十、蘭洲と懷德堂(學風一變と其の功績)
是より先き蘭洲が四方の志を抱きて、大阪を跡に東路さして旅立ちしは、懷德堂創立の翌享保十二年四五月比(書牘に初夏入府とあり)と覺し、江戶にて先づ何人に手依りしかは詳ならず、此の年十月江戶より甃菴に答へし蘭洲の書牘(遺稿并に鷄肋篇にも逸せしもの、大阪靑木氏所藏)に據れば、蘭洲は父執なる三輪執齋に依りしが如し、當時執齋は下谷の明倫堂に居りけん、明倫社中多疎文字。是以日夜蒙尋究と見わたれば、蘭洲能文の故を以て、執齋門下に歡待せられしならん、折節執齋は王陽明全集に訓點を施しつゝあり、蘭洲に囑して其當否を校せしめけるが、官府公移の文多くして、訓點の謬あり、蘭洲も亦困難したりと見ゆ、孟子左傳等の講讀をも補助し、日夜人の爲に役使せられて詩趣索然たりと云ひ、浪華は眞に樂士、江戶は下國なりと評し、水惡しく、火事多く、役人の無恥なる、大名の貧乏なる、小大名の放蕩なるを說き、士風は俳優の嘔すべきが如きに非ざれば、鎗持奴の愕くべきが如しと云ひ、東道の主人(執齋)飮を好まざるより、殆んど禁杯に同じとて、網島の鰻炙と銘酒とを思遣れる事ども、親友の間柄とて、思ふまゝに書記したる、いと面白し。
當時物徂徠猶世に在り、其の歿りしは翌十三年なりしが、蘭洲は相見ざるを以つて幸と爲せり、蘭洲が服部南郭を訪ひしは、南郭の文に、數年前見臨舊居とあるにて知らる、後年南郭は蘭洲を稱して、道德文章彬々乎
として備はると云へど、十四歲の長者とて、稱するに五井生を以せしに、蘭洲は服子遷と稱して同輩視せり。
蘭洲が二百石を以て津輕候の聘に應ぜしは享保十六年なり、然れば十二年初夏入府以來四年許は、教授を以て活せしなるべし、當時津輕と大洲と同時に招聘の禮至りけるより、蘭洲去就に迷ひて、之を故老に謀り、之を著筮に問ひて、津輕に從ひけるが、大洲藩は翌十七年を以て執齋の高足川田子半(稱半太夫)を聘し、執齋の明倫堂を大洲に移して藩學と爲せり、當時執齋諸侯に出入して、其の學頗る行はれたりしかば、蘭洲子半並に其の推薦にやありけん、其の津輕に在りし間の事蹟詳ならず、竹山撰の碑文には『進講する每に獻替隱す所なく、執政或は諷止すれど、而も言益劉切にして、上下敬憚せり、津輕は本と蝦夷の壤、俗甚だ陋しかりしが、先生扈して國に就くに及びて、人始て文獻の懿を知り、教化兆あり、既にして言ふ所を果さず、乃ち病と稱して事を致しゝに、有司先生の大器を知り、藩國に在るを樂まずと意ひて、輙ち沮抑して爲に通ぜず、先生懇するに歸老の心實に他なきを以し。久しくして遂ぐるを得つ、後再び聘して敦く勸むと雖も復た起ざりき』と云へり、安中の山田三川隨筆に、「五井藤九郞初め津輕へ二百石にて抱へらる、講釋聞く者一人もなし道行はるべからずとて暇を取れり、其の比四角の文字よむものは、幻術つかひと云へり』と見ゆ、蘭洲の文にも(送田子半序)弘侯に從ひて再び朔土に入りしが、祁寒堅沐、苦葢を被り、雨露を冐し、動もすれば輙ち吏務を命ずるも、性の宜しき所に非ず、乃ち遂に疾に罹り、累に不肖の身を乞ひて、間里の間に杖藜往來するを得たりと云へり、顧ふに津輕藩學稽古館は蘭洲退去五十八年後の寛政八年に創立せしもの、最初の督學たりし山崎蘭洲(稱圖書)は、壯時關西を歷游して、晩年の蘭洲を大阪に訪ひ(遺稿に送山生歸弘前序あり)しことあり、然れば蘭洲仕官の比の津輕は、文教未だ興らず、藩主も亦學を好まずして、儒者を待つに禮なく、往々命ずるに吏務を以しけん、是に於て蘭洲俸を棄てゝ去らんとするも、有司に抑留せられて、居る者九年にして、失意茫々、故郷に歸栖するを得たりしなり、時に年四十三。
蘭洲元文四年歸阪して上町に住居せり、固より教授を以て口を糊せしにこそ、此の比甃菴病氣勝にて日講も絕々なりければ、蘭洲徐々に學規の振作を說き、甃菴も亦喜びて教授を助けんことを請へり、其の再び懷德堂の助教として經を講ぜしは、遺稿に孟春上元一講とのみありて年紀なし、懷德堂内事記には、寬保三年癸亥九月右塾に御引移り有之と記したれば、歸阪してより五年の後にこそ堂中には住みけれ、咏懷の詩に僑居郷校畔。執經不覺疲と云へるもの是なり。
世の懷德堂を說く者、重を石菴甃菴に置きて、蘭洲の功績を知る者蓋し希なり、是れ蘭洲の懷德堂に於ける、常に助教の地位に甘んじて、未だ一たびも名を表面に顯さゞりしを以なり、然れども蘭洲は學主預人とこそ爲らざれ、懷德堂の教育に關しては、決して石菴甃菴の下に在らざるのみならず、大阪文學の根柢を養ひし上に就きては、其の功績殆ど二菴の上に在り。
