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西村天囚『懐徳堂考』四、中井整菴の來阪(蘭洲と甃菴)

四、中井整菴の來阪(蘭洲と甃菴)

中井甃菴名は誠之、字は叔貴、甃菴と號し、忠藏と稱す、其の祖先は前田玄以黑田延水に歷仕せしが、曾祖竹菴、名は養堅、如齋と號し、官を棄てゝ醫と爲り、藝の廣島に游べり、祖父名は昌倫、字は養仙、醫業を繼ぎて大阪に居り、後ち脇坂侯に事へて信州飯田に適き、侯の轉封せらるゝに及びて、亦從ひて播州龍野に徙れり、父名は昌重、字は玄端、其の業を世にし、脇坂氏を要りて五男二女を生めり、長は懷之(養元)次は信之(伯元)次は廣之(權藏)柳原氏を冐して家老たり、次は即ち甃菴にして、元祿六年九月二十九日龍野に生る、季子は文之、字は季禮、常菴と號せり、父玄端が食口益衆くして、家計支へざるより、仕を致して播を去り、家を挈げて醫業を大阪に開きしは、甃菴十四の寳永三年なりき、年十六の時、祖父の命を以て伊豫大洲藩の藏屋敷留守居岸田源之進が養子と爲りしが、正德元年源之進故ありて黜けられ、折節大洲候に扈從して江戶邸に在りし甃菴も、亦罷められて大阪に歸れり、是の歲源之進病死し、甃菴家を嗣ぎしに、家固富みしより、養母は其の弟と心を合せて家を奪はんことを謀れり、甃菴因て本姓に復し、其の資產一も問ふ所なし、時に年方に弱冠なり、此より意を學問に專にして、弟の常菴と共に三宅石菴に師事せり。
甃菴の始て石菴に師事せしは、十四父に從つて來阪せし時に在るなるべし、竹山の文に、先人江戶にては鳩巢及び執齋にも見え、又石菴先生の緣故にて、親瀾には特に世話を受けたりと云へり、觀瀾は年三十八の正德元年、水戶を辭して幕府に仕へ、享保三年には年四十五にて歿し、甃菴が懷德創學の爲に東行せし日には、世になき人なれば、甃菴が觀瀾に見えしは、候に扈して江戶に在りし時なるや明かなり、其の甃菴を世話せしは、兄の石菴が門生なればなるべし、然れば甃菴は年十四五の比より石菴に師事し、今又江戶より歸阪して、再び石菴に從學せしものなるが、時に祖父養仙已に歿し、家轉貧困なりしも、甃菴は堅苦刻勵して、少しも懈怠なく、夜は兄弟机に對ひ、一つの繩もて頂に繋ぎ、相捌して睡を戒め、寢に就くに至りても解かず、以て早起に便じたりといふ、其の苦學頗る蘭洲の境遇と同じきは奇なり、甃菴二十三の正德三年には、父に從ひて播に歸りしが、母は長兄と共に大阪に在り、弟の常菴醫業を赤穂に開きて、父玄端は此に隱居せしより、甃菴は攝播の間に往來し、大阪にては石菴に服事して、研鑽怠らず、學術益進めりといふ。
蘭洲は甃菴より少きこと五歲、一生莫逆の交を全くせし間柄なり、其の始て相見しは、蘭洲甃菴の墓に銘して、予れ君と友とし善きこと四十年所と云へるを以て、享保の初年に在りとこそ知らるれ、其の紹介は固り石菴なるべし、石菴は蘭洲の父執なり、贄を其の門に執りしに非ざるも、折々其の講釋を聽きたりし蘭洲は、やがて其門人の甃菴とも交りしにこそ、二人の號は皆之を易の井卦に取れり、此は五井中井の井の字に因みてなり、蘭洲の一號列菴は、九五の井冽寒泉食に取り、甃菴は六四の井甃に取る、竹山國字牘に、兩人皆壯歲よりの號なりと云へり、享保初年は甃菴二十六七、蘭洲二十二三、相見て意氣投合し、周易の輪講などの時に思ひ附きて、同時に號を撰びしにやあらん、其の交情知るべし、全交四十餘年、以て大阪の文教を興しゝは天緣なり。

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最終更新:2024年08月05日 15:08