十一、蘭洲の學術著書
蘭洲家學を承けて程朱を尊奉し、其の說中正を尙びて、務めて偏固支離の弊を去れり、故に往々性命理氣の說に於て、別に一見解を具ふと雖も、學問の大本は程朱を以て依歸と爲せり、竹山は蘭洲の卓識獨見、往々前賢未發の旨を得たるを稱せしが、蓋し其長ずる所は攻駁に在り、故に莊より老に至るまで、程朱の爲めに侮を禦ぎて、排異を以て己の任と爲し、非伊、非物、皆壯時に成り、朱陸の辯口を衝きて而して發す、嘗て學弊を論じて曰く、陸王の學を爲す者は、問學を廢して事物を棄つ、其の弊や禪莊なり、仁齋の學を爲す者は、義氣を蔑して心性を疎んす、其の弊や管商功利なり、徂徠の學を爲す者は、修辭に局し、敬以て內を直くするの訓を遺る、其の弊や放蕩浮躁なり、闇齋の學を爲す者は、頗る嚴毅に過ぎて、雍容和氣に乏し、其の弊や刻薄寡恩なり、惟ふに玆の四學は、爭辯强聒して、道學乃ち四分五裂し、學者をして從ふ所に眩せしむ、若し孔孟之を觀ば、則ち必ず之が爲に長大息せんのみ、偏なく黨なく、中正の道、蕩々平々、唯聖賢の遺訓己に切なるを以て、心術德行の基と爲さんに如かず、如此くにして而して後乃ち四學の弊を免れん、夫れ水至りて而して渠成り、花謝して而して實結ぶ、物皆然り、學を甚だしと爲す、陸王の學は、是れ水未だ至らずして渠を求め、花未だ謝せずして實を求む、亦太早計と謂ふべし、是れ速ならんと欲するの私心なり、仁齋徂徠の學を爲す者は、涵養素なし、是れ始より水を潘ふるを知らず、渠の成る可き無し、樹を種ふるを知らず、實の結ぶ可き無し、不學無術と謂ふ可し、朱子の學、先づ地を掘て而して流を引き、根に培ふて而して實を待つ、固り頓悟直入の教に非ず、陸子の喜びざりしは宜なり、又心性を遺れ功利に志すの教に非ず、仁齋徂徠の悅びざりしも亦宜なりと、其說未だ必ずしも悉く蘭洲に發せず、而して其の前賢を視ること淺きに失するを嫌ふと雖も、亦能く其の末弊を言へり、那波魯堂の學問源流、及び柴野栗山の大江尹に答ふる書等、其の中崎伊物の弊を論ずるや、往々蘭洲の言と相似たり、豈原く所あるなきを得んか。
竹山は又蘭洲の學風を稱して曰く、史子百家鬭はざる靡し、汪洋閣肆、之を約に反せり、旁ら國史群籍を治め、讀史訪議、泊び萬葉集話、古今通、勢語通、源語通、源語提要を著はして、以て千載の深病を砭し、註家沿習の譌を訂せり、柝微闡幽の功實に偉なり、豈學は萬古を洞貫する者に非ずやと、其の道學を稱して曰く揭ぐるに博約の旨を以して、偏を矯め頽を拯ひ、以て人心を正し、文を行に合す(中略)豈道は以て邪說を息むるに足る者に非ずやと、其の文章を稱して曰く、文士爭ふて王李の餘唾を拾ふ、乃ち振ふに雄渾の辭を以てして、痛く頑習を懲らせしかば、四方轍を改めて之に歸しき、豈文は能く旣倒の瀾を回す者に非ずやと、竹山の先師を表彰する所以の者、必しも溢美ならず、父祖の傳を承け、和漢の學を兼ねしは、大家の典型あり、而して名節を尙びて文行一致せるは、道學先生たるに背かず、其の文瑕瑜並に見はるゝも、暢達雄健、能く言んと欲する所を言ひて、言能く物あり、翩々たる文士の比に非ず、此の比の學者にして、文章を能くすること蘭洲の如きは希なり。
