと思ひます。さうして隨分此人の境遇上、又餘程當時のえらい人と交際して居るやうであります。もう少し先に申しますことですが、此人は山片平右衞門の家の番頭をして居る際に、仙臺藩の財政を立て直した事が非常に偉い事である。それが爲めに仙臺に行つた時の詩もあつて、松島などを歩いた時の詩などもあります。さういふことで仙臺の立派なえらい侍などに附合つて居つたらしいが、それから又大阪に來る當時の色々の書生などゝか、中井家の關係から交際をして居つたのもあるらしい。「夢の代」の最後の處には、その頃流浪をして居つた阿波公方——足利家の末流で代々阿波の平島に居つて平島公方といふ、その末流、これは蜂須賀の領分の中でありますが、蜂須賀の家來でない家筋である——その人などゝやはり中井家の關係で交際をして、詩を贈つたり、和韻の詩を贈られたりしたことが、「夢の代」の一番おしまひになつて居りますが、さういふものは詩文集の中に澤山あります。當時の立派な侍、上流の人々と始終交際があつて、その際にさういふ人の學問のある人と詩文の應對をしたりするだけの才があつた。此人が一番嫌ひなのは佛教であります。佛數が非常に嫌ひで、少し可笑しい位である。立場が儒数である爲めでもありますが、佛教嫌ひで、日本の祖師達に對しては有らゆる罵倒をして居る。前に申した無鬼論の大部分にも佛教の攻撃がありますが、それと同じやうな事が文集の中に載つて居ります。それはー今度も懐徳堂の今井理事が骨折られて蟠桃の郷里まで人を遣つたさうであります、郷里の覺正寺といふ寺に、蟠桃が贈つて遺して居る杯があるのであつて、それを借りられることは出來なかつたさうでありますが、向ふに陳列してある墓標の拓本だけが出來ましたが、その覺正寺が郷里の檀那寺であつて、その住職とは餘程懇意なのに違ひない、蟠桃が晩年に幕府から銀を賜はつた時に、色々郷里に贈物をしましたが、その時にこの郷里の寺にも、自分の記念として立派な金蒔繪の杯を贈つたさうでありますが、その住職に與へた手紙が二通文集に遺つて居る。それは丁度今の「夢の代」に書いてあることゝ同じやうな事で、始めから終りまで佛教の惡口を書いてある。それに對して何か覺正寺の坊さんから反駁が來たものと見えて、又言うて遣つたものと見える。佛教は根柢から嫌ひであります。さういふことも、決して今日から云つて名文といふことは出來ませんけれども、その當時の坊さんと漢文を以て立派に應答して議論をし喧嘩をするだけの力があつたことを示して居る。その點からしても此人の學問の力といふものが、眞に諄諄として書生の如き學問をして、さうしてこれだけに仕上げたもので、商賣の片手間の仕事として半端にやつたんでない、眞に本當の學問をしたものであるといふ事が分る。さういふ事が詩文集から分るのであります。
此人の一生の間の事業に就ては、それはどうも「夢の代」にも何にも出て居らぬ。詩文集の方でも色々の關係が分りますが、どういふ事柄か分らぬ。近年幸に「經濟叢書」の中に出た他の人の著述でそれが分る。海保青陵といふ人の「經濟談」といふものが「經濟叢書」の中に載つて居ることは御承知である。「經濟談」は皆海保青陵が話をしたもので、誰が筆記したのか分らぬが、眞にロで言うたやうな書ぎ方であります。全くの口語體ではありませぬが、口語體と同じゃうな體裁である。その中に「升小談」といふのがあります。山片蟠桃は升屋小右衞門と申しましたから、その升屋小右衞門に關係した事を書いたんで.「升小談」とした。升小に關する事を話したのですが、それは升屋小右衞門蟠桃の履歴を書く爲めでない。たゞ海保青陵が蟠桃の話を種にして一種の經濟政策を述べたものであつて、中には蟠桃に關係のない事も書いてあるが、それによつて兎も角蟠桃のやつたことが一段の大事業であつたことが分る。此人は仙臺藩の財政を立て直した。その事に就て餘程詳しく込み入つた事を書いて居ります。大體は自分の主人たる升屋平右衞門の家の財産を根柢として仙臺の財政を直したのでありますが、當時仙臺は——何處の國でも寛政以後の諸藩はすべて經濟が苦しいのであつたが、——餘程苦しんで居る。東京の店、大阪の方々の店に借りが出來て財政に窮乏して居つた。