西村天囚『懐徳堂考』一、五井持軒(四書屋加助)

五井氏は慶元以後に於ける大阪最初の讀書人なり、大阪最古の儒林世家なり。
五井蘭洲に持軒先生行狀(鷄肋篇)あり、伊藤東涯に持軒先生五井君墓碑銘(紹述先生文集)あり、梁田蛻巖は醫官柳川牛山に代りて持軒先生傳(蛻巖集)を作れり、三者を參看して其の事蹟を按ずるに、五井氏は左大臣藤原魚名に出づ、魚名十世の孫なる民部大輔貞之の弟守康、世々和州の五井戶中谷辰巳三邑を食みて多武嶺の社家たりしが、永祿中兵亂に遇ふて南都に奔り、遂に此に住して五井を氏と爲せり、其の支族の江戶に仕ふる者は井戶氏と稱し、井戶對馬守之が宗たりといふ、名は守香法號を禪久といふ者に至りて、儒術を崇び和學に通じ、又詩歌を善くしけるが、幼時には尊朝法親王に侍し、善書を以て恩遇甚だ渥く、長ずるに及びて或は大阪に寓し、或は江戶に往けり、江戶に在りし時、豐前守賀古某之を幕府に推薦せしも、疾を以て辭し、伊達侍從(政宗の長子秀宗)之を聘せしも亦辭せり、因つて伊達就封の時、守香の長十官眞を召出されしが、守香は遂に大阪に隱居せり、是れ實に持軒の祖父なり、其の大阪に隱居せし年代は、元和中もしくは寬永の初にもや。傳には守香に節用集の著ありと記し、行狀には持軒の家に日本紀の學を傳ふと云へり、日本紀の學は蓋し守香に出づゝ其の學問の時人に卓越せしを知る可し。元寛の際に於ける大阪には、寺小屋手習師匠こそ少からざりけめ、和漢學に兼通せし讀書人の土着は、此の人を推して先鋒と爲すも不可なからん。
守香の次子守純、通稱善次郞(法號淨隱)は父に從ひて大阪に居り(行狀云、病を以て家居すと、傳云、清狂事を事とせずと)那須氏を娶りて二子を生む、長子は名字詳ならず、次子は實に持軒先生なり、五井氏は大阪に土着すること三世にして、持軒を出し蘭洲を出す、大阪最古の儒林世家に非ずや、後の學者は輸入人物多きに、懷德堂に大功ある諸儒を叙して、先づ筆を此の土着の儒家に起すは、大阪人の名譽なり。
五井持軒名は守任、通稱加助、薩摩の如竹散人が大阪を去てより未だ久しからざる寬永十八年を以て大阪に生る、是より先き如竹散人の惟を浪華に卜しゝは、寛永十三四年比に在り、如竹去て持軒生れしは、其の替身とも謂ふべきか、當時の儒林を按ずるに羅山歸然として猶存し、京師に松永尺五あり、近江に中江藤樹あり、土佐に谷時中あり、仁齋時に年十四、世に大學あるを知てより三四年を出でず、闇齋が三十にして關異を著はしゝは持軒生後六年に在り、實に學術勃興の機運に際して、天此の奇物を大阪に生ぜしは、偶然に非ずと謂ふべし。
持軒幼より態度凡ならず、祖父守香と同居して其の庭訓を受け、年十五の明曆元年(此歲如竹歿)には、笈を負ひ京師に游びて、伊藤仁齋中村惕齋二翁に師事し、貝原益軒兄弟(兄の存齋か弟の恥軒か不詳)及び松下見林等と交れり、持軒十五の時には、惕齋年二十七にして朱學を篤信し、仁齋は三十、學風未だ一變せず、益軒も亦未だ大疑を發せざる時なれば、持軒は此の諸儒に從ひて、程朱の學を研窮せしなり、時に山崎闇齋京に在りて儒宗と稱せらる、持軒往きて見んと欲し、之を益軒に謀りしに、益軒之を可とせざりけるより止みたりとぞ。
儒醫兼學は當時の習尙なり、持軒も初め醫方を向井靈蘭(元升)中島長安二子に學び、名を重節と稱しき、或る時一婦人を療治して方劑を誤りしより、予は之を活さんとして、反て之を死に致せしこそ淺ましけれとて、遂に醫を改めて儒と爲れり、時に備前の芳烈公は、儒術を尊崇して、學校を設け聖廟を建て、儒生を重用せられけるより、持軒も亦備前に遊べり、人の之を公に薦むる者ありしが爲にや、行狀には意喜びざる有りて、復た京師に反るとあり、時に熊澤蕃山は已に備を去りし後なるが、如何なる事情かありけん。
