西村天囚『懐徳堂考』七、懷德堂の學風(壁書及び規約)

七、懷德堂の學風(壁書及び規約)

懷德堂最初の壁書は、享保十一年丙午十月玄關に懸けし者是なり、其の文に云く。

一學問は忠孝を盡し職業を勤むる等之上に有之事にて候、講釋も唯右之趣を說すゝむる義に候へば、
書物不持人も聽聞くるしかるまじく候事。但不叶用事出來候はゞ、講釋半にも退出可有之候。
武家方は可爲上座事。
但講釋始り候後出席候はゞ、其の差別有之まじく候。
一始て出席之方は、中井忠藏迄其斷可有之候事。
但し忠藏他行之節者、支配人道明寺新助迄案内可有之候。
以上
午十月 學問所行司
書物持たざる人も、講釋聽聞苦しからずと云へるは、平民的教育の本旨に適し、急用には講釋半途にも退出を許して、商賣の懸引に便したる、如何にも大阪町人の事情に適合す、武家を上座とするは、公儀への恭敬、階級制度の當時己むを得ざるものなり、初め何人にても勝手に聽聞せしめんとしけるを、江戶にて菅野兼山の會輔堂が斯く定めたりし爲に、最初は不熱心の聽衆いと多くて猥がましく、後には聽衆なくて寂寞たりしとの事を聞き、石菴の差圖にて末の一條を加へしとぞ、此壁書は飽まで世情に通じたる書振り、道に大阪の人望を得し石菴らしき處ありと思はるゝなり。
最初の懷德堂は實に朱陸併用なり、外朱內王の學なり。
石菴初め絅齋に學びて、陸王を喜びしが爲に破門せられしは、執齋が初め佐藤直方に學びて、王學を崇びしが爲に破門せられしと相似たり、石菴は陸王を喜びて、亦朱學を尊崇し、執齋は專ら王學を尊崇して、王文成の時と年號同じき正德中、傳習錄を板行して王學盛行の徵と云はれし如き。二人の學風全く相同じからずと雖も、其の志尙來歷の相似たる、やがて同氣相求め同聲相應ぜし所以なり、石菴は執齋より長ずること五歲、其交は何の年に在るを知らざるも、既に江戶に於て、將た大阪に於て、交懽日久しかりしが如し、甃菴幼にして石菴に從ひ、稍長じて王學の祖なる中江藤樹の仕へし大洲侯の家臣に養はれ、藤樹を崇拜せる大洲士人と交りて、益王學を喜びしなるべし、而して後八代將軍右文興學の盛意は、大島古心を通じて執齋に致し、執齋は之を大阪の甃菴に報じて石菴門下の同志に傳はり、此に懷德堂は創立せられたり、然れば王學を以て其の宗旨と爲せる、固り怪しむに足らず、懷德堂內事記に曰く。
一日講之書は、四書、書經、詩經、春秋胡傳、小學、近思錄。
一毎月望、同志會合、老先生象山集要之講、右者每年正月十五日初會にて、同志中燕集、老先生初講有之、後有故毎月之會は十六日に改む。
右は創學當初の教科なり、日講の書は皆是れ程朱の學なれども、石菴が正月初講及び毎月の講釋は陸子の學なり、懷德堂定約中學問に關する條に曰く。
一學問所講談無懈怠相勤可申候、講じ可申書は、四書、五經、其外道義之書講談致し、他之雜書講じ候儀、一切無用に候事。
附り講釋聽衆減少に成候時節は、學主の心得にて、人寄之爲め、詩文等之講釋はくるしからざる事の了簡にもなり可申候、左樣之義は學問所御願申上候主意相違致候間、學主講師たる人守り可在事に候。
一同志の輩、講日の外、一月兩度ばかり講堂にて會合可致事。
但一會には書物講習致、一會は何となく寄合、俗談を相止め、翁問答、孝子傳、集義和書等、假名書を讀み、且世間の美事物語を致し、書物不案内の人もいざなひ、相互に心ありさまをも語り、先覺の教を請ふて、あしきを改めよきにうつり候樣に致し候こそ、美實なる工夫と存候。

定約は創學五同志の一人なる三星屋武右衞門の草する所、未だ議定に至らずして石菴歿し、良齋も亦尋で歿せしより、正に執齋に就き、同志合議して享保二十年に清書せし者なるが、其の大體は想ふに創學當初の風なるべし、詩文を斥けて道義を尙べるは創學の主旨なるべく、同志會合には藤樹蕃山の書を讀むが如き、亦石菴の家法に出でしなるべし。
蓋し朱子は學問を先にして德行に入り、陸王は學問を後にして德性を尙ぶ、其日其日の商賣に暇なき町人教育には、德行を先にして學問を後にするこそ入り易き者ありけめ、是れ陸王の說大阪町人に喜ばれし所以にして、猶無學の武人が、不立文字直指人心の禪を喜びしと相似たり、然れば當初の懷德堂は朱陸並に之を尙びて、外朱內王の宗旨を取り、文華を斥けて踐履を重んじたりき、若し夫れ關係諸儒の學は、次々に之を說くべし。
官許に因て恢宏せし懷德堂、間口十一間半に奧行二十間と爲りて、講堂を修覆し、從來石菴の住居せるを右塾と云ひ、新規下賜の燒地に門と左塾とを建てゝ、京町堀より引移りし甃菴を住ませたり、同年冬讃州の木村氏發議にて、東北隅に二間に六間の長屋を建て、同人上阪の折の逗留塲所と爲し、且つ遠方諸生の寄宿學寮に宛てけり、然れば講堂及び左右塾寄宿寮も備りて、規模頗る整へり。
學問所內外諸事は、五同志取計らひ、賄方勘定は五人中の年行司にて相改めつ、石菴及び甃菴は客分の姿なり、雜務は道明寺屋別家手代道明寺屋新助を支配人として取扱はせけり。
休日は朔日、八日、十五日、二十五日。
日講の謝儀は、五節句前に銀壹匁か又は貳匁づゝ、勝手次第支配人新助に差出し、年行司支配人と立合ひ、學主及び學問所預人并に助講の人々へ分配す、謝禮の印だにあれば、禮とゝのひ情達すと爲し、貧學の人は紙一折筆一對にても相濟む事に定め、石菴へは舊同志より從前の如く別に謝禮を爲すも、甃菴へは人別の學問所謝禮のみと爲し、舊同志より是れ迄贈りし祝儀は廢しけるが、甃菴の門に入りて讀書手習する人は別段として、學問所謝禮の外に相應の謝禮を爲さしめたりき。
五同志外に舊來の同志者あり、新規加入者あり、諸同志の年分醵金は、壹人拾匁宛にて、毎年正月二十日迄に支配人新助に差出すなり、新入同志へは此方より勸めず、其の申出に任せ、舊同志中も不如意の人は、醵金を止むるも苦しからず、學問所の歲費は醵金にては足らざるより、舊同志のみは不時の寄附を爲し、寄附金は利息を賄方に用ひ、本金を相談料として永久に傳ふる事にぞ定めける。

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最終更新:2024年08月05日 17:55