竹山は蘭洲の墓に銘して通儒全才の語あり、蘭洲の學術は如何にも多方面なり、一に道學、二に文章、三に經術、經術甚だ深からざるも、最も易を好み、懷德堂にても易傳を講じたり、四に史學、是れ曾祖父守香以來の家學にして、顯家義貞檄、豐相國復明主書等の擬作、往々其の史眼を窺ふ可し、五に詩は多く作らざれども、往々誦すべき者あり、六に和歌は儒者の歌人と云はれし執齋に劣らず、萬葉古今勢語源語に通ず、七に神道は十厄論あり、夙に神儒一致の說を持したりき。八に排佛は承聖篇あり、經濟を說きては郷校私義あり、最も名節を尙び行義を砥礪したるは、太宰春台が四十六士論を駁せし一篇に徵すべし、而かも獨り文のみならず、武道は弓を好み、又兵論三篇ありて、兵學をも講じたりしを知る、氣魄頗る大、規模小ならず、眞に是れ通儒全才にして、竹山履軒の師たるに背かざる慶元以來の一大家なり。
蘭洲は等身の著書あり、其の目左の如し。
刪正日本書紀四卷▲非伊篇▲非費篇▲承聖篇(二冊)▲讀史訪議▲萬葉集詁▲古今通二十卷(五册)▲勢語通四卷▲源語詁三卷▲源語提要▲蘭洲先生若話三卷(實は二卷)▲和歌新題百首▲喩叢一卷▲駁太宰春台四十六士論▲文章廻瀾一卷(以上未刊)
非物篇六卷▲鷄肋篇二卷(後に辯ず)▲質疑篇一卷▲瑣語二卷(以上既刻)以上懷德堂遺編目錄所載
左傳蓄疑附事態一卷都十二冊▲爾雅翼四卷▲冽菴日纂一卷 以上太田氏蒐錄書目
鷄肋篇八卷四冊(濱氏藏)▲蘭洲遺稿二卷(太田氏藏)
以上或は目ありて其の書現存せざるもあらん、人の祕篋に現存するも、世上に流傳せざるもあらん、今予が見し所の者を概說すべし。
非物六卷は物學攻擊の先鞭にして、蘭洲の名を馳せし所以なり、蘭洲は家塾に在りし時、護園隨筆を讀みて徂徠の能文を知り、學則を讀むに及びて、異撰の書なるを悟り、後ち江戶に游び、辨名辨道及び論語徵を得て之を讀み、聖人の道と相背馳し、且つ疏脫考を失ふを以て、抄錄して疵瑕を指摘し、津輕より歸阪せし後ち、蒐輯して篇を成せりといふ、時に大阪に井狩雪溪(通稱彥三郞、大阪の人、字義に精し、明和三年丙戌十月十九日歿す、享壽不詳)として、隱れたる學者あり、嘗て文を爲りて論語徵を駁しけるが、醉墨生(名字不詳)といふものをして其の文を蘭洲に示さしむ、蓋し非物の著あるを知てならん、蘭洲雪溪に與ふる書には、議論明備、鑿々據あり、一二鄙見と相符する者ありと云へり、其の後ち二人の交は結ばれけん、奧田拙古の筆記に、蘭洲教を雪溪に請へりとあるは、我佛尊しの誤なり、當時蘭洲は今猶時々改竄しつゝありとて、非物を雪溪に示さゞりき、既にして蘭洲歿し、竹山謹んで遺編を守りしが、明和三年非物を完校し、又其の說を祖述して、非徴八卷の稿を翌四年に脫し、天明四年甲辰を以て非物非徵七冊を合刻せり、是より先き尙齋門下の蟹養齋が非徂徠學一冊を尾張に刻せしは、明和二年にして、非物非徵の刻に先つこと二十年なれども、非徂徠學の自序は寶曆四年に成りて、蘭洲が徂徠歿後直に非物の稿を起せし享保十四五年に後るゝこと、殆ど二十餘年なるべし、其は兎まれ、物氏を攻めて程朱を護する者、皆關西に起れるは奇ならずや、質疑篇一冊、瑣語二冊の刻に入りしは最も早く、明和三四年比ならんか、質疑篇の五常の辯は得意の說なり。
