明治庚戌の交、西村君子俊懷德堂考を著はし、之を大阪朝日新聞に揭ぐ。堂の起原沿革及先師儒の學術に於て、之を叙すること甚詳なり。世人相傳へ、先覩て快となす。社友有志私かに數十部を印して、之を頒つ。而して未だ流行刊本あらざるなり。懷德堂記念會の成るや、又印行を議する者あり。大正甲子四月重印の事决す。子俊親ら訂補を爲し、稿を以て余に致す。未だ印するに及ばずして、子俊遽かに世に卽き、終に書の成るを覩るに及ばず。是れ憾むべきなり。惟ふに此書片々たる一小册なりと雖も、其の始めて世に出づるや、大阪人士の心を鼓厲し、懷德堂を重建するの議、是に於てか決す、文の以て已むべからざる此くの如し。昔者左太冲三都の賦を著はし、洛陽之が爲めに紙貴し。然れども以て豪貴の披玩に供するに過ぎざるのみ、子俊の此書能く名黌を興し、以て文教を裨補するものゝ、未だ日を同うして論ずべからず。則ち此擧徒爾なりとせず。固より簡帙の小なるを以て之を輕んずるを得ざるなり。卷末今增するに懷德堂復興小史及懷德堂年譜を以てす。前者は會の記錄を抄して以て復興の緣由と現狀とを明かにせるものなり。後者は黃裳中井君の撰するところ、君名家の裔を以て祖考の業を追念し、嘗て家藏懷德堂舊記及先師儒の遺文日乘に據り、年表一卷を撰す。事祖考に關するもの尤詳密にして復た遺こすところなし。余嘗て子俊の言を聞く、懷德堂は浪華の公學にして、一家の私塾に非ずと。懷德堂考并に其の草するところの懷德堂記念會趣旨書倶に頗る意を此處に致せり。因りて以爲へらく、年表中若し專ら家常瑣事に繫かるものを刪りて、以て懷德堂考の後に坿することを得ば。讀者の便大ならんと。乃ち子俊に函して之を諮る。子俊之を贊す。余因りて君を訪ふて勸むるに節略合印の事を以てす。君も亦慨然之を諾す。時恰さに盛夏、君勞劬事に從ひ、年表を約して年譜を編す。既にして子俊世を謝し、重印の事亦爲めに頓挫し、荏苒季を踰に、今纔かに功を竣ふ。卷頭の珂羅版は本會理事文學士今井君貫一の選するところ。校字に任ずる者、本會講師文學士稻束君猛となす。子俊の囑に依るなり。書凡て三校す。初校は懷德堂學子野口子幸雄之を助く。書成る。因りて其緣起を叙すること此くの如し。
大正乙丑九月 懷德堂教授 松山直藏
最終更新:2024年08月05日 14:54