懷德堂創立の初め、講師を求むるに當りて、甃菴は蘭洲にして諾せずんば、書院は有れども無きが如くならんと說き、蘭洲之を諾して始て講を開きしに非ずや、蘭洲東游十餘年にして歸れば、日々の講釋も絕々なりしを、蘭洲に因て學規を振興し、絃誦復た興りしに非ずや、爾來經を執て徒に授くる者二十年なり、初め堂規を揭ぐるや、石菴は菅兼山の覆轍に鑒みて、無緣の人は明に講席に入るを禁じたりしが、蘭洲西歸の後、尼崎町の年寄川井立牧(名雍、字子和、號桂山、醫者なり、詩を蛻巖に歌を長伯に學ぶ)より、無緣の人にも聽講せしめられては如何との申込あり、蘭洲の意見にて町內丈は無緣の人にても苦しからざる事に定めけり、是に於て當初の壁書末項は修正せられつ、甃菴歿して春樓學主と爲り、懷德堂定約附記といふものを作りしは、享保八年戊寅八月にして、三宅才次郎謹書とあり、奧の連署には五井藤九郞、中井善太、同德二、舟橋屋四郞右衞門以下、諸同志二十四人の名を連ねたるが、當初の定約には、道義の書のみを講じて詩文を修めざる規定なりしを、『餘力に詩賦文章或は醫術をも心懸は人へ、內證にて講じ聞せ、或は會讀に致し、或は詩會文會等致し候事は格別之義と存候』(萬年も內證にて醫書詩集等講じ聞せしとぞ)と改正して、華實並に收めんと期したりしは、蓋し蘭洲の發議なるべし、石菴詩文に長ぜず、甃菴詞章を重んぜず、是を以て從前の懷德堂は道學を主として、文華の觀る可き者なかりき、蘭洲に至りては學力の根柢も深く、詩文にも長じたりしより、此に學規を改めて詩文を加へしは、春樓の力に非ず、必ずや蘭洲の議に發しけん、是れ實に懷德堂學風の一變と謂ふべく、異日竹山履軒等の經術文章並に其の盛を致して、海內の欽仰する所と爲りしは、由來する所あるを知るべし、且石菴の學は鵺を以て稱せられしも、蘭洲は程朱を宗として、操守甚だ堅し、然れば附記の一則に於て、講師助講の外に、學德ある人を聘して講談を請ふは、三輪並河諸先生の例あり、『但し近年子思孟子を譏り、三教一致と申抔、別に一流を立候異說流行申候、ヶ樣の學問は縱ひ才德高名之人にても、主意相違いたし候へば、相賴ひ事可爲無用候』など、規定頗る嚴なるは、亦蘭洲が雜駁の弊を改めんとする主意に出でけん。
甃菴歿後の學主は、當代の耆宿なる蘭洲を推すべきこと當然なるに、蘭洲年已に老いて、且表面に立つを好まざりしより、春樓先師の子たるを以て學主と爲れり、是れ學と德とを以するに非ず、且病身にして躬行を以て率ふること能はざりしは、竹山も亦之を言へり、蘭洲に至りては然らず、竹山其教化を叙して、『乃ち率ふるに身を以し、弘毅淵默恭にして而も溫、懦を激して悍を化し、聲號天下に布聞しき』と云へり、蘭洲遺稿に懷德堂の風儀を稱して、『校中の諸君、小學を以て自ら律し人を格し、衣服劔佩の制より、東髪の高下、步履の疾除、皆時粧に効はず、華靡ならず、鄙俚ならず、各一定の模あり、世人之を視て以て校中の美風と爲し、以て郷閭子弟の範と爲せり』と記したるに觀れば、當時學校風とやらん學問所風とやらん名けらるべき風儀存して、大阪人の模範たりしものと見ゆ、是れ誰の作りし美風ぞや、踐履を重んじて、端莊齊整を尙びし甃菴と、文武に通じて(此の事後に說くべし)士氣名節を重んぜし蘭洲とに因て薰陶されし所なるべし、大阪の教育に於ける蘭洲の功績も亦大なり。
其の門下の成德達才、今一々記さず、唯其の門に竹山履軒の二人を出しゝを以て、蘭洲の蘭洲たる所以を知るべきのみ、蘭洲西歸の元文四年は、竹山時に年十一、履軒は八歲なり、甃菴は古人子を易へて教ふるの義を守り、其の二子に命じて曰く、五井君は子が畏友なり、汝等之を師とせよと(甃菴行狀)是に於て善太德二の兄弟は、幼より蘭洲の門に教を受けしなり、竹山が手習の手本は蘭洲の書なりき、蘭洲祝枝山を喜びしをもて、竹山も亦教に因て祝蹟を臨したりといふ、小は書道より、大は經說詩文章に至る迄、一に其の教を奉ぜざるなし、蘭洲歿せし時、竹山三十四、履軒三十一、鬱として一家を成せる者は、實に蘭洲の恩なり、蘭洲微せば則ち我が大阪に竹山履軒の二大家を見んこと如何あらん、而して懷德堂他日の盛を海內に鳴らせし所以の者、實に蘭洲の力量に根柢す、請ふ其の學其の著述に徴して、予が言の河漢ならざるを知れ。
最終更新:2024年08月05日 23:49