そこで此人は一種の經濟政策を立てゝ仙臺の財政を持ち直した。勿論主人の家の繁昌するやうに仕組んだのであります。その遣り方はどうかといふと、仙臺に米札を發行した、詰り米引當ての紙幤を發行さした。さうしてその米を引取つて廻す事と、米札を發行して仙臺ではその國内にある所の金を仙臺藩に集めさして、それを大阪に持つて來て大阪で金を廻して利息を作る事をやつた。仙臺はなんぼ大國でも、仙臺藩の内だけでは何も利息の方法がない。大國で米があつても、仙臺藩でもつて賣つても何にもならない。そこで江戸とか大阪に米を廻すことは、各藩の政策でありますが、その遣り方が惡かつた爲めに、年々金主も迷惑をし、自分も困つて居つた。それを財政の立て直しをしてやつたのであります。米札の發行、それが根本の遣り方でありますが、それを海保が批評的に書いて居る。なるほどこの遣り方は役には立つが、しかしたゞ仙臺藩が仙臺で米札を發行して金を蒐集したところが、それは何にもならぬ。仙臺でやつたところで、人民は仙臺藩の紙幤を信用して通用しやせぬ。——やはりその時分の各藩は今日の支那の政府のやうであつたやうに見える。今日の支那でも、支那政府のものは信用せられぬが、外國人が居ると信用が出來るんであります。それと同じで、各藩は支那の國のやうで、大阪がまあ今日の英國とか米國とか乃至日本とかいふやうな信用經濟上の信用の中心であつた如く見える。そこで升屋小右衞門が集めた金を大阪に廻す。升屋が財政を預かつて居るからといふので、仙臺で米札發行の財政策が效力があるんだといふことを、海保が餘程際どい處まで書いて批評をして居る。仙臺の金が大阪に來ると、色々の事に廻されて利息が出來る。その利息で廣い大阪の金を廻して行く。大阪の各方面にも仙臺の信用が囘復する。廻して居る問に、勿論山片平右衞門が兩替屋であるから、詰り今日の銀行であるから、その間に主人の家も繁昌した。そのことが當時えらい事であつて、大阪でも評判になつたものと見える。海保が大阪に來て、!海保先生は隨分方々歩いて居つた人であるが、ー一生の間に二度位大阪に來て、大阪が大變に變つたことを言うて居る。さうして此の節えらい評判の一つになつて居るのは、升屋小右衞門といふものが出て、仙臺の財政を改正した大豪傑だといふことをうんと賞めて居る。その當時、元來江戸には仙臺の財政の元方をする家があつたんで、家の名前は書いてないが、伊勢町、本船町といふ處に仙臺の米を預つて廻す家があつた。それ等は皆馬鹿な爲めにすつかり升屋小右衞門に自分の方へ仙臺の財政を取り上げられた。江戸の奴らが馬鹿なことをやつて居ると、江戸と大阪の比較を詳しく論じて居るが、兎も角これによつて、蟠桃のどういふ遣り方で仙臺の財政を囘復したかといふ事が分るのであります。
それからもう一つは、やはりその當時大阪で評剣であつたと見える、海保は、升屋小右衞門が主人の山片平右衞門の家の憲法を立てた、これがえらいことだと書いて居る。單に憲法を立てたといふのがえらいばかりでなく、鴻池・加島屋でもその眞似をして憲法を立てゝ、大阪の大きな店がちやんと引立つやうにしたといふことを書いてある。家憲はそこら中に出來るものでありますから、智慧のない奴でも作るが、その家憲の作り方に感服をして居る。これなどは全く政治家の伎倆であります、立派な政治家の伎倆として褒めてある。家憲の作り方、法の作り方が極めて良い、誰でも守られるやうな法であるが、法を執行する時になると嚴しい、少しも容赦をせぬ、これが非常にえらい處だと書いてある。作つた人もえらいが、批評家もなかくえらい。それでその遣り方の例も書いてありますが、番頭、手代は皆一月に三日は墓參りと云つて暇をやる、朝から晩まで何處へ行つて遊ばうと勝手次第である、しかし夜の四つ時——午後の十時には歸つて來なければならぬ。非常に簡單な遣り方である、誰もそれを背くものはない、背いた時には誰でも容赦せぬといふことを書いてある。それで法は易く作つて、さうして執行者は嚴しいのがそれが善政、法といふものは執行が悪いのは決して善政でない、法は嚴しくないのが善政、それらは批評家もえらいが、勿論山片蟠桃も注意した點が見える。