十五洛に入てより十年餘の游學に、業成りて大阪に歸りしは、實に年三十の寛文十年なりき。
年三十にして大阪に歸りしより、八十一の歿年に至る迄の五十年間は、持軒教授を以て業と爲せり、是れより先き大阪は如竹去て後儒者あるを聞かず、書法に名を得し者あるも、寺小屋に過ぎず、羅山門下の一井鳳梧浪華に教授せしは、持軒歸阪後なるべし、然れば持軒は如竹に繼げる儒者なるが、四書にだに通ずるを得ば、宇宙第一の理を識るべく、之を躬に行はば能事畢るとて、循環して學庸論孟のみを講じ、未だ嘗て他書に及ばず、因て人戯れに持軒を目して四書屋加助と云へりとぞ、其の名目能く大阪の本色を現はし、大阪人の學者に對する思想猶稚かりしを知るに足れり、東涯曰く府下の人士、學を講ずる者罕なりしに、先生訓誘多年、人義に郷ふを知れりと(碑文)服部南郭は蘭洲に答へて曰く、在昔尊翁先生、道を浪華に唱へて、海内景仰久しと、(南郭文集)原念齋曰く、此の地文學の興る、持軒を以て首と爲す(先哲叢談)と、皆溢美に非ず。
持軒は講說に長じたりき、大阪城番保科侯(信州高遠)嘗て持軒に請ひて大學首章の講を聽き、其の詞辯條暢、至誠人を動すに感じ、乃ち登庸を謀りしも肯んぜざりき、其の門人吉田知行(通稱理平)文學を以て本多侯に仕へし者、屢其の學行を稱せしより、侯知行をして來り迎へしめ、待つに客禮を以てせしが、講說の朗暢を稱して、痒い處に手が屆くこと此の老の如きを見ずと云へり、其の他未だ嘗て公侯に見にず、教授を以て一生を終りしかば、從學の徒甚だ多かりしも、持軒人と爲り謙遜にして、敢て自ら師位に居らず、何某は門人なりやと問へば、朋友なりと答へて、未だ嘗て門人とは稱せざりきとなり。
持軒の學は、正大を尙びて支離恍惚の說を爲さず、人の入り易く行ひ易からんことを欲しき、故に其の人に示すや簡にして、聞く者疎と爲すも、退きて之を念へば、各肯緊に中れるより、終には必ず之を信じけり、初め朱子を宗として、其の尊信を極めしも、晩年には稍從違あり、其の說に、宋儒の說、精は即ち精なり、然れども性を理氣に岐つは孟子の旨に非ず、性を說くは程子を以て詳悉と爲し、孟子は未だ少しく疎なる處ありと謂ふに至りては、予の信ぜざる所、孟子七篇を熟讀せば、聖人の道知り難からずと爲せり、然れども持軒の經子を講ずるは、率ね新註に從ひ、親炙せる門人に向て、略其說を示すのみ、蓋持軒は溫厚の長者、異を立つるを好まず、辯駁を務めず、屬續前一日、筆を援て門人に遺言し、朱子學を偏執する者と爭辯する勿れ、唯罵詈を肆にして己に益なしと言へり、持軒は家に日本紀及び和語の說を傳へ、之を修むること精詳にして、怪誕不經の說を交へず、又下河邊長流に從ひて和歌を學び、萬葉古今等の要義を聞けり、題咏に敏にして苦心珊鏤せず、其の餘著述なし、聖經已に之を明にし、賢傳又之に繼げり、著書は贅のみと云へり、詠草詩稿の類は、享保度の大火に鳥有に歸し、今は唯一二國風の人間に存するを見るのみ。
持軒は華奢なる大阪に住して、其の風に染まず、本多侯其の風貌古朴を見て、常人に非ずと嘆賞し、其の友三輪執齋も亦持軒を評して、古心古貌は、書を讀まざる者時に之あるも、書を讀む者には希なり、唯天資是れ用ひて、絕ねて一曲意一矯情の氣を見ざる者は、此老師を然りと爲す、眞に古人なりと云へり、斯る古風の長者なれば淫樂俚謠、之を聞けば必ず避け、戯塲倡街、足一たびも踏まず、雜劇非禮の書、未だ嘗て目に接せざりきとぞ。
