六、懷德堂創立(甃菴と五同志○開講と石菴蘭洲及び誠所、執齋東涯)
大阪唯一の學問所懷德堂は、享保九年の災後に起原し、同じく十一年幕府の允許を得て、其の基礎確立しき。是より先き甃菴が石菴への入門は、石菴尼ケ崎町二丁目御靈筋住居の時に在りしが、同門の三星屋武右衛門、道明寺屋吉左衞門(即ち富永吉)舟橋屋四郞左衛門(即ち長崎克之)、讃州金比羅の木村平十郞、同じく平藏等の諸同志と謀り、醵金して安土町二丁目北側(堺筋西入)の表口四間奧行二十間の宅を買取り、石菴を此處に住ませ多松堂と名けて、講會の處と爲しゝは、實に正德三年八月の事なり、從游の徒も多く、六七年も過ぎぬるうち、石菴は醵金の同志人名を聞知り、中には德業の利益なきもあれば、其意に愜はずとて、强ちに轉宅せんと云出でしより、享保四年八月多松堂を賣拂ひ、石菴は自ら高麗橋三丁目なる苧屋三郞右衞門が隱居屋敷に借宅せり、此の比備前屋吉兵衞、鴻池又四郞なども入門し、生徒も益集りけるうち、大火に遭ひて平野に立退きしなり、斯くて武右衛門、吉左衛門、四郞左衞門、吉兵衛、又四郞の五人は諸同志と謀り、災後の地を相して、尼崎町一丁目北側なる吉左衞門隱宅をトし、又も此に講舍を建てたり、是れ實に同年五月の事にして、表口は六間半、奧行二十間なりけるが、始て名けて懷德堂と云ひしは論語里仁第四の君子懷德の語に取れり、是の歲十一月、石菴に請ふて平野より歸りて此に住し、以て子弟に教授せしめつ、折しもあれ江戶の三輪執齋より、甃菴に宛てゝ興學の内意到來しき。
時の將軍は八代吉宗有德公とて、紀州より入て征夷職を繼ぎ、學を好みて儒を崇び、右文の治、隆々として起れる時代なるが、當時武藏の人に菅野兼山、名は直養、彥兵衞と稱し、初め仁齋に學び、後ち三宅尙齋に師事せしものあり、私に義學を興さんことを請ひしかば、享保八年十一月町奉行諏訪美濃守(賴篤)して、よく生徒を導くを賞し、黃金三十兩を賜ひて、校地を本所に恩貸あり、因て會輔堂といふ學校を立てしは、全く八代將軍興學の盛意に出でし者なり、其の翌九年の事にや、吉宗近臣に向て兼山の事を噂せられ、京大阪にも學問所樣の處拵へ置き、忠孝の筋說聞せたきもの、左樣の事を願出づる者あるまじきやとの物語ありしを、大島近江守(御側か)殿中より歸宅して、父の古心に物語れり、古心は隱居にして、兼ねてより王學を好み、執齋と入魂の間柄なりけん、此の事を執齋に語り、心當はなきやと問へり、大阪には三宅石菴ありて、人其の德に服すれども、左樣の儀願出づべきや心元なし、兎も角も其の門人へ申遣し候はんとて、執齋より此の趣を甃菴に文通せしなり。
甃菴報を得て諸同志と謀りしに、若し官許を得ば、只今建立の懷德堂も、長く退轉の憂なく、老師の遺跡も久遠に傳はるべく、本望の至と衆議一決しけるが、今之を老師(石菴)に告げなば、恐らくは許可なからん、姑く之を祕すべしと爲し、享保九年の冬、甃菴は江戶に下りて執齋と面商し、一旦歸阪して石菴に告げければ、事已に此に至る、奈何ともす可からずとて、內々世話をも爲しけり、翌十年五月には、甃菴及び道明寺屋備前屋三人東行して、甃菴のみは十月迄逗留し、大島古心にも面議して歸り、翌十一年の春覺菴又も東行して、御側有馬兵庫頭、加納遠江守にも謁しけるが、奇特の願には思召され候へども、上よりの御威光にて仰付けられ候事、末々相背候やうにては如何なれば、大阪にて願立てよ、大阪にて吟味の上、相續すべき筋ならば、仰付けらるべしとありけり、此は維持を氣遣ひての事なりけん、甃菴歸阪せざるうちに、早くも江戶より大阪に奉書到來して、甃菴并に五同志の身元を吟味すべしとあり、同じく四月、甃菴歸阪して、町奉行所に願出し趣は、尼崎町一丁目道明寺屋吉左衞門敷地、只今講舍建置候塲所に、西隣助松屋借家か、東隣尼崎屋燒地かの内、一方差加へ、學問所に取立度と云ふに在り、當時甃菴は伏見堀兩國町に住し、備前屋吉兵衞は其家主にして町年寄をも務め居けるより、同道して御番所に出けるが、時の町奉行は、東は鈴木飛驒守、西は松平日向守なり、當時日向守は不在なりしより、飛驒守に願出けるに、此の願は石菴罷出づべきに、其の方罷出でしは如何と尋ねられ、甃菴答に、石菴儀は隱遁の身、中々彼樣の儀願出で候者には無之、同門共打寄存立ち、其中より私罷出候と申せしに、願書を取上げられ、北組總年寄川崎屋五兵衞、南組野里屋四郞左衞門、天滿組中村左近右衞門宅に於て、五同志の內證を吟味せし上にて、顧書は江戶に遣はされしが、やがて兩町奉行より甃菴へ、願意聞屆けられ、學校地は諸役を免ぜらるゝをもて、學問所を取立て、長く退轉せざる樣に勤めよ、二軒の屋敷の內、何れなりとも地主と協議すべく、追て代地を賜はるべしと申渡されしは、同年七月六日にして、幕府の官學自平校の創立元祿三年を去ること三十七年後なり。
