三、五井蘭洲の生立
五井蘭洲名は純顔(純貞ともあり)字は子祥、蘭洲又は梅塲冽菴等の號あり、通稱を藤九郞といふ、持軒の次子なり、元祿十年を以て大阪に生る、父持軒は時に年五十七。
竹山撰の蘭洲碑文に、先生夙齡頭角を見すと云ひ、蘭洲遺稿にも、予れ禀賦壯實、資性淡泊、賴に幼きより事に學に從ひて、手に卷を釋てず、講論厭く無しと自記せり、晩年に咏懷の五古一篇あり、一部自叙傳とも謂ふ可き者なるが、起手に、咨余遭家難。屯適童卯時。自僅識丁字。託尼城遠總云々とあり、家難とは親族の爲に家產を掩有せられしを謂ふなるべし、此れより貧困となりて、尼崎の疎遠の親類に預けられたりと見ゆ、此は減口の爲にもやありけん、瑣語に富島利眞安齋と號し、余と通家たりとあれど、通家と疎遠の親類とは異なれば、今は誰人とも考ふる所なし、十四五にして尼崎に預けられ、僅僕に伍して艱難を嘗めけるに、此の親類も窮乏なりければ、轉じて信州飯山に移り、蘭洲も亦隨行せり、飯山冰雪裏。短褐不適肌。流落三年客。十七復桑梓とあれば、其の信州より大阪に歸りしは正德三年なり、持軒時に年七十三、所謂四書屋の貧生活は、口を糊するに足らず、此の比凶年打續きて桂燒玉炊の嘆あり、同母兄の内記は鷹司家に仕へて家に在らねば、年少の蘭洲は筆耕を以て薄糜を兩親に供し、燈を挑げては兩眼膜を疾み、筆を執りては手に胼胝を生ずる程に稼げども、家益貧しくて、窮鬼に追はれたりといふ、其の辛苦知るべし。
蘭洲は斯る辛苦の中にも學問を研精して識見は年と共に長じたりき、蘭洲年二十四の享保四年、韓使來聘大阪に舘せし時、持軒門人の今西正立(號春芳)は、對島の雨森芳洲を迎へて其の宅に宴し、蘭洲も亦陪せり、
是より先き我邦文人は、韓使と應酬するを以て名を揚ぐる機會と爲しゝに、正德中大阪にての應酬に、體貌酸楚文章潦草笑ふべき者ありしを、芳洲以て國恥と爲し、官に告げて濫唱を許さず、是より芳洲は試才の地に立ちしが、入江若水(攝州富田の人)は芳洲と友たりしより、蘭洲の爲に先容を爲せり、芳洲は若し英才ならば、東自ら之を請はん、但未だ其の著述を見ずと云ひければ、蘭洲心に憤りつゝ、直に文を作りて芳洲に示し、語顏る芳洲の意に忤ひつ、蘭洲は彼れは韓人のみ、見ざるも亦可と云ひて退きしとなん、蘭洲昂々然として一世を不可とし、韓人を漠視して時流の外に超然たりし識見氣慨は、人に高きこと數等、予は此の一語を以て、唱酬才名を馳せしにも優れりと爲すなり。
蘭洲の學は父の持軒に就きて家學を承け貧苦の中に獨修せし外に、師授あるを聞かず、當時唯一の益友あり、懷德堂創立の功臣なる中井甃菴其の人なり。
最終更新:2024年08月05日 15:07