天資孝謹にして、幼時過ちて祖父の病床に在りし溺器を踏越ねしをだに、勿體なしとて、之を拜して他處に移せり、其の父頗る佛法を信じければ、持軒は之が爲に再び藏經を閱し、命のまゝに佛會などにも赴きしは、歡を奉ぜんとてなりけり、生平儉素自ら守り、天物を暴殄するを戒めて、書狀は常に反古を用ひ、衣服什器など、一も嗜好なし、襟懷坦率にして、邊幅を修めず、辭說を飾らず、平居未だ曾て人の惡を言はず、他人の言、理に當らざるあれば、之を面斥せずして、唯我等は解せずとのみ言ひけり、然れど苟くも學問に及べば、誨誘懇切にして、解せざれば巳まず、嘗て人に向て、我等胸中には未だ嘗て一惡念を蓄へずと謂へり、左もありけんと思はるゝ人柄なり、又嘗て人は惡を爲すこと能はざる者ぞと謂ひしに、一書生ありて、私共は左樣に參らずと謂ふ、持軒色を正して、君の人と爲り斯るべしとは知らざりき、惡若し作す可くは、試に之を爲せとぞ言ひける。持軒は酒を好み又棋を好めり、然れば鳥山芝軒が持軒に贈れる詩に、取醉酒三椀。遺悶碁一秤。と云へるは實を紀するなり、又喜んで曉月を愛し、興至る每に月下に獨酌し、歌を詠じて樂と爲しき、壯時は家道頗る裕なりけれど、寡慾にして蓄財を事とせず、餘金あれば宗族兄弟の持去るに任せて、遂に家產を掩有せられ、晩年には貧困窘迫を致しけるが、人若し義を以て相恤む無くんば、凍餒に甘んぜんのみとて、淡泊自ら守りきとぞ。
持軒年八十に及びて、門人故舊、始て壽宴を清水の酒樓に張れり、三輪執齋が『日にそひて高くぞ仰ぐ學び得し心ののりも高き齡も』といふ和歌を贈りしは此の時なり、又門人相謀りて持軒の爲に室を構へつゝ、終焉の地と爲しゝも此の比なるべし、持軒乃ち徑を開きて卉木を雜植し、灌漑以て樂みつゝ暮景を送りければ、芝軒又詩を贈りて、知君更有逍遙處。不讓堯夫安樂窩。の句あり、膝を容るゝこと久しからずして、壽宴の翌年には歿しき。
持軒疾篤きや、門人氣分は如何にと問ひしに、只今孟子の某章を思ひ出でゝ、其の解を得たり、吾子之を思量せすと云ひ、向きに唐詩を讀みて幾首を記憶し得たりなど語りけり、臨終の際にも意を經傳に留め、明日をも知らぬ身に、猶唐詩の暗記を勉めしは、誠に學人の易簀たるに負かず、親知又遺言を問ひしに、瞠目して無無と云ひ、重ねて二人の兒に囑すべき事なきやと云ひしに、彼等善を爲せば彼等の善なり、惡事を爲せば彼等の惡事なり、何の遺囑か有らんとて他を言はざりければ、蘭洲後に、誠に能く性善の道を諭されたりとて、其言を服膺せり、安心立命とは是の人なるべし、持軒臨終の前日、碁盤を命じて一局を圍みけるが、其翌午時に終れり、實に享保六年辛丑閏七月十八日なり、享年八十一、知ると識らざると、聞く者悼惜せざるは莫かりけり、越にて三日天滿寺町の九品寺なる先瑩(今は持軒の墓のみありて父祖の墓なし)に葬れり。持軒の配は香川氏、三男一女を生む、長男孫太郞は夭す、二男純實、桐陰と號せり、家譜に初は通稱內記、鷹司家に仕へ、後ち權藏と改め、御先手組鐵砲與力、知行二百五十石、寶曆十一年辛巳九月卒、六十九とあり、次は女子、水谷氏に適く、季は即ち蘭洲、時に年二十五なり、是の歲十月行狀を撰びて、銘を父執伊藤東涯に請ひしが、東涯の文は享保八年に成れり、嗚呼東涯をして稱するに先生を以し、遭時熙洽。高蹈丘園。潜志大業。研精微言。提誨有方。靑衿盈リ門。其人雖亡。遺德永存。と銘せしむ、以て其の人を知る可きなり

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最終更新:2024年08月05日 15:02