九、甃菴と懷德堂(其の學術性行と遺言)
石菴歿後の懷德堂は、甃菴學主と爲りて、學問所預人の名義を兼ねたりき。
初め創學の際、中村良齋(三星屋)の草案せし定約には、從來學主を賴む時は、諸同門相談し、學問行跡等承合せ、禮を厚くして招請し、萬事指圖を受くべしと云ひ、又學主たる人其の子へ直に傳へ候事、堅く無用に候、假令其の子才學ありとも、一先書生に致し置くか、游學さするか致し、一旦別人に讓りて、其の後先學主の子果して宜しくば、學主を讓るべしと定めたり、石菴歿せし時、其の子春樓年十九、學業未だ成らず、更に適當の學主を求めんとするも、其の人に乏しかりしより、諸同志甃菴を推して學主を兼ねしむる事と爲せしなり、但し此の時より五同志の一人なる長崎克之(舟橋屋)は同志を脫したり、其の事情詳ならず、想ふに克之は別に學主を聘せん意見なりしか、又は石菴讃岐より來阪せし時より、緣故深き家筋と見ゆれば、石菴歿後春樓を推して學主と爲さんことを主張し、議合はざるが爲なりしか、後年甃菴遺言して學主を春樓に讓りし時は、再び同盟に加はりしを觀るに、定めて後者の事情なりけん、然れど此は定約にも背ける事なれば、諸同志克之が脫盟を犠牲にして甃菴を推せしなるべし、甃菴は實に懷德堂創立の功臣なり、創學願立の爲に、徒步して江戶に往復すること前後六回、中間江戶にて大患に罹り、殆ど起ざらんとせしも屈せず、其の志を達せり、且石菴の高足弟子として學德並に長じたる者甃菴に若くはなし、志尙同じからざる學者を聘せんよりも、甃菴をして石菴の後を承けしめしは、情理に於て當然なり、是に於て中井三宅の二家は其宅を入易へて住めりき。
是より先き道明寺屋尼崎屋の持地を校地と爲しゝ時、代地を賜はらん沙汰なりけるも、其事荏苒行はれず、年々地代を拂ひ來りしかば、兩度拜借金を願出しも聞屆けられず、因て甃菴は享保十五年、江戶に下りて代地を願ひ、石菴歿せし翌八月十八日、道頓堀御預地の內を代地として下さる事となり、所柄惡しければとて、右預りの町人に出銀させて、地代總高二十貫目を道明寺屋尼崎屋に下されて、一件落着せしは、甃菴學主と爲りし當初の事なり、初め石菴甃菴並に堂中に住せし比は、皆客分の姿にて、普請造作賄方までも、一切五同志引受けゝるが、甃菴の代と爲りて、長崎克之は義絕し、中村良齋も相踵ぎて凋落せしより、世話人大に減じて萬事行屆かざりけるにぞ、甃菴は富永芳春(道明寺屋)吉田盈技(備前屋)山中宗古(鴻池)の三人と協議し、學校の事一切を甃菴一人にて引受くる事と爲しゝは、享保の末なるべし、元文二年支配人新助歿してより復た支配人を置かず、萬事甃菴一人にて處置せり、是に至りて懷德堂維持の制度は一變せり
