西村天囚『懐徳堂考』序説

我が大阪は古來商業の都會なれども、學問の開けしも亦久しく。碩學鴻儒、市井に窟宅し、町人文學の盛なる、海內其の比を見ず、是れ其故何ぞや、(一)文化は富力に伴ふを以て、海内に甲たりし大阪の富は、文化を開發するに力ありしこと、(二)戰國の後、肥遯を喜べる高士は、領主の拘束なき市に隱るゝ者多く、やがて讀書人の種子を大阪に播布したりしこと、(三)諸藩の藏屋敷には文雅の士多く、隨つて游學生の來往あり、遂に足を留めし者尠からざりしこと、(四)大阪の富豪は諸藩に出入して、藏屋敷の士人と交際往來するより、文學にも疎からぬ程の素養を要し、隨って學を興し師を聘せしこと、(五)富豪の道樂は往々身を亡し家を破るも、文雅の道は道樂として危險ならざるより、學問に緣遠き町人も斯道に携はりしこと、(六)藩法官紀に拘束なきより、思想の自由は大阪文學の發達を促しゝこと、其の餘猶種々の理由ありけんも、大要前記六則は本地文化の盛を致しゝ原因なるべし、富んで而して驕る無きだに難しと爲すに、禮を好み道を講ぜし我古の大阪町人は、豈敬慕す可きの至ならずや、今は則如何ん、予は今古に俯仰して、慨なき能はず、是に於て大阪文學の沿革を研究して復興に資せんと欲する者日久し、猶記す明治二十五六年の交、子は一論文を本紙に揭げて、(一)圖書舘の開設、(二)文學會の創立、(三)文學傳の編纂の三事業は、我が大阪の急務なるを說きしを、既にして浪華文學會は起れり、予も亦文學傳の資料採訪に從事せしが、目錄纔に成りて、而して其業中廢し、浪華文學會も亦數年にして閉ぢつ、交友星散、歡復た尋ぐ可らず、忽々十八九年なり、今や大阪圖書舘儼然として立ち、大阪人文會も亦崛起して、前脩先哲の事蹟を研究するあり、予が往年期待せし所の三事業は、將に成を今日に見んとす、何等の快事ぞ、予れ深く大阪文化の爲に慶す。蓋し大阪文學は、和漢學を初め、院本、小說、俳諧、狂歌等其の門頗る多くして、又各特色あり勢力あり、日本文學史に於ける位地固り高く、關係亦大なり、人文會は各科の專家、門を分ちて擔當す、庶幾くは闡顯憾なきを得ん、但予れ末學を以て漢文學派研究の員に備るも杜撰の誹を免れざらんことを愧るのみ。
顧ふに我が大阪の漢文學派研究は、懷德堂を以て經と爲し、混沌社を以て緯と爲し、伊物崎の各派を以て其間に観映すべし、懷德堂は實に享保十一年に創して、明治維新の際に廢し、時に隆替ありと雖も、大阪の文教を主持すること實に壹百四十年、久しからずと爲さず、石菴甃菴に始まりて、竹山履軒に盛んに、其の學派の分布は天下に遍く、勢力の盛なるは昌平學に繼げり、是れ懷德堂を以て主と爲す所以なり、混沌社は片山北海を以て中心と爲し、一時名賢、群集唱和、大阪の文事、此の時を以て盛なりと爲す、會竹山履軒と時を同くして、而して彼は學術文章を世にし、此は獨り詩を以て鳴り、且つ久しからずして星散、音を嗣ぐ者なし、混沌社は客たる所以なり、伊氏に中江珉山あり、繼ぐ者寥々、崎門は留守希齋に始りて尼崎修齋に至り、物派は菅甘谷を先とし、藤澤東畡を殿と爲す、而して懷德以前に如竹鳳梧の徒あり、是れ懷德堂の前記に係る、懷德以外に篠崎小竹廣瀨旭莊等あり、是れ別記に屬す、其の餘大阪に出でゝ諸國に居り、諸國より來りて大阪に居りし諸儒の、事蹟未だ詳かならざる者何ぞ限らん、此は皆宜しく採訪蒐集、假すに時日を以てすべし、今予は先づ手を懷德堂研究に着けて、而して五井持軒蘭洲父子より始まる者、抑も故あり。
初め予れ懷德堂を研究せんとして、未だ端緒を得ず、既にして蘭洲の鷄肋篇四冊を會員眞砂濱君(和助)に借りて之を讀み、驚喜禁ぜず、鷄肋篇は蘭洲手定の文稿なり、尋で蘭洲遺稿二冊を會員蘆隱太田君(源之助)に借るを得たり、此は君の手寫本にして、鷄肋篇と重複する者十六篇を除く外、皆蘭洲晩年風後の作と覺しく、特に隨筆體の叙事多くして、懷德諸儒の逸事を載せたる、眞に得易からざる好資料に屬し、大阪文學界の洪寳なり、予れ遺稿を讀みて蘭洲と懷德堂との關係を詳にし、更に鷄肋篇の持軒先生行狀を讀みて、蘭洲の父持軒が大阪文學に偉功あるのみならず、其の祖父は大阪に於ける讀書人の祖なるを知り、懷德堂研究の第一着として、持軒蘭洲の事蹟を叙述する所以なるが、太田君は更に貸すに其の苦心蒐集せる浪華名家碑文集一冊、及び手寫の懷德堂記錄四冊を以し、同僚好尙木崎君(愛吉)も亦採訪に協戮せしより、資料略備れり、因て之に加ふるに自己の聞見を以して此の編は成れり、謹んで此に好古篤學助力を吝まざりし諸君の厚意を感謝する者なり。
此の編は蘭洲を主として持軒に遡り、石菴甃菴等の事蹟梗概を人文會に講演せしもの(一月念九)今補訂して此に載す、他日更に懷德堂本紀とも云ふべきを物して、甃菴の創立より、竹山履軒の盛時、維新の廢學に及びて、其の始終を詳記せんと欲す。請ふ讀者諸を諒せよ。

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最終更新:2024年08月05日 14:58