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西村天囚『懐徳堂考』八、石菴の學問著述(其の生平及び歿年)

八、石菴の學問著述(其の生平及び歿年)

石菴學問の本領は陸王に在り、陸王を尙ぶと雖も、亦未だ必ずしも程朱を棄てず、元寛の際、學界猶草味に屬し、諸儒一說を墨守せしも、學術漸く開けては、諸說競ひ起り、各旗幟を立てゝ、而して門戶の見始て盛に、伐異の弊も亦生じ.崎門偏狹最も甚だしく之を麾きて己に同じからしむべき者も、稍己に異なれば之を排し之を驅りて、之を岐路に逐ふを免れず、石菴の如きも亦然り、阿波の山木善太。石菴の學を評して曰く、石菴苟も疑ふべき有れば、朱說と雖も之を取らず、而も其大本は朱說に依據せり、其の意蓋し謂へらく、朱子の學は羅仲素李延平より出づ、而して朱子經を解くは、間二人の言を取らざる者あり、羅李の學は、楊中立より出づ、而かも羅李の言、未だ必ずしも一に楊氏に依らず、楊氏の學は、程伊川より出づ、而かも其說間伊川と異る者あり、且朱子終身、二程を尊信して、以て孔孟の正統と爲す。然れども朱子易を解けば。則ち別に本義を立てゝ、程傳を用ひず、其の他固より程子を用ひざる者あり、今朱子を學ぶ者、當に朱子の程子を學ぶが如くなるべし(竹山傳)、小芝莊といふもの、嘗て蘭洲と共に石菴に謁し、莊の語稍朱子を犯しけるに、石菴厲聲之を叱して、子安んぞ朱を知らん、亦安んぞ陸を知らん、第自ら之を修めよと云ひければ、壯は浚巡して郤けりとぞ(蘭洲遺稿)井上異軒氏の陽明學派の哲學にも。亦石菴が藤樹の言を評せし語を擧げて、其の見解の公平を稱せり、以て石菴の學風を知るべし、然れども石菴が諸說を併せ取りて其の善に從へるは、見解公允なるも、學風雜駁を免れざる者あり、香川太冲曰く、世に石菴を呼て鵺學問と爲す、此れ其の首は朱子にして、尾は陽明、聲は仁齋に似たるを謂ふなりと、(先哲叢談)蘭洲も亦曰く、宅子は學に宗旨なく、藥を賣て以て業と爲し、喜んで醫を談ず、俗之を目して鵺學と曰ふ、首は朱、尾は陸、手脚は王の如くにして、鳴く聲は醫に似たるを言ふと(遺稿)、二者稍異なるも、鵺學の名目は即ち同じ、是れ當時の世評なりけん、然れども陸子を喜ばずして、好んで其の說を攻め、又石菴に心服せずして、往々其の失行を攻擊せし蘭洲は、江戶より甃菴に與へし書中に、石菴を稱して、今に於て先生を想見するに、學術行實、他先生に比して、大に逕庭あり、天壯健退壽を賜はゞ、誠に吾黨の幸なりと云へり、蘭洲にして此の言あり、石菴の時流に超絕せしや知る可し。
石菴の創見、後世に朽ちざる者一あり、履軒の中庸雕題、第十六章鬼神之爲德の下に、萬年先生曰、是章錯簡當在第二十四章後と記し、其の兄竹山は、懷德堂考定中庸と題して、舊第十六章(即ち鬼神之爲德の章)を第二十四章と爲して、第二十四章至誠之道の下に置き、至誠之道の章を第二十三章に進め、其の前は毎章を迭進し、誠者自成也の第二十五章以下舊に同じと爲して、中庸錯簡說を作り、朱子張南軒の中庸疑義を揭げて石菴も亦第十六章に疑ありしが、晩年錯簡の義を發してより、宿疑渙然たりしことを叙し、其說を敷衍して、朱張二公も亦必ず善と稱せんと云へり、蓋し大學の錯簡は、中外の諸儒、皆能く之を言ひて、各得失あり、而も中庸錯簡の說は、實に石菴に創まり、竹山履軒の祖述を得て、千古に不磨なり、耆舊得聞に、此の人經學を能くすとあるは、是等より出でしか、然れども經書の講說は其の所長に非ず、教育家としての石菴は、效を坐談に收めしが如し。
石菴は著述を好まず、隨筆雜記詩文稿の類ありけんも、一たび享保の大火に焚け、二たび盜兒の爲に盜まれたりき、其の稿本を盜まれしは、安永元年極月二十二日の夜にして、子の春樓、遺稿を寶護して箱に入れ、常に坐右を離さゞりけるを、盜兒黃金にやと思ひて隙を伺ひ、此の夜客來の爲に、机邊の文具と共に緣側に出しゝを盜み去りしなりけり、文士の大厄と謂ふべし、其の焚餘に存する者は、萬年先生詩稿一冊(中井天生氏の懷德堂遺編目錄)醫事傍觀一冊(太田源之助氏所藏)と、雜文數篇とあるのみ、石菴は詩文に長ぜず、却て俳諸を善くし、其の俳號を泉石と云ひ、續俳家奇人談に五句を載せたり、又和歌をも咏めり、巳已己の別を分ちたる歌に、『みはつけてすこしつかぬはやむすでに皆離るゝはおのれつちのと』といふがあり、童蒙の教草にはいと面白し。
石菴人と爲り謙讓質朴、能く人を容れ、常に綿衣を着して、生涯絹布を用ひず、蓋し彼は實に市隱なり、世其の榮利を好まざりしを稱す、此の比の事とて、祿を求めんこと難からざりけんに、就くを屑しとせずして大阪に隱遁せしは、拘束を喜ばざりしに因るか、蘭洲が藥を賣りて業と爲し好んで醫を談ずと誹りしは、根據なきに非ず、其の子春樓生れし時、虛弱の生質なりければ、所詮儒業を繼んこと覺束なし、成長後の活計にもとて、正德中より讃岐門人の勸に任せて、返魂丹といふ熊膽の丸藥を製し、門人の手にて讃州邊に鬻がしめ、家道頗る裕なるを致しければ。貧儒の持軒を嘲りて、石菴の富裕を稱へしもありけり、季の子の可愛きが爲なりけんも、卵を見て子夜を求むる譬にも似たり、然れば竹山も御功者過ぎて覇術に落ち、乍憚流石の故先生も子を思ふ道にと申す氣味も有之と評したり、此は市隱としては論ずるに足らざれども、儒者としては如何はしき所行なり、好んで醫を談せし醫事傍觀の序は、享保三年江戶の客中に成り、翌年脫稿せりと覺しく、己亥孟夏萬年散人記と奥書せり。
石菴は皷を善くし、又謠曲を好み、嘗て自ら謠を作りしこともあり。酒を嗜みて物に拘らず、蓋し才子風の人なり、晩年煙草を嗜みしと見た、『秋の暮我ちから草けぶn草』と云ふもあり、最も書に工にして頗る顏法に通じければ、人爭ひ求めて隻字と雖も之を珍重しき。
石菴は懷德堂創立後僅に四五年なる享保十五年七月十六日を以て病歿せり、享年六十六、之を河内服部川の神光寺に葬る、配は岡田氏、二男二女を生めり、長子文太郞と二女とは夭し、次子春樓業を繼げり。

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最終更新:2024年08月05日 17:59