蘭洲若話二冊近刻の二字、瑣語の奧に見ゆれど、遂に刻するを果さず、寫本を以て傳はる、國字の隨筆なり、承聖篇二冊も亦寫本にして、寶曆七年に成り、國字もて佛法を破せしものなり。
萬葉集點と源語提要とは未だ見ざるをもて、其冊數を知らず、勢語通は、伊勢物語を內卷二冊外卷二册に分ち、業平の時を慨き世を憂へし事蹟を內の卷として、好色の寃を雪ぎ、實事に非ずして淫れたる物語を外の卷として注を施せり、一人の女に讀ませんとて寳曆元年に作りしものなれば、いと親切にして、女學校などの參考書と爲すに足れり、古今通五册は定家の遺書、顯昭の注、榮雅の抄、契沖の餘材抄などに、意見を附して注解したる者なり、源語話は天文、地理、時候、居處、宮室等の目を分ちて之を注したり、此の書天明四年に、浪華黃備園主人と匿名せる醫師、源語梯と改題して、いろはに分類し、或は略し或は敷衍して出板せしことあり、竹山絕板せしめんとせしも、書林の愁訴已むを得ず、辯を卷首に載せて賣らせたりき、新題和歌百首は、題奇にして歌面白し、甃菴其の外和せしも多かりけり、以上は寫本にて世に行はる、但し先哲叢談に載せし春曙百首は未だ見ず、以上蘭洲の歌學なり。
非伊は仁齋攻擊ならん、其の大意は遺稿に在り、非費は何の書なるやを知らず、刪正日本紀、讀史訪議は、家傳の史學にもや、文章廻瀾は、先儒の明文を評論せしを輯めし者なること、其の序文に見えたり、以上並に未だ之を見ず、其の餘左傳蓄疑、冽菴日纂、爾雅翼、喩叢等は、其の名に因て其の書を推知すべきも、亦現存するや否やを知らず。
蘭洲の文は、先哲叢談にも世多く傳らずとて、烈婦溺死記一篇を收錄したり、予も亦散逸傳はらざるにやと思ひしに、鷄肋篇及遺稿の儼存せしは誠に幸なり、特に濱氏藏本は蘭洲の手稿らしく、筆跡頗る相似て、塗抹の痕、後人の加筆とは見にず、最も珍重すべきなり、鷄肋篇を遺編目錄に已刊とあるは誤なり、總て四卷合本二冊、文凡そ壹百首、詩凡二十七首にして、壯時の作多く、彼の駁春臺四十六士論、及び兵論、狐妖論、郷校私議等、得意の作皆本篇に收載せり、別に冽菴漫錄四卷二冊を附して、合本四冊と爲し、題して蘭洲先生遺稿と云へり、料の項語質疑篇は、此漫錄中より抄出したるものなり、太田氏藏の蘭洲遺稿は、鷄肋篇と重複する者十六篇を除きて、文の題ある者凡そ三十五首詩凡そ十三首。中に就て古學論、懷德論、性論、天論、知行論等、學術に渉る者多く、其餘無題の隨筆は、長短百餘條、或は學を論じ、或は人を品し、或は往事を叙したる、悉く皆晩年風後の作なり、蘭洲中風を病むも、右手纔に健にして、筆を執るを得ければ、一室に閉居して唯筆硯に親しみけるが、平生不遇の上に貧苦病苦に迫られしを以て、其の筆一種航髒不平の氣を帶びて、痛快の語多く、往々平允を失ふと雖も、異彩陸離、光焰人に迫り、蘭洲の面目躍如たり蘭洲屢自ら不佞言に訥なりと云へり、而して著撰に從事して風後猶廢せず、何ぞ其の筆に敏なるや。
最終更新:2024年08月05日 23:54