既にして創學二十餘年を閱しては、堂舍頽圮して、殆ど復た支へざるより、甃菴一旦奮然として新築を思立ちしが、大工共に向つて、堂舍は斯く迄に圮れたれど、我等貧乏は知る通にて、學校の資金は、何程の餘裕もなし、積立を待て工事を興さんには、我等存命覺束なし、今先づ普請を成就せしめて後にこそ、五年を期限として追々に支拂はめ、此の儀如何にと云ひけるに、大工共聞きて、先生は正直なる御方なり、此の普請游樂の好事にもあらぬを、我等爭でか氣張らざらんとて、快よく承知の旨を答へけるより、舊址を拓きて新に工事を起せり、衆工爭ふて役に就き、良材を擇びて普請にも念を入れけるにぞ、甃菴は斯迄にも及ばずと云ひけれど、學校は後世の模範なり、堅固に造作せんこと、私共の面目なり、賃銀は問ふ所に非ず、五年にても十年にてもよしと云ふ、甃菴いと喜びて、日毎に浴させ酒飮ませける程に、手を揃へて夜を日に繼き、僅々十餘人の大工にて、正月に始り六月には普請出來しつ、人皆其の神速に驚きしとぞ、實に寶曆元年にして、甃庵時に年六十なり、是に於て堂舍一新して、煥然觀を改めしが、甃菴は是より節省を事として、悉く宴游を廢し、家人に命じて新衣を作り佳饌を具ふる勿らしめ、工費數百金は期限の如くに償へり、鴻池又四郞も心入厚く、尠からぬ寄附を爲しけるが、此の大土木を成就せしは、偏に甃菴の心計に出でたり、懷德堂は初め同志に成りしも、甃菴の篤志堅節と材幹と無くんば、中道衰廢を免れざりけん、連縣一百四十年の久しきに傳へて、大阪の文教を裨益せしは、實に其の功德なることを忘る可からず。
初め甃菴の學主と爲りし時は、助講に井上赤水ありしも、其の後赤水は京師に官游せしをもて、講釋は甃菴一人にて勤めけるが、母氏病中龍野に歸省して生徒を謝絕し、母の喪には哀毀病を生じ、學規暫く廢して、唯二七の朝講正月初會のみ執行ひけり、折節其の莫逆の友なる五井蘭洲、津輕の仕官を辭して歸阪せしかば、請ふて塾中に住せしめ、囑するに助教の任を以せしより、教化復た振ひき、蘭洲の歸阪は石菴歿後九年の元文四年なり。
甃菴は少きより石菴に師事せしが、其他贄を執て周旋する所の先輩は、江戶に石菴弟觀瀾及び室鳩巢あり、大阪にては蘭洲の父持軒、播州にては藤江熊陽、梁田蛻巖、京師にては執齋東涯等なりき。石菴の高弟として陸王の學を傳へ、學主と爲りて後は、毎月の同志會に象山集要をも講じ、諸共に藤樹蕃山の遺書を會讀しけんも、其の著不問語の卷首なる小傳には、其の學宗洛聞とあり、此は寛政異學禁の後に刻せしものなれば、斯くは記しけんとも思はるれども、所謂外朱內王の師承なれば、經傳皆集註に依據せしを謂ふなるべし、行狀に云く、其學坦平簡易、蹊逕を設けず、世の學者、虛文に驚せて實行を廢するを慨き、常に云く一部の論語用ひて盡きずと、然れば子弟を教ふるにも、孝弟忠信、我れ其他を知らずと云ひ、手を家事日用の間に下さしむ、是を以て人各材を成し暴悍化服せざるなし、安志の小笠原侯、時々禮招して經を講じ、時の町奉行前後延請して、弟子の禮を執りしも、謙讓して師位に居らざりきと。
甃菴德性を重んじて踐履を尙びしこと如此し、故に著述は其の好む所に非ず、懷德堂遺編目錄には、葬祭私說一冊、不問語一冊、春のことば一冊、詩文集和歌和文集若干冊を載せたり、其外に五孝子傳あり、甃菴雜記。貽範先生遺集等ありと聞けど未だ見ず、不問語は刻に入れり、和文の修辭かひなでならず、其の說く所も亦名理至言あり、歌文は其最も長せし所ならん、奧田拙古其詩を評して、龍艸廬の及ぶ所にあらずと云へり、然れど詞章は餘事にして、甃菴に尙ぶ所の者は德行に在り。
