十二、蘭洲の風采人物(其の晩年と子孫)
蘭洲に畫像なし、其の風来を偲ぶべき者は、碑文に『長け七尺に滿ちず、而して豪宕英邁、昂々不群、諸先達許與して奇材と爲す』の數語あるのみ、年少氣銳の日は、六尺有餘の好漢、意氣一世を壓し、雨森芳洲をして酒を被りて氣を使ふ者と思はしめしと云ふ、壯歲兩刀を横へて藩國に游事す、其の書香劍氣、奕々人に迫りて、市井の態なかりしも宜べなり、實に彼は大阪の町儒者と爲りても、鷄群の一鶴たるに負かず、竹履二子の豪邁爲落なりしも、亦其の師に似たるなるべし。
其の平生は如何ん、竹山の記す所に據れば、氣字益然醇粹、人望んで其の大成を知る、人と交れば豈弟にして厓幅を徹し、言動必ず忠信を以し、狡僞の極と雖も欺くに忍びず、愆を繩し理を辨ふるに至りても、亦心平に氣和して、見る者愛重せざる無かりきとぞ、是れ官游西歸後の蘭洲、已に圭角を消磨して德器を成就せし比の面目なるべし、爾來一個窮措大を以て世を終りしが、豪華を競ふ大阪に住むこと前後數十年の間、少しも其風に染まず、戶を閉ぢ帷を下して、耳聞かざるが如く、心を墳典に潛めて、里間の態は解せざる所多かりきとなん、蘭洲は眞個學究なり。
蘭洲は實に不幸なる學者なり、少時は貧苦に逐はれ、壯歲文武の奇材を侯國に試みんとして志を得ず、歸來徒に授けて、氣味の寒酸、人の堪へざる所なるも、晏然として之に居り、名節を砥礪して、取與を苟せず、自ら奉ずること甚だ薄き中にも、寡居せる女兄の子を失ふて依邊なきを引取り、其が中病に罹れるを看護して其の喪を送りき、蓋し孝友は天性に出でたり、蘭洲常に禀賦壯實を誇りしが、年六十五の寶曆九年には、中風に罹りて遂に支體不隨となれり、母も姉も中風なりしが、蘭洲は酒量いと大なりしを以て、又此の疾に罹りしならん、此の時甃菴歿して間もなく、竹山兄弟は猶三年の喪を終らざりしに、老師の病發するや、全く引取りていと懇に介抱し、弟の履軒をして蘭洲の有馬湯治に隨從せしめ、又其の一女を養妹と爲して出嫁を約するなど、骨肉も及ばぬ情義を盡しゝは、流石に竹山の世誼を重んじ師恩を思ふ誠に出でけん、いと難有き所行と謂ふべし、有馬より歸りし後は、一室に閉籠りたりしが、右の手は幸ひに筆を執るを得はるより、日々文を作りて悶を遣れり、如此きもの四年、累百七十篇に及べり、蘭洲晩年著述に志しゝをもて、此の疾に罹らざらしめば、其の業此に留らざりけん、いと惜むべきなり。
蘭洲常に自ら資質淡泊と云へり、然ればにや蘭洲に配なし、嘗て一妾を置きしは、姉の中風を介抱せん爲にもやありけん、一女ありし外に子なかりけるより、『不幸七十に近くして兒息の侍養緩急に備ふるなし』と嘆じつゝ。
おのこゝもたらて宗たえん事のいとおしけれは
病する身をうたかたの消えやらて寄邊もなみの行方悲しき
と詠めり、病中其兄桐陰の計を聞きて。
せうとの身まかりたまふける時
如何にせん半朽ちゆく深山木に連る枝のたねしなけきは
年ふりて片枝枯れゆく老木には春にさくらの花も匂はす
如何に心細かりけん、斯る中にも賴有舊相識。重義且輕貴。日夜來保護。免爲溝中屍と吟ぜしは、竹山履軒其の他門人の情義に篤きを、校とも柱とも賴みければなるべし、不自由なる中風の身には、存養の功深き人も、さま〴〵思ひ煩ひけん。
古の聖は唯今日を樂しみて、命の事はすべて天に任せ給ふとぞ、されど身につける病を、よも樂しとはおほさし。
たのしさは心にあらなん病していけるから社くるしかりけれ
とよめり、貧苦病苦もて、人の周郞を煩はさんことの心苦しくやありけん、答問の一篇には、絕食して生を縮めんとせしことを記せり、眞に是れ學人の大不幸に非ずや、斯くて病に臥すこと四年にして、寶曆十二年三月十七日に終りき、享年六十六なり、臨終の前の歌に。
死ぬべく覺えけれはひとつ子のむすめのかたはらにあるを見て
しなん命惜しからぬ身も親と云へは子のなけくらん事そ悲しき
哀とも云ふ許なし、此の女子の名はせつ、竹山の妹分にて幕臣永井伊豫守尙伴(初め左門)の大阪留守居(屋敷は上本町三丁目)長島宗助に嫁しき、(安永九年十二月二十九日歿、實相寺の喬靑孺人墓是なり、)宗助名は恭寅、號は廉齋といふ、(文政五年六月二十八日歿、同寺に廉齋長島君墓あり、)蘭洲若話を校せし外孫長島宜泰は其の子にして、竹山門人なるべし、長島氏の子孫は詳ならず。
蘭洲歿するや、懷德堂は二七日教授を休みて弔意を表し、九品寺の先坐狹隘なるより、之を東寺町の實相寺に葬れり、此は住友氏の菩提所なり、此の比住友の分家入江氏の祖に入江育齋(名友俊、通稱理兵衞、和歌を好み、崎門垂加學を喜び、手錄三百卷あり、寛政十一年七月十二日歿、年八十二、(といふ者、蘭洲に師事せしをもて、瑩城を廣くして碑石を立たり、竹山碑銘履軒篆書の豐碑屹然たり、賴春水の在津紀事に云く、蘭洲の墓は、竹山銘を爲る、少壯の作、文辭甚だ巧に、雕鐫も亦精なり、而かも石質良らず、一面剝泐して數字已に泯びたり、故に墓碣は石を擇ぶを先と爲し、工を擇ぶは之に次ぐと、其碑面剝泐せるは今日に始まりしにあらで、春水在津の比よりの事と見ゆ、其の墓側の慈貞媼墓は、蓋し其の側室なり、(寛政元年已酉四月二十六日卒)子孫なきをもて其の宗家に附祭すとあるは、江戶なる兄桐陰の家にこそ。
最終更新:2024年08月05日 23:57