初めから法を嚴しくし、法の箇條を澤山にすると、執行の方の人はこれは餘り法が嚴しいからと手加減をして、法の手心をするやうになる。その癖がつくと、かういふ事位は勘辨されるだらうといふので法が弛んで來る、さうすると法が行はれぬといふことになる。然るに升屋小右衞門の法は、法は極めて寛かで誰でも守られるものでありますが、破つたものは容赦せずに處分する。それからもう一つ善い事は、執法者即ち目附役が獨立して居ることであると書いてある。何處の店でもあることで、大きな店では目附は他の職務があつて片手間にやる。他の職を兼ねて居りますから目附役を兼職としてある。それで本氣にならん爲めに自然に法が崩れて行く。升屋の家では目附役の者は何もしない、純粹に目附役だけが職務、目附役をしなければ職務が行はれんから法は嚴しく行ふ。今日の考から言へば司法權を分離するといふ意味を、當時に於て考へたと云ってよい。餘程立法者としての頭を有って居る、それを見拔いた海保も遣り手でありますが、兎も角さういふ處がえらい。それで毎晩必ず店中の手代は目附の前へ行つて印を捺す、さういふ極めになつて居る。それに間違へば詰り法に觸れるといふことで、目附役の前に行くといふことでその度に記憶を呼び起させるといふことを書いてある。
詰り海保といふ人が山片蟠桃に關して申したことは大體此の二つの事で、それを擴めて書いてありますが、大體は二つの事を主として書いてある。單に二つの事だけでありましても、此の山片蟠桃の經濟上の能力、政治家としての能力といふものは、之を一軒の中に行なつたものであるとしたところが、その精神としては、何處の國に行つても、大國にでも持つて行かれるものであるといふことを考へましたことが分りますので、海保の書いたのは僅かでありますが、幸に之によつて此人の實際的方面に偉い力を發揮して居ることを知ることが出來るのは大變仕合はせである。「經濟叢書」編纂者の瀧本君にこれは感謝をしなければならぬ。これは單に山片蟠桃といふ人を世の中に出したばかりでなく、その當時の大阪の最も發逹した時代に於て、政治の方面でも經濟の方面でも、さういふ風な最も進歩した政治經濟をやる人が出來て來たことが分るのであります。今日では此の本は誰にでも見られる本であるから、どうぞこの山片蟠桃の事を御覽になるといふ方は、一應御覽を願ひたいと思ふのであります。
私は別にその外に就いて、今までの人のやつたことの外に何も蟠桃に關した詳しい事を研究して居る譯ではありませぬ。たゞ詰りこれまで、その人からしてどういふ點に於て感化を受けたか、どういふことからして此人に注意をするやうになつたかといふことを今日お話申して、それによつて又蟠桃に關する事を色々研究せられる方が出て來れば仕合せと思ふのであります。瀧本君が解題の中に書いて居られるが、蟠桃には「大知辨」といふ書物があつて、米價及び一般の物價を論じたものであるといふことであります。經濟上の救濟事業、食糧問題に關することなどに就ても「夢の代」には注意をして居る。なか〳〵奇拔な議論があります。その當時も大分米の不足であつたことがある、米が高いと困るといふ議論であつたが、此人はそれは差支へないといふ議論で、なか〳〵奇拔な議論もあります。太閤樣とか松平伊豆守が、米がなくて困るといふ時に、米を無暗に高い値で買上げさしたといふ例を出しまして、太閤樣は飢饉の時に米を買上げさしたが、——その時分は尤も地方と大阪と色々の關係から、地方と都との關係で直接に米を出したこともありませう——高いといふので澤山米が出て來たのを買上げて、米が不足が出來た後に費り出した、高いといふので米を儉約さしたんで、翌年の米が出來るまで喰ひ繋ぎが出來たことがある。食糧問題に關して貴重なものです、ところが「大知辨」は某大家にあるが見られぬ。さういふものは世の中に現はれずにあるから、さういふものも多數の研究者の目で探せば自然出て來て、此人の偉い點がはつきりするかも知れぬことゝ思ふ。兎に角私が知って居る一斑を申上げて、さうして此の講演を終らうと思ひます。
(大正十年二月講演)
最終更新:2024年08月02日 21:34