甃菴人と爲り孝友、至性あり、父の喪に居て哀毀し、喪祭私說の撰あり、兄と弟と先きに逝きしかば、其の孤女を撫し、其の家事を經紀し、母を大阪に奉じて、心を溫清に盡し、母氏の龍野に歸るや、諸寡孤女を侍せしめて、奉養の費を厭はず、而かも自ら奉ずること薄し、舊主龍野侯の命を承けて姦臣を探査し、悉く黨與を治むるを得せしめしより、名を母氏奉養の費に託して慶粟の賜あり、甃菴一年五六回は龍野に歸省し、或は母を奉じて京師に游び、攝播の名勝を見物せしめて、居留其の意に任せつ、龍野に歸れば二仲兄と膝下に歡談し、一門雍熈の和、郷人稱嘆せざるなし、母の病むや定省を廢せず、九十一にて歿りし時は、哀號人を動せり、擧藩葬に會せしは、甃菴孝心の動す所なりけん、此より龍野侯の餽粟を辭せり、平日味爽に起きて家廟を拜し、退きて危坐書を讀むに、端莊惰容あらず、之に就けば和氣あり、人畏れて之を愛せり、人に接して愛敬を盡し、兄弟の遺孤四人を嫁せしめ、姨の子を撫育し、郷人の貧を賑し、或は其の欺く所と爲るも、郷梓の情、自ら已む能はず、彼の悛めざる、吾れ之を如何せんと云へり、招宴に赴く每に、早く往きて早く歸り、人之を留むれば、吾れ已に歡を盡せり、婢僕断養も左こそ勞れけめとて、辭し去るを常とし、人の美食を餽るあれば、遍く之を家人に分ちて後に箸を下せりとぞ、其の忠恕仁厚は蓋し天性に出づ、諸同志に推重せられて學主と爲りし所以の者は、德行の致す所にして、獨り學問の力のみに非ざりけん、甃菴は眞個篤行の君子人なり、甃菴竹を愛し、其の居を繞らすに琅玕を以し、扁して此君窩と云へり、晩年洛西嵯峨を愛して終焉の地と爲さん心ありけるも果さゞりき。
甃菴は實曆七年の冬に病を發して、八年戊寅六月十七日に終れり、享壽六十六、私に論して貽範先生といふ、
配は植村氏(播州佐用郡邑宰の女)二男を生めり、長は積善、即ち竹山、次は積德、即ち履軒なり、是より先き寳曆四年、蘭洲及び春樓、并に中村東庵、富永吉左衞門、吉田吉兵衞の五人に宛てゝ認め置きし遺書あり、其の略に云く。
(前略)私老病當年甚布、養生不相叶候はゞ相續之義可然御願受、永代之樣に奉願候、五井兄乍御苦勞御引受被下度願存ん得共、御年來も拙夫と多くは隔り不申、且又表向ヶ樣之筋被相厭、御退蟄之素念熟知仕候事故、御噂も不申出候、次は才次郎殿、先師之由緒無遁存候、近年之御不幸旁以憚存れ得共、世上に申じとくさしづめにて御坐候間、御相談之上御引受被下度候、云々。
翌五年には再び東庵、吉左衞門、吉兵衞の三人に宛てゝ又も遺書を認め、先般認め置きし書面を以て、跡を才次郞殿に讓り候間、相果候後、御仲間よく四郞右衞門殿へ御懸合、昔の如く御世話あらば、昔四五人の精誠にて相立候學問所、又四五人へ返し、含笑瞑目すべしとあり、才次郞とは春樓の通稱なり、是より先き書院新築の時、子孫の計を爲すにこそと云ふもありけるが、遺書出るに及びて、疑ふ者渙然として、欽慕益深く、一旦義絕せし長崎克之も再び同盟に加り、遺命の如く春樓を推して學主と爲し、蘭洲初め諸同志の薦に因て、甃菴の長子竹山を學問所預りとぞ爲しける。
最終更新:2024年08月05日 18:02