五、享保の大火(蘭洲至孝○石菴と含翠堂)
蘭洲は天資至孝なり、備書して父母を養ふうち、父の持軒酒を嗜みて、一日も杯を手にせざることなかりしに、歡を貧苦の中に承けて甘旨を奉じ、享保六年に父歿するや、書劍を賣りて之を葬り、儒教に遵ひて三年の喪を行ひしが、母も亦六十餘にして中風に罹り、病床に打臥しけるを、日々湯藥に侍して、扶持看護、暫時も側を離れず、疾尤も急なりける折しも、享保九年三月大阪の大火あり、蘭洲は中風の母を負ひつゝ逃げしに、火は跡より追尾し來れるより、逃げに逃げて郊外に至り、辛うじて難を平野に避け、井筒屋佐平といへる旅宿に辿り着けり、其の崎嶇萬狀、想ひやるに餘あり、病母は遂に旅宿に歿せり、其の悲痛慘側、果して何如ぞや。時に享保九年三月二十九日なり、之を河內服部川の神光寺に葬りき、蘭洲は其後暫時は平野に在りて喪に服し、猶も傭書して自ら活せしが如し、平野の含翠堂諸同志の世話もありけんかし。
享保度の大火には、石菴も盡く藏書を焚き、難を平野に避けゝるが、平野の諸同志力を合せて慰藉せしとなり、平野の諸同志とは含翠堂の同學を云ふ。
含翠堂は平野の郷學なり、東厓の文集に記あり、攝津名所圖繪に圖あり、抑此の平野は、平野千軒と稱ふる巨邑にして、初は本多侯後には土井侯の所領なりしが、土豪に七名家と稱するあり、土橋末吉三上の諸氏をいふ、土橋公諒(名友直、公諒は字、號は誠齋か、稱七郞兵衞)末吉止齋(名宗伴、字德安)土橋節齋(名宗信)等は其の翹楚なり、是より先き或は京師に游學し、或は師儒を禮聘して、道を問ひ學を講ずる者日久しく、最も仁齋を尊信して其の學風を奉じたりき、土橋公諒慨然として同志と謀り、井上佐兵衞正臣が居宅を割きて講堂を建て、庭に一古松ありしより含翠堂とは名けつ、三五七十の日を以て會日と爲し、伊藤東座、三輪執齋、及び石菴を聘して講を聽けり、東厓が節齋の招に應じて平野に游びしは、享保十二年丁未に在り、河內の八尾にも環山樓(文集には環翠樓に作れり)といふ學堂ありて、東厓は環山含翠を巡講しきといふ、環山樓記は享保十四年己酉に成りて、含翠樓記は同じく十七年壬子に成れり、然れど學堂の始は固り丁未以前にして、享保九年大火の前より、平野に近き浪華の石菴は屢其請に應じけん、斯る緣故よりして石菴蘭洲等も火を此に避けしなるべし、かはらぬ松の色とこしなへに朽ちずして聖教を學び、吳竹の世々に傳へたりし含翠堂の古松は、維新の廢學と共に伐り棄てたりと聞くはいと惜しけれど、堂內舊藏の典籍は、今も什の一を小學校內に收藏せり、中に末吉止齋の著はせる大學述古一册あり、土橋節齋寛保元年の跋、及び足代立溪同二年の跋あり、立溪名は弘道、伊勢の人、『予寓于産中有年』と見えたれば、此人聘に應じて學堂の教授たりけん、學堂の舊藏に伊勢の神書多きは、立溪の遺篋なるべく、彼の平野郷より出でゝ幕府に仕へ、任官して長崎奉行にまで累進せし末吉攝津守利隆(末吉五郞兵衞綱利の子)は立溪の門に出でたり、長崎の任滿ちて東歸の途すがら、彼地にて購ひし十三經一部十六套を含翠堂に寄附したりし者、今猶儼存し、函葢には攝津守及び篠原盤谷の識語あり、盤谷名は弼、寛政中學堂教授たりし人なり、墓は光源寺に在れど、碑文なければ其の來歷を詳にせず、要するに郷學含顰堂は、享保中の創立にして、其の起原は府摩懷德堂よりも古きかと思はれ、絃誦の聲、長に松籟と和して、往々人材を出しゝは、諸國の郷學中に罕比なる者ならん。
懷德堂の濫觴は享保大火の年に在り、蓋し石菴の門人等、此の時石菴を平野に訪ひて、含翠堂の規模を一覽し、觀感奮起する所ありしにあらざるか。
最終更新:2024年08月05日 15:09