西村天囚『懐徳堂考』二、三宅石菴の來歷

二、三宅石菴の來歷

持軒と時を同くせし大阪の儒者に三宅石菴あり、石菴は實に懷德堂創立の主力なり、然れば此に石菴の來歷を按じて、持軒と石菴との關係を說くを順序と爲す。
三宅石菴は、名は正名、字は實父、石菴又は萬年と號し、通稱は初め新次郞と云へり、祖の名は道安、甚左衞門と稱し、父は道悅、六兵衞と稱し、母は田中氏なり、寛文五年正月十九日を以て、京師の三條通に生る、兄弟六人あり、兄に伊之助とやら伊兵衞とやら、伊の字を冠する者ありて、京の能役者なり、其の弟の三宅觀瀾(名緝明字用晦通稱九十郎)最も著はれ、其の弟の佩韋(名維祺通稱總十郞)も、觀瀾に依りて水戶に仕へしが、書に工なりし外には、兄に似るべくもなく、後ち狂を疾みて自殺せり、兄に能役者あり、石菴も觀瀾も皷を善くせしに觀れば、祖父は能役者なりしか、將た舊は富豪にて能などを好みしにや、六人兄弟の中にて石菴と觀瀾とは學問に志して、初めは皆淺見綱齋に從學せり、觀瀾初め京に在りし比、放達不覊にして好んで皷を打ちしが、一たび綱齋に見ゆるに及びて、幡然として行ひを改め教を受けつ、綱齋も亦其聰敏篤學を愛しけるに、觀瀾少年故態未だ除かずして、一日北里に游びしを、綱齋聞きて絕交せしよし、耆舊得聞に記し、更に其の條下の註には、其學朱子に純ならずと見ゆ、恐らくは是れ綱齋の絕つゆゑんかとあり、蘭洲遺稿には、石菴が少年妓に狎れしことを記し、中井竹山の覺書には、萬年先生は淺見綱齋の御門人にて、後は御見識遠ひ候て破門になり候へども云々とあり、此の二者を合すれば、石菴觀瀾兄弟の事蹟、餘りに能く似過ぎたり、兄弟共に放蕩にして破門されしこと受取り難し、其の仔細は、石菴と觀瀾とは九歳違の兄弟なれば、兄の石菴が年少放蕩の比には、弟の觀瀾は猶成重前後とも見るべく、稍不似合の感あればなり、石菴の綱齋に破門されしは見解の異なるに在りて、程朱より陸王に入りしが爲なること、竹山の文に徵すべく、耆舊得聞の註の朧氣なると異なれり、而して石菴が年少放蕩なりしは掩ふ可らざる證據なり、因て予れ竊に之を按ずるに、耆舊得聞の著者は、石菴の事を聞違へて觀瀾の事と爲しゝならん、觀瀾水戶を去て幕府に仕へしより、水戶人は惡ざまに言ふかと思はるゝにより、此に記して後考を待つ。
或は云く、石菴幼より學を好みて群童に異り、既に長じて親を喪ひしが、一意學に耽りて家事を視ず、是に於て家產を蕩盡せしより、家什を賣りて舊債を償ひ、餘す所十金を得たり、乃ち弟觀瀾に謂て曰く、大丈夫當に名を天下に揚ぐべし、此の金以て學を爲すに足れりと、此に於て倶に書を讀み、金盡きて學成れり、乃ち觀瀾と相携へて江戶に來れりと(先哲叢語)此は前說と正に相反せり、傳聞未だ確ならざるを嫌ふも、事實に近き者なきにあらじ、想ふに石菴觀瀾兄弟は、學才超凡にして、進修怠らざる中にも、石菴は才子の習、其行を檢束せざりけん、既にして陸王の說を信ぜしより、嚴峻なる其の師綱齋は、素行修まらざると師說を守らざるとの二者に因て、破門絕交したりしならん、斯くて家道も傾きけるほとに、石菴兄弟は節を折りて賣苦の中に研修せしなるべし、石菴は道德を以て勝り、觀瀾は文章を以て勝り、並に名を天下に揚ぐ、資質の人に絕せしを知るべし。
兄弟江戶に入て後ち、觀瀾は木下順菴に從游しけるが、石菴は教授自ら活する外、何人と交りしやは詳ならず、仕官を求めん爲なりけれど、儒者の時風を見て、心に面白からずやありけん、居る者數年にして、觀瀾を江戶に殘しっゝ京に還りしは石菴年三十三の元祿十年なり、觀瀾が水戶に抱へられしは、翌々年の元祿十二年にぞありける。
石菴は間もなく讃岐丸龜の木村半十郞(後に寸木と號す)といふものに、禮をもて聘せられて彼の地に至り、邑中の子弟に教授する者四年にして大阪に來れり、其年代確ならざるも、墓誌に住浪華三十餘年とあるを以て、三十三歸京の歲より四年後、石菴歿せし享保十五年より三十餘年前とすれば、石菴三十七八の元祿十三四年比に、帷を大阪に下したるなり。
石菴來阪の元祿十三四年には、持軒年六十許にして、蘭洲は生れて四五歲なりき、持軒は石菴と忘年の交隔なく、石菴に因て執齋とも交はりしが如し、持軒の學は程朱を宗とし、石菴は陸王に出入するも、攻駁する所なく、石菴は持軒を稱して善人と曰ひ、持軒は石菴を稱して君子と曰へりしこと、蘭洲遺稿に見ゆ、眞に是れ學者の交なり、但遺稿には持軒の門人なりし長崎克之、中村莊、富永吉、平野新、加藤源、芳野屋傳右衞門等が、去て石菴に師事せしを記し、持軒門下の儒醫今西正立大に憤りて、石菴術を設けて我師の門人を奪ふと曰ひし由記せり、想ふに此は持軒晩年の事ならん、正立は夙に石菴が五行說を駁するを慊よからず思ひ居りしと云へば、其言固り信ず可らずと雖も、大阪人の喜んで石菴に從游せしは事實なるべし、此は持軒は穩君子にして、石菴は學力あり處世の才ありしにも因るべく、又其の住所にも因りけん、天滿九品寺に五井氏の先塋あるに觀れば、持軒は世々天滿邊に住み、石菴は船塲に住みしにあらぬか、天滿は僻地にして、船塲は富家の子弟通學に便なり、故に古來大阪儒者は船塲に住みて弟子取の多きを謀れる習なり、長崎克之は舟橋屋四郞左衞門と云ひ、富永吉は道明寺屋吉左衞門と云ひ、懷德堂創立五同志の内なり。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年08月05日 15:05