斯くて現在懷德堂の東隣なる尼崎屋の持地、表口五間裏行二十間を申立てゝ、此も願の通り許され、東西兩奉行連名の書付も下りけるにぞ、甃菴は東行して關係の人々に禮を述べ、直に普請に取掛り、同年八月には落成せり、此に至りて校堂の外に左右寮舍ありて、規模頗る大なり、普請の費用は五同志等の義金なりけん、然れば此の學校は、敷地は恩賜、維持は義金といふ一種公立の性質なりけり、石菴は以前より學校住居なりしが、論語にも君子不重則不威、と云へり、予は隱者なればとて、一旦辭退しけれども、衆推して學主と爲し、甃菴を推して學問所預人と云ふ名義にて、堂内住居と爲れり、
學問所の普請は八月に成就せしが、石菴始めて論語の講席を開きしは十月五日なり、折節蘭洲も服関りけるより、聘せられて助教と爲り日講を主れり、時に年三十。
蘭洲遺稿に開講當時の狀態を叙すること頗る詳なり、其文に據れば、學校既に成りて、開講日あり、衆皆石菴(宅子と記せり)に請ひしに、石菴は音吐朗暢ならずして、口中糊塗、且坐談を喜びて講釋を好まざるより他人を擇べといふ、衆言なくして退きつゝ、最初公儀へ日講を課することを屆出でたるに、今更日講なくば、察度必ず至らんとて、兎や角と評議しけるが、時に甃菴未だ講說に慣れずして、自ら難める色あり、衆も亦敢て强ひず、是に於て蘭洲を邀へしなり、初め登葢等の學校を願立てし時は、蘭洲を度外に置きて其の議に與らしめざりしをもて、蘭洲は常に快々として不平を懷きけるに、今や講師其の人なきより、俄に講釋を賴むは、畢竟予れ貧乏與し易しと爲して之を輕んずるにこそと思ひ、拙者は諸君より年少の身とて、日比末席に控へて隅に向へるに、只今昂然として師授の座に就かんこと、獨り心に慚づるのみならず、學校人なきに似たりとて、此の儀願はくは許されよと辭退しけり、日比隔なく交れる甃菴は、內々蘭洲に向ひ、足下不平の色あるは尤なれど、學校願立は最初祕密を事とし、四五人の外は知る者なし、故に足下にも協議せざりしなり、何卒打解け給りたし、今官命下りしは斯の道の幸上もなきに、足下若し承知なくば日講廢ぜん、日講廢せば學校も亦斷絕同樣なり、足下願くは斯の文の爲に强ひて承知ありたしと請ひけるにぞ、蘭洲も然らばとて日々講釋に出でけるが、並河翁井上生も講を助けたりと記せり、是に因て之を觀れば、懷德堂に於ける蘭洲の關係は、二菴五同志に讓らずと謂ふべし。
並河翁とは並河誠所、名は永、字は宗永(後尙永)通稱五一郞の事なり、弟の天民と共に仁齋に師事し、學成りて掛川川越二候に歷仕し、致仕して江戶に教授せしが、其の學宏博を勉め、經史老釋諸子より兵法和歌に達し、文武の諸技に通じき、後ち樓を豆州三島に構へて之に居り、地誌編纂を志して、享保中五畿内を巡歷し、六年にして興地通志幾內の部六十一卷を撰び、之を慕府に獻じ、業竣りて三島に歸り、元文三年三月十日に歿しき、享壽七十一なり、其が大阪に在りしは、攝津志編纂の時なるべく、懷德堂の日講を助けし時は年五十九歲なり、關洲誠所を稱して並河翁と云ふ、齒德並に長ぜし堀河の遺老として推重せられたりと見ゆ。
井上生は左平と稱し、赤水と號す、其の行實は之を他日に讓る。
誠所は翌十二年の四月を以て東に歸り、尋ぎて蘭洲も亦東游の途に上れり、然れば石菴も享保十二年の夏比より日講を手傳ひけるが、十三年の春に止めてより、井上左平一人となりしをもて、隔日の講と爲し、甃菴も亦專ら講說に從事しけり、三輪執齋は石菴の親友にして、懷德堂創立の張本なり、然れば其が京都より大阪に來りし時には臨時の講あり、石菴の歿後には、伊藤東涯をも招請して講筵を開けりといふ、此は平野の含翠堂久寶寺の環山樓に出講する路次なりけん。
最終更新:2024年08月05日 15:14